指先
「馬鹿息子!」
なかなか降りて来ない僕に、痺れを切らして、今度は母親が部屋のドアを開けた。
「…」
虚ろな目で、虚空に向かって構える僕を見て、母親はベッドに近付くと、固い枕を掴み、上半身に捻りを加えて、僕の顔に叩き込んだ。
「寝惚けるな!」
「…」
意識が別の世界にあった僕は、枕の攻撃によって、軽いむち打ちになってしまった。
しかし、だからといって、学校を休めない。
テーブルに座りながら、朝食を何とか口に運ぶ僕の後ろを、綾子が通り過ぎた。
「いってきます!」
「気をつけてね」
僕とは違い…綾子には、優しい口調の母親。
「おはようございます」
綾子が玄関で靴を履いていると、扉が開いた。
「あっ!明菜お姉ちゃん」
綾子は、玄関の前に立つ沢村明菜を見て、笑顔を向けた。
「綾子ちゃん。おはよう」
明菜も笑顔で返した。
「お姉ちゃん。またお兄ちゃんね。叫んでたの!モード・チェンジとか!あれは、あれだね。有名な中2病だよ!」
綾子はにやりと笑うと、すれ違い様、明菜の肩を叩いた。
「御愁傷様。お姉ちゃん」
そのまま、学校に向かって走り出した。
「え!もお〜!」
そんな綾子の後ろ姿を見送る明菜の後ろから、今度は母親の声がした。
「明菜ちゃん。ちょっと待ってね」
「あっ!はい!」
明菜が返事をしてから、5分後…僕が玄関に姿を見せた。
「だ、大丈夫?」
変に曲がった僕の首を見て、心配そうに明菜が言った。
「な、何とかね」
いててと、首に手を当てた僕の左手薬指にある…指輪。
それを見て、明菜は少し視線をそらした。
「うん?」
だけど、僕は…なぜ明菜がそらしたか理解できなかった。
数秒の沈黙の後、明菜は言った。笑顔をつくって。
「いこうか。こうちゃん」
「ああ…うん、いて!」
こうして、いつもの日常が始まった。
夜に異世界にいく以外は、変わらない朝の日常が、いつも通りに始まったのだ。
「…」
いつもの風景の中、いつもの道を歩く。
そして、辿り着いた学校を僕は見上げた。
先日の魔神ステイタスとの戦いの傷跡は、残っていない。
アルテミアが、修繕したからだ。
(この世界に、魔神が来ただなんて…やっぱり信じられないな)
「…」
足を止め、校舎を見上げる僕の横顔を、じっと見つめる明菜。
「おはよう!沢村」
そんな明菜の横を、演劇部部長中山美奈子が通り過ぎた。
「ぶ、部長!おはようございます!」
慌てて頭を下げた明菜に笑いながら、美奈子は言った。
「今度やる台本ができたから、後で部室に取りに来いよ」
「え!もうできたんですか!?」
驚く明菜の目が、遠ざかる美奈子の手の中で丸まった台本をとらえた。
「部長!見せて下さい!」
と言ってから、明菜は僕に顔を向け、
「こうちゃん。先行くね」
急いで美奈子の後を追った。
「ああ…」
僕は頷くと、ちらっと明菜の後ろ姿に目をやった。
(やっと平和が戻ったんだ…)
そして、視線を自分の左手の指輪に移した。
前に、明菜がこの指輪をはめた為に、異世界へと意識が飛んでしまう事件が起きたのだ。
勿論、何とか助け出すことができた。
しかし、その時…僕は、アルテミアの涙を見た。
(あたしは、人間だ。お母様と同じ…人間)
(違う!)
ステイタスが、僕の頭の中でアルテミアを否定した。
(やはり、お前は人間ではない!我ら魔族の頂点に立つ…魔王の牽族だあ)
「クソ!」
僕は吐き捨てるように言うと、学校へと歩き出した。
その様子を、電柱の影に隠れて見ている女がいた。
腰まである黒髪の女が…。
「うん?」
妙な気配を感じ、僕は足を止め、振り返った。
しかし、その時には…女はいなくなっていた。
「?」
妙に柱の影が気になったが、普段の僕にわかるはずもなかった。
すぐに前を向くと、歩き出した。
すると、再び柱の影に女が現れ…じっと僕の背中を見つめていた。
「やっぱり気になる!」
それから、授業中も何故か…妙な視線を感じていた。
それに…。
「先生」
僕の後ろの席の生徒達が、手を上げ、
「気分が悪いので…保険室に」
次々に教室を出ていくのだ。
それだけではない。
僕は休み時間、トイレに向かう為に、廊下を歩いていると、数人の女生徒がいきなり、目眩を感じ、倒れ出したのだ。
いくら鈍感な僕でも、理解した。
変な噂が立つ前に、僕はまったく使われていない教室を探し、そこに駆け込むことにした。
「誰だ!」
誰もいない教室に入ると、僕は身構え、周囲を見回した。
「いるのは、わかっているんだ!」
再び魔神の襲撃かもしれない。
だとすれば、ステイタスがしたように…結界を張り、あの世界と同じ空間にしているかもしれなかった。
「フン!」
気合いをいれ、炎を召喚しょうとしたら、指先から煙が出た。
「ウフフフ…」
それを見たからか、どこからか笑い声がした。
「!?」
僕が慌てて、振り向くと…半透明の女の人が立っていた。
「魔神か!」
炎が出ないと悟った僕は、仕方なく椅子を持ち上げた。
「ウフフフ…」
女の人は、笑みを止めない。
半透明の体の向こうに、黒板が見えた。
(人間ではない!だけど、魔神なのか?)
まったくプレッシャーを感じない女の人を、僕は訝しげに見た。
(それに…彼女を知っている?)
どこで見たのか…すぐには、思い出せなかった。
女の人は、ゆっくりと右手を上げると、僕を指差した。
その指先の鋭さに、僕ははっとした。
「夢の少女!」
今朝の夢を思いだし、目を見開く僕に、少女は言った。
「ブルーワールドに来たら、夕刻の谷へ来て…」
「夕刻の谷?」
「あなたを助けてあげる。バンパイアの魔の手から」
「バンパイア!?」
「必ず来て」
少女はそう言うと、消えた。
まるで…幽霊のように。
1人…教室で、椅子を振り上げていた僕は、ゆっくりと下ろすと、それに座った。
「うーん」
悩んでも、わかるはずがなかった。