第十四話 幻想皇帝
緋雪ちゃんの出番がまったくありません(´・ω・`)
真っ白い紗幕が帝都アルゼンタムを呑み込もうとしていた。
姫陛下の説明によれば、雲の高さはおよそ3000メートルだそうだけれど、間近に眺めるそれはほとんど垂直の壁であり、見上げても先端が見えず天まで届くかのような圧倒的な存在感を示していた。
『虚霧』――世界を滅ぼす悪魔、もしくは神の産物。
それを成したのは『神』を名乗る一人の人物だという。
姫陛下は彼――聖典に謳われる『蒼神』をして、この世界を遊戯と見なす狂信者であり、その実体は単なる人間であると断言しているけれど……。
オリアーナ皇女は物憂げにため息をついた。
そんなものは言葉遊びに過ぎない。
あの方はご自分が同じ高みにいるせいで、ご自覚がないのだろうけれど、結局は人間にとって相手の精神性など、人間かそれ以外かを分ける重要なポイントになどならないのだ。
人間を越えた力があるというだけで、それは異端の者であり、さらに超越した力の持ち主は“怪物”と呼ばれる。罰することもできない怪物相手に人間は無力であり、その行動を制御できるのはただただ本人の意思のみだろう。
結局人間にできることはただ祈ることだけ。どうか我が身に災いが降りかかりませんように、どうかその良心に従いますように…と。
そうして、人々に害を及ぼす怪物を“悪魔”と呼び、利益をもたらす怪物を“神”と呼ぶ。ただそれだけのことにしか過ぎない。
もう一度『虚霧』を見上げ、オリアーナ皇女は皮肉な笑みを浮かべた。
脳裏に浮かぶのは、友人である優しい怪物――緋雪の最後に別れた時の顔だった。
「まったく…あんな迷子の子供みたいな顔をされては、せっかくの決意が崩れそうでしたわ」
独りごちた声が閑散とした宮殿の廊下を木霊する。
住民の退避に伴って宮殿内の侍女や侍従たちも、さまざまな理由をつけて去って行き、残っているのは根っからの譜代の貴族や、豪胆な一部の職人くらいなものである。そういえば毎日の食事の味も変わらないでいたけれど、料理人もいまだに留まって己の職務を全うしているのかも知れない。
ふと中庭を見てみれば、庭師の老人が普段どおりの態度で、脚立に乗って庭木の手入れをしていた。
緑が好きで、子供の頃から中庭を遊び場にしていた彼女にしてみれば、いつも同じ顔で同じ仕事をしている印象があった彼だが、まさかこの状況でも変わらず仕事をしているとは思わず、思わず足を止めた。
そんな彼女に気付いたのか、老人は手を休めると、脚立から降りて帽子を脱ぎ、恭しく一礼した。
オリアーナも軽く一礼をしてその場を離れた。
気が付くと、口元に苦笑ではない、淡い微笑が浮かんでいた。
けして長いとは言えない人生だったけれど、いままで出会った人々、そして名も知らない彼らに感謝しながら、彼女は離宮から中庭を抜け宮殿へと足を進める。
閑散とした宮殿にまるで別の場所に来たような錯覚を覚えながら、オリアーナはさらに足を延ばして、父である皇帝陛下のおわす離宮へと足を運んだ。
『余人を交えず、ゆっくりと話がしたい』
伝言を受けて指定された時間に来たわけだけれど、この離宮にもほとんど人影というものはなかった。
皇帝陛下の居室だというのに衛兵の一人もいないことに、微かに不満を感じながら――表には出さずに――軽く北方産の雪樫でできた扉をノックする。
「皇帝陛下、オリアーナです。仰せにより罷り越しました」
「――開いているよ。お入り、オリアーナ」
扉越しに父の優しげな声が聞こえ、彼女は少しだけ安堵した。
この期に及んで表舞台に立たない皇帝陛下に対して、民衆どころか大貴族の間にまで「皇帝はとっくに帝都を離れて逃げている。今頃は大陸を脱出して諸島連合に泣き付いている頃だろう」などと、根も葉もない流言飛語が飛び回っているのだ。
そんなことはないと思いながらも、今日まで直接顔を合わせる機会がなかったため、オリアーナにも一抹の不安があったことは確かである。
だが、間違いない父の声を耳にしたことで、ほっと胸を撫で下ろしながら、「失礼いたします」そっと扉を開けた。
「………?」
扉を閉め、伏せていた顔を上げたところでまず最初に感じたのは困惑だった。
皇帝の居室とは思えないほど簡素な室内には椅子と執務机、そして部屋の中央に描きかけの白いキャンバスがイーゼルに乗せられているだけで、他には目立つような装飾品の類いは置いていない。
ここまでは見慣れた部屋なのだが、椅子に座ってにこやかに微笑む父――グラウィオール帝国第44代皇帝ヴァルファングⅦ世――だが、その他に見慣れない金髪の煌びやかな鎧とマントを纏った騎士らしい青年と、魔法使いらしい薄い紫色のワンピースと杖を持った少女とが、窓際に並んで同席していたのだ。
オリアーナの視線に気付いて、恭しく礼をする彼らから父に視線を戻す。
「よく来てくれたね私の可愛い姫。そんなところにいないで、もっと中に入りなさい」
机に座ったまま出入り口に立つ愛娘を私室に招き入れるヴァルファングⅦ世。
当たり前の話であるが、彼の弟である伊達男、エストラダ大公に似ていた。そしてまた、オリアーナとも共通点が多い。つまり、どこからどう見ても美男子――それも線の細い、ガラス細工に似た透明な美貌――であった。
オリアーナの記憶によれば、すでに30半ばの筈だけれど、ほとんど日に当たらず室内にいるせいか、まだ20歳台に見える。
「――ああ、彼らは私の知人でね。今回の件に関して少々無理なお願いをしたので同席を許可したんだ。取りあえずは気にしないで構わないよ」
躊躇する娘の反応を見て、ごく簡素に付け加える。
説明になっていない説明に釈然としないものの、いつまでの皇帝陛下を待たせるわけにもいかず、オリアーナは部屋の中へと歩みを進めた。
「……失礼いたします」
普段はあまり喜怒哀楽を表に出さない父皇帝が、珍しく目を細めて笑いながら、近寄ってきた娘の姿を再度確認するかのように、じっと目を凝らして眺めた。
「――どうかなさいましたか?」
「いや。もう立派な淑女だと思ってね。小さかった頃はさほどでもなかったけれど、やはりこうして見ると皇妃に似てきたね」
「そうでしょうか? 多くの方々は、わたしを父親似とおっしゃってくださいますが」
知らず口調に棘が混じる。オリアーナにとって実の母親は、自分を生んだ女性というだけに過ぎず、一切の愛情を感じない(それはあちらもそうであろう)相手であった。
もともとが父を傀儡とした摂政である大叔父の孫娘であり、父との結婚は政治的なものであったのは子供でもわかる事実であり、実際に夫婦間の愛情など(少なくとも母の側からは)まったくなく、それならそれで無関心を貫けば良いと思うのだが、これが支配欲と物欲の塊のような性格で、父に側室を設ける事を決して許さなかった。そのため、今上帝に直接の跡継ぎが自分しかないという面倒な事態を招いた張本人である。
同じく一子のみの弟エストラダ大公夫妻が、熱烈な恋愛結婚の結果であるのと比べ、好対照も良いところであった。
ちなみに皇妃はとっくに荷物をまとめて、実家に避難している。
オリアーナの口調から、そうした一連の感情を読み取ったのか、皇帝は寂しげな笑いを浮かべた。
「皇妃もあれで可愛いところもあったのだよ」
「左様でございますか」
知ったことではないと言わんばかりの愛娘の態度に、『この気の強さは我よりも皇妃似だな』と言いたげな笑みを浮かべる皇帝。
なんとなく居心地の悪さを感じて、視線を転じて見れば、真っ白だと思っていたキャンバスには、ありありと真っ白な雲の壁が描かれていた。
「これは、『虚霧』…ですか?」
「ああ、こんなものが間近に見られる機会など滅多にない……いや、喪失世紀以来かな」
危うく聞き流しかけたオリアーナが、弾かれたように父皇帝を振り返る。
「さほど驚くようなことではあるまい。皇家に伝わる喪失世紀の伝承を、君に教えたのは他でもない我であろう。ならば同じ結論に達するのも自然と言うもの」
正直、父たる皇帝陛下は事態を正しく把握していないがために、楽観視して帝都に残留していると予想していたオリアーナは、泰然として微笑を浮かべている彼を瞬きして見詰めた。
「まあ完全に神話の再現かどうかは不明だが、どうやら蒼神は本気のようであり、天空の姫君もなす術なしとなれば、我ら俗人は従容と世界の変貌を受け入れるしかあるまい」
今度こそオリアーナは目を剥いた。見目と人が良いだけで実務能力に欠け、凡俗も良いところ……と思っていた父が、まるで別な人間になったかのように見えた。
「……振り返れば、まるで長い夢を見ていたかのようだよ。父たる先帝は苛烈な人柄で、後継たる我に対しては“皇帝”という記号に徹することを求め、人間としての個性は認めなかった。長じれば摂政たる叔父は我を人形と見なし、宰相は道具としての価値しか求めなかった」
そこには怒りも悲しみもない、在りし日の日々を機械的に話すだけの平坦な声音であった。
「だから我はそれに応えた。故に我には何も無い。魔法装置が何も考えずに定められた手順に従い、結果を出すが如く、我の中では一切のものが価値が無いのだよ。善悪、身分、権力、人間の尊厳も生命も、自分を含めて等しく等価――全てゼロなのだよ」
「…………」
にこやかに語る父がまるで別な生き物のように思えた。
うっかり覗き込んだ深淵から見えたのは、底知れぬ虚無と絶望だった。
穏やかで人畜無害な凡人――とんでもない。誰が死のうが生きようが、世界が終わろうが知ったことではない、徹底的な無関心。それが父たる皇帝の本質だったのだ。
「だが――」
柔らかな表情は変わらないまま、どことなく戸惑ったような響きがその声に混じった。
「そんな我にも唯一と思えるモノができてしまった。正直、自分でも信じられない気持ちだったのだが、そのモノが愛おしく掛け替えの無い至宝であり、毎日の成長が楽しみでしかたがなかった」
胸を突かれた面持ちで、オリアーナは声にならない呻きを発した。声を出せばそのまま泣き出して、崩れ落ちそうだった。
「だからね。我は皇帝として、夫として失格であったけれど、最期に父として君を守りたいのだよ、私の可愛い姫」
ついにオリアーナの口から堪えきれない嗚咽と、その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ああ、泣かないでおくれ、愛し子よ。君の涙だけが我の心を乱す。どうか生きて命を繋いでおくれ」
立ち上がった皇帝が、そっと彼女を抱き締め囁いた。
しばしお互いに抱擁を交わした後、いまだ涙に濡れる瞳で、父を見上げるオリアーナ。
「ですがもう間に合いません。この場から飛竜でも使わない限り、『虚霧』から逃げることは不可能でしょう」
あまりにもスケールが圧倒的過ぎて距離感が狂っていたが、虚霧はまさに王宮を呑み込まんとするギリギリの距離まで迫っていた。
「大丈夫。その為の彼らなのだから」
その言葉で、思い出したかのように窓際の二人を振り返る。
「彼らは君の知っている言葉で言えば共に“超越者”であり、彼の蒼神の配下にして、君の良く知る薔薇の姫君の旧知でもあるそうなのでね。ここを脱出後、即座に姫君の下へ転移する手筈になっている」
続けざまに語られる衝撃の事実に呆然とするオリアーナに向かって、ぽりぽりと頬を掻きながら口を開く金髪の剣士。
「まあ、もともと宰相派と平行して帝国内の勢力バランスを取るために、影郎さんと別口で皇帝陛下に接触していたんですけどね。ほとんど無視されていたと思ったら、最後の最後にとんでもない依頼が舞い込んできた…ってわけですよ」
親しげに話しかけてくる青年だが、立ち居地的には敵側である2人に対して、警戒心からオリアーナは柳眉をひそめた。
「えーと、ね。怪しく思うのは確かだけど、今回は本当に個人的な動機で動いているから、あたしたち二人とも貴女のお父さんも、緋雪さんも裏切るようなことはしないよ。信じて」
魔法使いらしい16~17歳と思える少女が、快活な口調で後を引き取った。
なんとなくこの2人は信じても良いのではないか。なによりそれが父の願いであれば。
そう瞬時に判断したオリアーナが、一歩彼らの方へ踏み出そうとした――その瞬間、どこからともなく、ひび割れた男の声が聞こえてきた。
『――ほう。それはつまり俺に対する裏切りと解釈していいわけだな?』
「――っ! この声は!?」
「蒼神っ!!」
咄嗟に窓際から2人が離れたのと同時に、離宮全体が一撃で崩壊したのだった。
1話で収まりきれませんでした。
後半は蒼神対炎の女帝との対決となります( ,,-` 。´-)




