赤い食卓
どうしてさっさと殺さないんだろう。
ただ、そう不思議に思った。
冷蔵庫から、ニンジンを取り出す。ジャガイモとタマネギがないと思ったら、冷蔵庫横に置かれたダンボールの中に入っていた。
「ねぇ」
ジャガイモとニンジンを水で洗う。滅多に料理なんてしないので、包丁の扱いには自信がない。無理せずピューラーで皮を剥くことにした。
「それ、カレー?」
ふと、視界の端に赤黒いものが映った。いつの間にこれほど距離を詰められていたのか。それは男の長い黒髪だった。
「そうです」
ジャガイモを見つめたまま声を返す。
「普段料理はあまりしないの?」
顔を覗き込まれている気配がする。
「そうですね…滅多に」
二つ、ジャガイモを剥き終えると、ピューラーを置き、シンクの下の棚の開き戸の、内側に差し込まれた包丁を取り出す。
「でも、それだけ出来れば充分だよね」
慣れない手つきでジャガイモの芽を取り除く。
「俺、料理とかしたことないからさ」
一つ目のジャガイモの芽を取りおえ、まな板の上で適当な大きさき切る。そして、二つ目に手を伸ばす。
「刃物を料理のために使ったこと、ないんだよね」
「……」
手から滑り落ちそうになったジャガイモを慌てて掴みなおした。
気を取り直して、二つ目のジャガイモに取り掛かる。
「最近ロクなもの食べてなかったからさぁ」
包丁を動かす。ただ、ひたすらに。
「カレーなんて食べるの、久々だなぁ」
二つ目のジャガイモを切り終えると、包丁をまな板の上に起き、もう一度ピューラーに持ち替えた。
「カレーは好きですか?」
今度は、ニンジンの皮を剥く。無意識に、口が動いていた。
「うん、好きだよ」
包丁は、まな板の上に無造作に置いたまま。
「そうですか」
わたしは、美味しいカレーを作ることだけに集中した。
ニンジンを切って、タマネギの皮を剥いて、タマネギを切って、冷蔵庫から取り出したお肉も切って、全部炒めて、鍋で煮込んで、カレールーを入れた。
カレーの匂いが、部屋に充満していた鉄臭い匂いを侵食していく。
丁度カレーが出来上がったとき、朝セットしておいたご飯も炊きあがった。
我ながら、完璧なタイマー設定だと思った。
食器棚から、カレー皿を二枚とコップを二つ取り出す。引き出しから、スプーンも二本。
レタスを適当にちぎって、コーンとミニトマトを添えて、簡単な野菜サラダも作った。
お皿にご飯をよそって、カレールウをかける。コップに水を注ぐ。それらを全部テーブルに並べた。二人分。
「どうぞ」
カレーの匂いのする赤い部屋で。
赤く染まった男と食卓を囲む。
「ありがと」
この状況がなんなのか、理解できるはずもない。
「いただきます」
律儀にそんなことを言ってスプーンを運ぶ男をじっと見つめる。
今はだだ、料理の感想を待っていた。
「あ、おいしい」
そう言って笑う、この男は何なのか。
「君も食べたら?」
男に促されて、自分もスプーンを運ぶ。
カレーライスは普通に美味しかった。
そして、二口目を口に運ぼうとしていたとき、
「何をしているのですか」
突然の第三者の声に、わたしは思わずスプーンを落とした。
「何って、食事」
スプーンを進めながら、男は平然と言い放つ。
気がつけば、開けっ放しにされたリビングの扉の前に、またもや見知らぬ若い男が立っていた。
「なかなか戻って来ないので様子を見に来てみれば…どうしてこんな状況に?」
眼鏡にスーツ姿のその男は、わたしがずっと疑問に思っていたことを口にした。
「ご馳走してくれるって言うからさ」
男はスーツの男には目も向けず、ひたすらカレーを食べ続けている。
「だからどうしてそうなったのです」
呆れたような表情をしながら、それでもスーツの男は再度尋ねる。
「どうしてもなにも。声上げられる前に殺るつもりだったんだけど、それどころか料理作り始めちゃうし。ずっと横で見てたから変なものは入ってないよ」
「そういう問題じゃないでしょう」
「だってお腹空いてて」
二人のやり取りをただ呆然と見ていることしかできない。
「それで?またナイフ振り回したんですか。こんなに散らかして」
男の態度にそれ以上の追求を諦めたらしいスーツの男は、話題を変えるように言った。
「だから、俺に頼む以上それは諦めなって」
「まぁ諦めていますけど。それでも溜息は吐きたくなります」
スーツの男はそう言って、あからさまに溜息を吐く。
「だってこの部屋、庭の植木でちょうど外から見えないしさ。また掃除屋に頼んでおいてよ」
「全く。すっかりあなた専属の掃除屋になりつつありますよ。もっと綺麗にできないんですかね」
「それじゃあ楽しくないからね」
男は笑いながらそう言って、最後の一口を口に運んだ。
いつの間にか、野菜サラダも食べ終わっていたようだ。
「…で、どうするつもりなんです」
「どうしたらいいと思う?」
気付けば、二人の視線が自分に向けられていた。
「消しておいたほうが無難でしょう」
「えー…勿体なくない?」
どうしてこんな話をわたしは冷静に聞いていられるのだろうか。
「だってさ、両親殺した相手に夕食ご馳走するとか、この子絶対おかしいって」
「だから何です」
「だから勿体ないって言ってるの。どうせさ、娘にまで仕事の話なんてしないだろうし、元々娘まで殺るつもりもなかったし」
死んでも当然。生きられたら奇跡。だからこんなにも落ち着いていられるのか。
「…珍しいですね。あなたがそこまで殺すことを拒むなんて」
「あー…ていうかさぁ、俺しばらくここに滞在していい?」
「は?」
「え…?」
でもさすがにその言葉には動揺を隠せなかった。
「…何を言っているのですか。そもそも、あなたが滞在地を作りたがるなど珍しい」
「最近携帯食ばっかだったからさぁ、やっぱり手料理っていいなって」
「わたし、料理なんて全然」
黙って聞いていたが、思わず口を挟んでいた。わたしが作れるものといったら、カレーと、野菜炒めと、あとは小中高の家庭科の教科書に載っているものくらい。
「全然ってことないでしょ。あれくらいのことができれば」
「あなたはどうしていつもそう勝手なのですか」
スーツの男は、こめかみをおさえながら呟いた。そして、
「…あなたは」
はじめてわたしを見て、言った。
「何故こんなことを?」
何故、と言われても。
「家に帰ったらすぐに夕食の支度をしなきゃと、思ったいたので」
理由なんてない。
家に帰ったらやろうと思っていたことをただやっただけ。
「ね?この子、絶対おかしい」
わたしの様子を面白がるように、男が言う。
「まぁ、あなたがどう暮らそうがあなたの勝手ですが。あなたのプライベートにまで口を出す気はありませんし」
「うん。その程度には俺のこと信用してるでしょ?」
「…まぁ」
スーツの男はそう答えると、もう一度深く溜息を吐いた。
「あなたなら、上手くやるでしょう。判断も、その対応も」
「まかせて」
男はにっと笑って答える。
「…明日の朝までには掃除屋を手配しておきますから、夜に侵入者があっても殺さないでくださいよ?」
「りょーかい」
この状況が何なのか、さっきよりも更に理解できない。
「では、私は帰りますので」
呆然としている間に、状況はどんどん進んでいく。
スーツの男は、通路の向こう側へと消えてしまった。
「………」
どうして、こんなことに?
死の覚悟はできていた。でもこんなものは完全に予想外だ。
「ねぇ」
声を掛けられ、視線を向ける。
「ここで死んでも、生き延びられても、どうでもいいって顔してるね」
改めて男の姿を観察する。
細身の長身。黒のロングコート。腰まである長い黒髪を濡らしていた赤い液体は、既に乾いて黒くなっている。
今はもう真っ黒に見えるコートも、少し前までは赤かったはずだ。
「殺すことはいつでもできるけど、殺した人間を生き返らせることはできないんだよ」
その長身を屈めて、わたしの顔を覗き込んでくる。どこか中性的で、整った顔立ち。細くて鋭い瞳に、くっきりとした二重のコントラスト。
「俺は、できるだけ面白くしたいの。簡単には死なせないよ」
色素の薄い瞳を見つめる。その瞳には、わたしが映っている。
「でもまぁ君は、死にたいわけでもないんでしょ?」
「………」
普通に生きていれば…日々を繰り返して、いつもと同じように過ごしていれば、まだ当分の間わたしは生きるだろうと、ただ客観的にそう思っていた。
「どうでもいいんです」
もしわたしがここで死んだとしたら、思っていたよりも早かったなと、しかも予想外な死に方だったなと、ただ客観的にそう思うだろう。
「生き物にとって一番大事なものを君は持っていない。それってとても面白いと思うよ」
今まで全く気付かなかった。
「だからさ、今日からよろしく。檎実ちゃん」
いつも客観的にしか見られないのだとしたら、この状況は更に現実味がなくて。
「…あなたは」
男の口から出た言葉が自分の名前だなんてとても思えないけれど。それでも
「なんて呼んだらいいですか?」
わたしの名前だけ知っているなんて不公平。
「お好きなよーに?」
けれど男はそんなことを言う。
「名前は…」
「君が付けてよ。俺の名前」
「え」
「だからさ、君の好きなように」
まぁ名乗ってくれたとして、それが本名である確率は低いけれど。
「じゃあ……紅華さん」
「…クレカ?」
「紅に中華の華で、紅華」
唐突に言われて、けれど唐突に思い付いた。
たぶんそれが第一印象。
「なんか厨二っぽい」
「それは…あなたの存在そのものだと」
「はっ、言うねぇ」
男が鼻で笑う。
「でも確かに、そうだろうね」
だってこんなの、現実的じゃない。
「いいよ。好きなように呼んで」
非現実的な名前のほうが、余程しっくりくる。
「じゃ、とりあえず俺、この家の書斎と寝室貰うから」
そう言い、男ーーー紅華は、わたしに視線を向けたまま、身体を起こした。
「血みどろだし、シャワー浴びてきていいよね?…このコートももうダメかなぁ。掃除屋に処分して貰おう」
自然と、見下ろされる形になる。わたしも女子の中では高い方だが、それでも20cm以上は差がありそうだ。
「…どうぞ」
それが何故だか、なんとなく少しだけ、気に障った。
だって、名前も教えてくれなかったのだし。
だけど、此処は、わたしの家だから。
「お好きなように」
わたしが、好きなようにさせてあげるの。
紅華が赤いリビングから姿を消して。
わたしは、今日家に帰ってきてからはじめて、両親の顔を見た。
「………」
彼らの話からすると、明日の朝にはこの二人も消えてしまうのだろう。
「こんな娘でごめんね」
わたしも、今日はじめて知ったけれど。
「わたしの物語の一部になってね」
平凡な日常が終わり、物語は動き始める。
BADENDでも、HAPPYENDでも、面白くてもつまらなくても何だっていい。
わたしはそれを、ただ眺めていたいだけなんだ。
一番狂っているのはたぶん主人公。




