殺戮機械が思い出に浸るとき 90
右足、左足。次々と滑る冬の軟弱な泥道。ただ夢中で誠は登り続けた。ただその間願うことは要の無思慮な発砲音が響かないことだけだった。次第に意識が薄くなり、足を蹴る動作だけにすべての神経が集中するようになったときに不意に傾斜が緩くなり始めた。
「終わった……」
誠はようやく泥ばかりで覆われていた視界を何とか上に持ち上げた。
そこには一本だけ残っている大きな杉の木の陰で息を潜めて先の様子をうかがうアイシャとカウラの姿があった。
「ああ、すいません……ようやくたどり着きました……」
「しっ!」
唇に人差し指を当てて沈黙するように促すアイシャ。その隣のカウラの視線の先を誠は静かに目で追った。
草むらの影で銃を構えて身を潜める要の後ろ姿が見える。そしてその向こうの枯れ草の穂の隙間からは茶色いコンロンオオヒグマの頭がちらちらと見て取れた。
「間に合ったんですね……」
「間に合ったかどうかはこれから分かることだ」
カウラの感情を押し殺したような声にそれまでの誠の到着した喜びのようなものは瞬時に吹き飛んだ。熊の周りを草の隙間から覗いていた要がそのまま銃を構えて飛び出していく。
「カウラちゃん止めないと! 」
「まったく世話が焼ける」
苦虫をかみつぶした表情のカウラが覚悟を決めて杉の木陰から飛び出して要の姿を追う。要はすぐに距離を詰めたようで先ほどまでの場所に人の気配は無い。
「キャア! 」
明らかにシャムとは違う女性の叫び声が熊の頭の見える辺りで響く。誠もその尋常ならざる驚きの声に残った力を振り絞って枯れ草の中を駆け抜けた。草のついたてを抜けて断崖絶壁にたどり着いた誠の目の前にただ銃を構えて動かないで居る要の背中が目に入った。
「なんでテメエがここに居るんだ? 」
誠達がたどり着いてもしばらくじっとしていた要がようやく口を開いた。その視線の先、手にしたバスケットからサンドイッチを取り出して頬張っているシャムの隣には技術部所属の女性士官、レベッカ・シンプソン中尉が腰を抜かして倒れていた。
「その……あの……」
「だからなんでテメエが居るんだよ! 」
いつまで経っても驚きの中から抜け出せずにおたおたしているレベッカに要のかんしゃく玉が炸裂した。カウラが要の銃を掲げた手に静かに手を添えてその銃を下ろさせる間もレベッカはただずり落ちた眼鏡を直すのとなんとか先ほどまで座っていた石の上に座り直すのが精一杯で要の質問に答える余裕は無かった。
「レベッカさん……シャムちゃんから頼まれたんでしょ? 何か食べるものを持ってきてくれって」
にこやかな表情を作りつつアイシャがゆっくりとレベッカに歩み寄る。ようやく現われた自分の理解者を見つけたというようにレベッカは引きつった笑みを浮かべつつおずおずと頷いた。