透明少女
――私がその少女に会ったのは、五年前のことだった――
当時私は街中にある国立大学の三回生で、法律を専攻していた。
夏の暑い日、近所の噴水のある公園に行くのが私の習慣だった。
木漏れ日がかすかに漏れて、ほんのり冷たい空気が漂う、公園の隅の方にあるベンチに私はいつも座っていた。
公園の、常に程良い感じに人が散らばっている姿、そして涼しげな雰囲気。
都会の喧噪から少し離れた、他とは違う不思議な時間が流れる、この場所が私は好きだった。
図書館で借りた本を読むこともあった。たまに、居眠りをすることも。
誰にも邪魔をされない秘密のような時間を、時折合間を縫ってはその場所で過ごしていた。
あの日も私はいつもと同じように、その公園へと足を運んだ。
いつも座っている、静かなベンチ。不思議とここへ来る人たちはみな、騒がしくない。
一人一人が、それぞれの時間を大切にしている。そんな様子だった。
ぼんやりと行き交う人を眺めた後、読みかけの本の続きを読もうとページを私は開いた。
難しい本を読むことも楽しいが、比較的読みやすい、容易な文体で書かれたものを読む方が私は好きだ。
ニ、三ページが進んだところだっただろうか。
それまでになかった影が、自分と本を覆っているのに気付いた私は、はっと驚いて顔を上げた。
「何を、しているの」
目線の先には、まだ幼い顔をした少女がひとり、立っていた。
私に問う、そのあどけない声に、年甲斐もなく狼狽えてしまった。
「何、って。見ての通り、本を読んでいるんですよ」
そう答えるとその少女は、興味を失ったように私から離れていった。
肩より少し下まで伸びた髪は艶やかで、少女が動くたび軽やかに左右に揺れている。
少女は白いワンピースを身にまとい、無防備に晒された肌は透き通るように白かった。
年は十二、三歳といったところだろうか。精悍な顔立ちで、目鼻がすっきりしている。同い年の子よりもきっと大人びた顔をしているのだろう。
その少女は噴水まで駆け寄ったかと思うと、今度は突如履いていたサンダルを脱ぎ、そのまま水の中へ足を踏み入れた。
(何なんだ、一体……)
私は本を閉じ、思わずその一部始終を見つめていた。
少女は足をばたつかせ、服が濡れることすら厭わず、顔は無表情だったが、どこか楽しげに水遊びをしていた。
私は思わずベンチから腰を浮かすと、その少女に近づいた。
「濡れますよ」
私の声が聞こえないとでもいうように、その少女はバシャバシャと水の中を駆け巡る。
すでにワンピースは半分以上濡れていて、少女の髪も先の方が水と反射して光っていた。
(眩しい……)
視界が白かった。
夏の太陽と、水と、そして少女。
その三つが重なったようで、目を開けることが辛いくらい、視界が白く、眩しかった。
「今日は暑いから、すぐに乾いちゃうわ」
突如頭上から声がしたかと思うと、物凄い力で私は引っ張られ、気が付いたら少女と同じ水の中にいた。
「な、何するんですっ」
そう言って怒ってやろうと思ったけれど。
あまりにも少女が嬉しそうに笑うから、何故かそれ以上私は言うことができなかった。
少女は私の手を引いたまま、噴水の中を歩き回る。
静かな公園も、今日ばかりは私たちの様子を見て少しだけざわめいている。
正直なところ人の視線が恥ずかしかったのだが、少女はなりふり構わないという様子だった。
気が付いたら私の服もすっかり濡れていて、靴の中までびしょびしょになっていた。
はあ、とため息をつくと少女は振り返り、ごめんね、とでも言うように舌を出して笑った。
いつの間には手は離されていて、私を置いて一人遊ぶ少女を、ただぼんやりと見つめていた。
(透けている)
水の向こう側に、少女は揺れて見えた。
白い肌が水の中に透けて見えた。
子供から大人へと、脱皮する最中のような、中途半端な、それでいて嫌な感じがちっとも沸いてこない、そんな美しさを、少女は秘めている。
長い髪はすっかり水に晒されて、少女が動いてもさっきのようには軽やかに動かなかった。
けれどその濡れた髪は、さっきとは違う、妖艶、いや、言葉に形容し難いそんな雰囲気、なのだろうか、とにかく何か分からないが惹かれるものを放っている。
少女の長い髪に、私は無意識に手を伸ばしていた。
「……」
息を呑む。
手を伸ばせばあっけないほど髪は掌中に入り、想像以上にずっと繊細で、柔らかい髪の感触が掌からじかに伝わってきた。
振り返った少女と目があう。
変に思われたのではないかと、一瞬冷や汗をかいたが、少女は微笑んだだけだった。
今度はその、白い肌に噛みつきたいと思った。
人は多くないとはいえ、さすがにその様なことをすれば私は怪しまれ、少女には変人扱いされ、きっと大変なことになる。
頭の中で現実的なことを考えたら、そんな愚かな考えは消え去ると思った。
けれど、そうはいっても一度抱いてしまった欲望は簡単に消え去るはずもなく、少女の細い腕の、しなやかな足の、ふっくらした頬の、そして首元の肌の白さを、複雑な気持ちで私は見つめた。
理性と、本能の狭間で揺れる、ということはこういうことだろうか。まるで他人事のように思える自分が、何だかとても不思議だった。
そして気が付いたら、私は少女の腕に歯を立てていた。
その肌は確かに柔らかく、けれど、あまりにも頼りなく、そっと歯を当てただけだったのにも関わらず、簡単に折れてしまいそうな、そんな脆弱さを兼ねているような気がした。
少女の呼吸の音が、かすかに聞こえた。
はっと我に返って顔を上げた時、少女は別段不快だという様子もなく、かといってその反対でもない、何とも言えない表情で私を見下ろしていた。
「ごめ……」
ごめんなさい、と言って離れようとした私の腕をグイ、と少女は引っ張った。
前屈みに私は水の中へ倒れた。
幼い少女の体のどこに、こんな強い力があるのだろう。そういや噴水に来た時も、随分と強い力で引っ張られたなあ、と場にそぐわないことを私は思った。
そしてそこで意識が途切れた。
気が付けば私は元のベンチに座っていた。
初めと何ひとつ変わらない姿で、だ。
開きかけの本は、確かにページは同じで、いつの間にか眠っていたのだろうかと私は思った。
けれど靴の中は妙に濡れていて、身に着けている衣服もなんだか湿っぽい。
ふと目線を本に送ると、ページの一部が水に濡れていた。
はっと顔を上げたがそこに少女の姿はなく、いつもと変わらない公園の景色が目に入る。
特に私は警察に突き出されるような様子はない。
誰かに声をかけられるのではないかと、背筋を冷たいものが走ったが、誰一人として私に話しかける人はいなかった。
(何だったんだろうか、あれは)
ただ、鮮明に脳裏に焼き付いたのは、あの幼い少女の儚げな白さだけだった。
ワンピースと同じ白さの肌、水の中にいた少女は立っていると白さと光が反射しあって、どこにいるか分からなくなりそうだった。
そんなことだけがやたら焼き付いていた。
(私は、どうかしているのかもしれない)
見知らぬ少女の肌に、噛みつくなんて、変態なのかもしれない。
そんなことを大真面目に考えていたらなんだかこめかみが痛くなって、はっと息を大きく吐き出した。
なんてことをしたんだ、と自分を叱咤したところで目に焼き付いた光景と、直に触れてしまった感触は消すことができなかった。
そんな邪な思いを打ち払うかのように私はすくっと立ち上がり、急ぎ足で家に帰った。
次の日も、その次の日も、更にその次の日になっても、少女は現れなかった。
少しずつそんなおかしな自分に幻滅していく中、どこか私は少女を心待ちにしていた。
比較的真面目に今まで生きていた中で、初めて犯した――罪。
これは罪なのだろうか、大袈裟な言い方だが、危険な行為であったことには間違いない。
相反する、矛盾した思いに駆られながら少女を、私は公園に行くたび目で追って探していたけれども。
それから一度も少女は現れることはなかった。
白昼夢のような、夏の暑い日の、出来事だった。
あれから五年、十七、八くらいに少女はなっただろう。
私は大学卒業後、弁護士になるために法律事務所で下っ端として働く傍ら、二回目の司法試験に向けて勉強している。
あの公園の横を通るたび、未だに少女の影を探してしまう。
夏が来るたび、あの白さが嫌になるほど頭の中に浮かぶ。
焼けるような肌の温度と、水の冷たさと。
じりじりと太陽の熱が痛くなるのを感じていると、少女のことを思い出しては、ああもう夏が来るんだなと、私は思うのだった。
一人称が私、のせいで分かり辛いと思いますが、主人公は男です。参考までに。
閲覧ありがとうございました。