第十話 散花狼藉
グラウィオール帝国帝都アルゼンタム。その王宮の外れにある『罪人の塔』の最上階。
貴人用の特別隔離施設の扉の前で、仁王立ちして周囲の様子を窺っていたグラウィオール帝国衛兵の鎧冑をまとった中背の男は、『ドスドス』といかにも鼻息荒く、床を踏み締めて進む足音の後、一拍置いてから、なにか軽いものが床に倒れる音を、扉越しに聴いて、冑の下でため息をついた。
これからなにが起こるのかは予想できる。
できれば、そうならないように願っていたのだが、どうやら事態は最悪の方向へ向かっているようだ。
「……しかたない。これも成り行きか」
彼は手にした短剣――先ほど預かった装飾過多の大教皇の懐剣――を無造作に剣帯に捻り込み、静かに背後の扉を開いた。
この『罪人の塔』は本来が監獄なのだから、当然、内側からは鍵が掛からない。外から鍵を掛けるしかないのだが、今日は本来の用途ではなく極秘会談の場所として使用され、またなにか事があればすぐに部屋の中に入れるように鍵は掛けずに、開けっ放しの状態になっている。
音を立てないように部屋の中に入った男は、奥の寝室から聞こえてくる、微かな衣擦れの音を聴いて、密かに安堵の表情を浮かべた。
――どうやら、まだ事には至ってないようだな。
さらに足音を忍ばせて――重い鎧を着用しているというのに、まったく物音を立てないその様は、騎士というよりも名うての間者か暗殺者のようであった――寝室へと足を進める。
影に注意しながら、体を沈めてそっと中の様子を窺うと、ちょうどウェルナー大教皇が苦心しながら脱がせた緋雪のドレスを、ぽいと無造作にベッドの下に放り投げたところであった。
残るは小振りの双丘と秘所を守る2枚の布のみ。
意識のない緋雪にのしかかって、雪のように白い肌の感触を堪能している大教皇は、まったくこちらに注意を払っていない。
まったく鍛えていない、油断した腹回りや、生っ白い尻が丸見えである。
――ふむ。これなら少しぐらい大胆な行動をしても大丈夫だな。
そう判断した男は、自分の身支度を確認して、『ああ、これが手頃か』という感じで一つ頷き、大教皇から預かっている短剣を抜いた。
「ハァ、ハァ、なんという手触りだ。天女の羽衣もこれほどではあるまい」
大教皇が鼻息も荒く、最後の防波堤へと手を伸ばそうとしている。
「さて、それでは……」
上下の下着の紐に指を掛けたところで、音もなくその背後に忍び寄っていた衛兵がしゃがみこんで、手にした短剣の切っ先を、大教皇の尻の中心部へと狙い定めた。
「はい、それじゃあいきますんでー。息を吐いて、力を抜いて楽にしてくださいねー」
「ん?」
「3、2、1、ほいっ!」
男の手にした大教皇の短剣は、その本来の持ち主を鞘として、根元まで深々と収まったのだった。
◆◇◆◇
「死ね! 死ね! このクズが! ゲスが! どこが聖職者! なにが誠意だ! だまし討ちでレイプしようとするなんて!! 死ね! 死ね! さっさと死ね!!!」
激高した緋雪が、下着姿のまま容赦なく、尻に短剣を生やしたまま、白目を剥いて口から泡を吹き、下半身からおびただしい出血をしているウェルナー大教皇を、足で蹴り飛ばしていた。
ゴスッ!ゴスッ!と鈍い音がして、変わり果てた顔から流れ出た鼻血が、負けず劣らずの血溜まりを作る。もの凄い勢いでHPが減っていく大教皇の姿に、めちゃくちゃ引きながら、冑をとった衛兵姿の黒髪の男が、恐る恐る声を掛ける。
「あ、あの……お嬢さん、それ以上やったら、洒落抜きで死ぬんで、そろそろ……」
振り乱した黒髪の間から、ぎらりと凶暴な目つきで、男をひと睨みする緋雪。
「殺すつもりだから、当然っ!」
「いや、あの、お気持ちはよくわかるんですけど、さすがに殺すのは、いろいろと問題が……」
「問題なんてないよ! ごちゃごちゃ言うなら聖王国ごと消し飛ばせばいいことだろう!!」
ここまで過激に激怒するとは男の方も予想外だったらしく、なんとか緋雪を翻意させようと、大慌てで言葉を重ねた。
「いやいや、今回のことはあくまでこの馬鹿教皇の一存で、他は全然知らんことなんで、さすがにそれはやり過ぎかと……」
「んじゃ、百万歩譲っても、このゲスはこの場で殺しても文句はないだろう?」
本気で頭を潰すつもりで片足を振り上げる。
「ま、ま。気持ちが晴れんのはわかりますけど、ここでコレを殺したら、結局は戦争になるんで、なんとかこの半殺し状態で許してもらえませんか? 自分の顔を立てると思って」
拝み倒しまくる男の姿を視界の端に納め、ふーっ、ふーっ、と荒々しく肩で息をしながら、緋雪は上げていた足を思いっきり振り下ろした。
ズンッ!と一撃でその足がベッドを踏み抜いて、絨毯を敷いてある床まで貫通した。
細い足を引き抜いた緋雪は、ギリギリ直撃を逸れたウェルナー大教皇のボコボコになった顔から、ついと視線を外した。
「こんなゲスの顔も見たくない! 今回は助けてもらった恩があるから君の言葉に従って見逃すけど、今後、二度と関わるつもりはないからね!」
「へえ、すんません」
頭を下げながら、懐から取り出したヒールポーションを、ほとんど死に掛けの大教皇へと、適当に振り掛ける男。
取りあえずHPは戻ったが、尻の花弁を散らして刺さったままの短剣はそのままにして、手際よく両手足を縛る。
その間に緋雪は床に転がっているドレスやらソックスやら、大教皇に触られた衣装を嫌そうな顔で拾って着込んでいた。塔の内部では、収納スペースが使えないために、着替えを用意できないせいである。
塔を出たらさっさと着替えて、お風呂入って、今日着ていた衣装はさっさと捨てようと決意する緋雪だった。
「そういえばさ」
最後に黒のパンプスを穿いて、トントンと具合を調節しながら、ふと気になったという風に男に尋ねる緋雪。
「なんでここにいるの、影郎さん?」
訊かれた男――衛兵に変装していた影郎は、ベッドの上でずっこけた。
「――いまさらでっか!?」
◆◇◆◇
「と、言うか、普通は『なんで生きてるの?』じゃないんですかね?」
寝室から移動した隣部屋――奇しくも以前に自分が殺された場所の辺り――の椅子に腰を下ろして、緋雪が手ずから備え付けの茶葉で淹れてくれたお茶を、ありがたそうに飲みながら影郎が首を捻った。
「………。ああ。そういえば死んだんだっけ」
忘れてた、と自分の分のお茶を飲みながら続ける緋雪。
「なんか自分の命、エラく扱いが軽いんと違います? 正確にはお嬢さんらに殺されたんですけど?」
若干、恨みがましく言うも、緋雪は特に動じた風もなく、カップをソーサーに戻した。
「でも、死んでなかったんでしょ?」
「いや、しっかり死にましたよ。死んだフリしたのは確かですけど、きっちり死んでましたから」
嫌そうな顔で訂正する影郎だが、元気一杯そういわれてもまったく罪悪感の湧かない緋雪なのであった。
「それと、自分、いまは前の勤め先を辞めて、実質フリーなもんで、ここにいるのは単に個人的な好奇心ですわ。三ヶ国協議とかいいネタになりそうだったもんで。――ま、お陰でお嬢さんをお助けできたんで御の字でしたわ」
胡散臭げに影郎の顔を凝視する緋雪だが、相変わらずなに考えてるのか知れない彼の表情から、その内心を推し量ることはできなかった。
「……まあ、それについてはお礼を言わせてもらうけど。でも、黒幕のところを辞めてフリーとかは、ちょっと信じられないね」
「ま。そうでしゃろね」
苦笑いする影郎。
「というか、そんな簡単に抜けたりできるものなの? 裏切り者には死、とかないわけ?」
「ありますよー。『死』というか『存在』を消されるので、これやられると完全蘇生を唱えようが、蘇生薬を使おうが復活は無理ですなあ。――ま、これがあるから他の連中も従ってるわけで」
ああ、そういえば課金アイテムに蘇生薬なんてあったなぁ。バイト代で課金する時は、ほとんどガチャポンだったから忘れてたけど。
そう思いながら、緋雪は当然の疑問をぶつけた。
「なんでそれで生きてるわけ?」
「日頃の行いですわ」
「…………」
悪びれることなく、ぬけぬけと言ってカップを空にした影郎は、「お茶、もう一杯いいですか?」と厚かましく催促した。
無言で2杯目のお茶を淹れる、緋雪の慣れた手つきを微笑ましく――傍目には胡散臭い笑みにしか見えないが――見守りながら、影郎は続きを口に出した。
「まあ、一か八かの賭けだったんですけどね。ちょうど手元に万病に効く変わった薬がありまして、これでちょいと体質を変えておいたんですわ。で、気が付いた時には土左衛門みたいに流されてまして、焦りましたけど、どうにか死地を脱したということで。――ああ、すんません」
礼をいって受け取ったカップの中身を美味そうに啜る。
「ふうん。……まあ、果てしなく怪しいとは思うけど、仮に、万一その話が本当だとして、これからどうするの?」
「そうですねぇ。前の旦那さんと元同僚…3~4人いるんですが、これは自分が死んだと思ってるんで、しばらく身を隠すことにします。――それと、実は薬の副作用で、現在ちょいとままならないことがありまして、こっちを先に何とかしないとマズイところですな」
困ったと言いながらも、まったく困窮した様子のない影郎を、胡乱な目つきで見る緋雪。
なにげに敵の戦力を教えてくれているが、明言を避けたどっちつかずの態度に、ますます疑いの視線が強くなる。
「……なんか他にも隠してることあるんじゃないの?」
影郎はあっさり頷いた。
「ええ、かなり隠してます。でも、まあ、これは個人的な事情なので、お嬢さんに直接関わる事ではないので……ああ、そうそう、ちょっとお聞きしたいんですけど、お嬢さんはまだシマさんと戦う予定ですか?」
訊かれた緋雪はしばし煩悶しつつも、しぶしぶ頷いた。
「まあ、正直、聖王国とはもう金輪際協力するつもりはないけど、シマさんはシマさんで脅威だからねぇ。これ以上、どうしようもなくなる前に叩いておくつもりだけど?」
「そうですか。なら、お嬢さんにお渡しするモンがありますわ」
そう言って懐から取り出したシロモノを見て、「っっっ!!!」緋雪は顔色を変えて瞬時に椅子を倒し、咄嗟に部屋の出入り口まで下がった。
影郎は気にした風もなく、その掌に収まるほどの十字架をテーブルの上に置いて、緋雪の方へと押しやる。
「『封印の十字架』。あっちで転がっている馬鹿ボンが使った粗悪品ではなくて、シマさんを封印したのに使った正真正銘の本物です。シマさん相手にするのに役立つと思うんで、お嬢さんが使ってください」
十字架をテーブルの上に置いたまま、気楽な調子で再度、お茶を啜る影郎。
「……どーいうこと?」
「いや~っ、自分が持ってても仕方ないんで。使い方と効果はさっき身をもって学習されたかと思いますけど?」
すでにトラウマになっている話を蒸し返され、渋い顔をする緋雪。
「これって使ったら、私まで反動で封印される仕様とかじゃないだろうね?」
へっぴり腰でテーブルまで戻り、直接触らず、カップの脇のスプーンで、手元まで引っ張ってきて確認する。
「さあ? 心配ならお嬢さんの眷属にでも頼んで、そのあたりの野良吸血鬼封印して試してみればどうですか? 1回使ったら終わりのパチモンではなく、これは繰り返し使えるらしいんで」
「……そうさせてもらうよ」
指先で抓んで安全なのを確認して、腰の収納ポシェットにしまう緋雪。
「だけど、なんでこんなもの持ってたの?」
「いや、まあ、そこらへんは色々とありまして……話すと長いんで、ちょいと時間が足りませんなぁ」
言われて壁に掛かった時計を見ると、そろそろオリアーナたちが来る時刻になろうとしていた。
2杯目のカップを空にした影郎は、立ち上がると脇に置いていた冑を再び被った。
「取りあえず自分は持ち場に戻りますんで、できればこのまま一介の衛兵ってことで見逃してもらえるとありがたいですな~」
「はいはい。君は死人で存在しないってことだね。私の胸にしまっておくってことで、これで貸し借りはなしのチャラにしておくよ」
「すんません。助かりますわ」
一礼して部屋の外へ出ようとした影郎だが、扉をくぐる寸前にふと尋ねた。
「――お嬢さん。自分がお嬢さんの知る『影郎』でなくて、魂のないそのデッドコピーだとしたらどう思います?」
「別に」軽く肩をすくめる緋雪。「取りあえずここで出会って話をしてる君は君なんだし、魂とか有無とかよくわからないけど、別段支障もないからいいんじゃないの」
「……自分も大概ですけど、お嬢さんも軽いですなぁ」
見える口元を笑いの形に歪めて、影郎は扉をくぐって出て行った。
ほどなく塔の出入り口が開いて、数人の足音が慌しく螺旋階段を早足で昇ってくる音が響いてきた。
取りあえず、襲ってきたので返り討ちにしたという説明するしかないかなぁ。天涯を抑えるのが大変そうだけど……と思いながら、緋雪はすっかり冷めた自分のお茶を飲み干した。
と言うことでタイトルは大教皇の花が散ったということです。
影郎さんは「なんか生きてる気がする」という鋭い意見もありましたけど、しっかり生きていました。
まあ今後はストーリーに絡む予定はありませんけど。