第八話 雨天決行
空模様がいよいよ怪しくなり始め、通りを行き交う人々も周囲のことなど眼中になく、急ぎ用事を済ませようと、まるで火事場のように大通りを無秩序に動き回り、いよいよもって馬車は一歩もその場から歩けなくなってしまった。
「おいっ、いつまでモタモタしてるんだ!」
気の短い随員が窓から顔を出して御者を怒鳴りつけると、御者は気弱な態度でペコペコと頭を下げた。
「…申し訳ありません。どうにも人通りが多すぎまして、どうにも身動きがとれません。――あの、いっそ裏道を通った方が早いかと……」
ちっと舌打ちした随員が、「どうします?」とレヴァンに訊いてきた。
「しかたがない。これ以上遅れるわけにもいかないだろう。――裏道を行ってくれ」
窓越しに御者に言うと、「へい。ただ少々道が悪いので、多少揺れると思います。しっかり掴まっていてください」という返事が返ってきた。
――もともと目星をつけていたのだろう。程なく人波が途切れた瞬間を狙って、馬車をほとんど90度に曲げて、細い裏道に入って行った。
「おっととと・・・」
その拍子に『ちびちび緋雪ちゃん』の足元に置いてあった籐のバスケット――馬車に乗る前から抱えていた荷物――が、馬車の床を滑りそうになった。
慌てて緋雪が現在の体のサイズを考えないで持ち手を押さえようとして、逆にその重さに振り回されて一緒に転がりそうになる。
「――おっと」
それを咄嗟にバスケットごと、ひょいと両手で膝の上に抱え上げるレヴァン。人形の為、甘い体臭はないが代わりに香水の匂いが鼻をくすぐる。
「やあやあ、ありがとう。助かったよ」
にかっと無邪気に笑う緋雪。
その笑顔に緋雪本人の笑みが重なって、なぜか胸の鼓動が一度大きく高鳴った。
そのことに、微妙な罪悪感を感じつつも、ことさら普段どおりの態度を作って尋ねる。
「い、いえ、別にどうってことないですけど。なんですか、この荷物は?」
表通りと比べて道幅も狭く、道路も舗装されていないため、御者が言うとおりかなり揺れる車内。
結果的に落ちないように、緋雪人形を抱え込むことになってしまったレヴァンは、周囲の生暖かい視線に気恥ずかしい思いをしながら首を捻った。
「これ? 最近飼い始めたペットのシンちゃん」
言いつつバスケットの片側の蓋を開けると、そこから茶色い動物が顔を出した。
「……嫌味ですか」
その動物――まだ子供と思える仔ライオンの雄を見て、獅子族の若長であるレヴァンが半眼になった。
「いや、別に深い意味はないんだけど、なかなか賢いんだよこの子。――ほい、お手」
差し出された緋雪人形のモミジのような手を胡散臭そうに眺めていた仔ライオンは、ぱくりとその手に噛み付いてもぐもぐして、食べれないとわかるとぺっと吐き出した。
「……すげー、頭悪そうに見えますけど」
「いやいや、ここがシンちゃんの凄いところで、即座にボケに回れるこの臨機応変さ! これぞまさに他の追随を許さぬ賢さだね!」
そーかなぁ、単に馬鹿なだけなんじゃないかなぁと車内の全員が思ったが、賢明にも口に出す者はいなかった。
と、その時、馬車が急停車して、うわっと随員たちが座席から跳ね飛ばされて、狭い車内で体をぶつけ合ったり、前の座席にぶつかったりして痛みに呻いた。
レヴァンも慣性に引かれて腰が浮きかけたが、両足を突っ張って、どうにか自分の体と腕の中の1体と1匹を守り抜くことができた。
「なにをやってる――」
先ほど御者を怒鳴りつけた随員が、痛みに眉をひそめながら、また窓から顔を出して怒鳴った。
「すみません。道の真ん中に突っ立っている行商人がいまして。――おい、どかないか!」
御者の怒号が聞こえてきた。
「……行商人だって?」
その単語に反応した緋雪の、切迫した声が腕の中から響いてきた。
「それって、黒髪で目が細い男性?」
「は? はあ、そうですが……」
窓から顔を出していた随員が応じ、緋雪が大きく目を見開いた。
「逃げて! すぐに馬車を捨てて逃げないと、死ぬよっ!!」
刹那、必死の叫びが車内にこだまし、全員が呆気にとられて顔を見合わせる。
「――あの、それはどういう…」
事態についていけない全員を代表して、レヴァンが質問を重ねるのを、もどかしげに――そして、絶望に染まった顔で見つめ返す緋雪。
「……ダメ。もう、間に合わない……」
唇を噛む緋雪に再度質問をしようとしたその矢先、馬車の扉が外側から軽くノックされると同時に無造作に開けられた。
「おばんでやんす~。今日は嫌な天気ですなぁ、とうとう降り始めましたわ」
そう言って体についた雨粒を払いながら、行商人の格好をした青年が、知り合いの家にでも入る気安さで、馬車の扉から顔を覗かせた。
人間族だろう。会って会話しても記憶に残らないような、不思議なほど存在感のないその青年は、意外な闖入者に唖然とする車内の様子を一瞥して、軽く被っていた帽子を持ち上げた。
「勝手にお邪魔させていただきました。今日は仕事で皆さんに用があって伺いました」
「なんだ、お前は……?」
「……影郎さん」
青年――影郎はレヴァンが抱えている『ちびちび緋雪ちゃん』を見て、細い目を軽く開いた。
「ひょっとして、お嬢さんですか? なんか、えらく可愛らしい――いやいや、普段も最高に可愛らしいですけど、イメチェンですか?」
「……お知り合いですか?」
「前に話した暗殺者が彼だよ」
『なっ――!?』
気色ばむ一同の前で、影郎はにこやかに頷いた。
「どーもー。本業は歌って踊れてベタも塗れる商人ですが、副業に暗殺者もやってます。今日はバイトでして、短い付き合いかと思いますが、皆さんよろしゅうに」
ぞくっ!――本能的な恐怖を感じて、咄嗟にレヴァンは緋雪(+仔ライオン)を抱えて、背中から体当たりする形で、反対側の扉を破って馬車の外に飛び出した。
ちらっと御者がぬかるんだ地面に倒れているのが視界の端に見えた――刹那、馬車が内側からバラバラに砕け散り…言うまでもなく、中に居た同乗者も同じ運命をたどり、降りしきる雨の中、赤い血飛沫が一瞬花開いた。
「糸と針に気をつけて!」
悲しむ暇もなく、緋雪の注意が飛び、はっと目を凝らすと、空中を斜めの線のようなモノが数本、こちらに向かって飛んで来るのを、辛うじて視認することができた。
「――くっ」
どうにか躱した背後で、民家の石塀がすっぱりと断ち切られて崩れ落ちた。
「お嬢さ~ん、あんましこちらの手の内バラさんでくださいよ。――それと、やっぱ雨降りはいけませんな~。鋼糸の軌道がバレバレですわ」
髪の毛よりも遥かに細い鋼糸を自在に展開させながら、影郎が愚痴をこぼした。
影郎を中心に円を描くように、雨粒が空中で斬られて一瞬だけ鋼糸が弧の字型に浮かび上がるが、あまりにも一瞬過ぎる。レヴァンだからこそ、どうにか反応できた恐るべき攻撃であった。
「まあ、逆に針の方は雨粒に紛れて目立たんようでしたけど」
「……ぐっ」
その言葉に応えるように、レヴァンは左肩に刺さっていた数本の針をまとめて抜いた。
体が熱く、痺れるような感触がある。間違いなく毒が塗られていたのだろう。
「!! ちょっ――私たちのことはいいから、早く逃げて!」
「いや~、無理だと思いますよ~」
はっと気が付くと、すぐ目の前に影郎がいた。その右手にダガーが握られ、切っ先の向きは真っ直ぐにレヴァンの心臓に向けられている。
「ほな、さいなら」
あっさりとダガーが振り抜かれる、その寸前――
「震夜!」
緋雪の叫びに応える形で、その腕の中の仔ライオンが咆哮をあげる――と同時に虹色の光を放った。
「な、なんでっか?!」
咄嗟にバックステップで距離を置き、目をかばう影郎の前で、鮮やかな光が消え――そして、うずくまっていたレヴァンと、緋雪人形たちも煙のように消えてしまった。
「転送石? いや、あれはプレーヤーしか使えん筈。……なにをしたのかわからんけど、お嬢さんの仕業なのは間違いないやろな」
それから血のついたダガーの先端を眺めて、ため息をついた。
「深手を負わせた手応えはある、毒も回っている、とはいえ死体がないから生死不明か。こりゃ怒られそうですなぁ」
◆◇◆◇
そこはちょっとした森か林のように思えた。
藪の中に埋もれるようにして突っ伏していたレヴァンは、頬を舐めるザラザラした感触と、雨とは違う生暖かい液体に、かすむ目を見開いた。
目の前に緋雪が「シンちゃん」と呼んでいた仔ライオンが座っている。
どうやらこの子が自分の頬を舐めていたらしい。
「……助かった…のか?」
体を起こそうとするが、毒のせいか体に力が入らない。
「……いや、助かったとも言えないか」
それから、ふと、腕の中に『ちびちび緋雪ちゃん』が居ることに気が付いた。
「陛下…あれから、どうなったか、ご存知ですか……?」
だが、『ちびちび緋雪ちゃん』は文字通り人形のように身動ぎもしなかった。
しばらく待っても、ゆすっても反応がないのを確認して、レヴァンはため息をついた。
「ダメか……孤立無援だな…」
緊張の糸が切れたせいか、急激にまぶたが重くなってきた。
仔ライオンが慌てて咆え、目を覚まさせようとするが、どんなにがんばっても押さえつけられなり、崩れ落ちる一瞬、こちらを照らす明かりを見たような気がした。
今回はお笑いが少ないですね。