殺戮機械が思い出に浸るとき 105
ネネは静かにムートン生地のコートの襟を手で寄せながら空を見上げた。この時期の東和北部の気象条件の典型的な例を示してみせるように薄い雲が太陽を隠し、もやのような空の曇りの中から光が静かに地面に注いでいるのが見える。
「本当に……人が住むには適していない場所なんですね」
静かにそれだけ言うとオンドラが消えていった岩陰に目をやった。すぐにそこからブーツを脱いで中に入った水を抜きながら素足で歩いてくるオンドラの姿が目に入った。
「本当に大丈夫なんですか? 」
「一応ミルスペックの義体だからねえ……とりあえず異常は感じないけど……もし問題があったら追加料金を請求するからな」
「まあそのお金は西園寺のお嬢さんに言えば出してくれるでしょ」
それだけ言うとネネは確かな足取りで砂浜から黒い岩肌の崖を登りはじめた。オンドラはその足取りがあまりに確かで確実なのでしばらくは呆然とその様子を見守っていたが、しばらくして自分が雇われ人である事実を思い出して慌ててネネの後ろについた。
「心配しなくても大丈夫ですよ……山登りは遼州にいた時には必須科目でしたから」
「でもなあ……」
「心配してくれているんですか? 」
「まあ金の分は」
苦笑いを浮かべるオンドラに自然体の笑みで応えたネネはすぐに崖を登ることに集中した。決して緩やかな崖ではない、さらに所々に吹き付けられた強い風でめり込むように白く染まった雪の塊があって素人ならばすぐにでも滑り落ちてしまうような峻険な崖を順調そのものに登っていくネネ。オンドラはただ租界という閉鎖環境でその中立的な立ち位置と正確かつ的確な助言から『預言者』の二つ名で呼ばれる幼く見える情報屋の自分の知り得ない才能に驚きつつその後ろを続けて登った。
正直オンドラはネネに付いていくのがやっとだった。確かに百キロを超える義体の重さはあるにしても馬力ではネネはオンドラの十分の一にも満たないはずだった。もし足を踏み外したり手を添える場所を間違えれば生身の人間の反応速度なら対応できずに転落して行くしかないような切り立った崖。そこを一つの間違いもなく的確に登り続けるネネ。
「あんた……山登りの趣味でもあるのかい? 」
「久しぶりですよ……本当に……たぶん東和に来てからは初めての経験です」
さすがに体力には自信が無いようで息を切らせながらもネネは的確な動作で崖を登り続け、ついには船から見た崖の最上部へとたどり着いていた。
「ああ、疲れました……日頃の運動ってものは大事なんですね……」
そのままひょこりと近くの岩に腰掛けてほほえみを浮かべるネネ。オンドラはようやく重い体を崖から引き上げるとこれまで登ってきた崖の高さを確かめるべく下をのぞき見た。百メートル以上はある。それでも目の前のネネは涼しい顔をしてこれから向かうべき洞窟があるという北の方角をじっと眺めている。
「本当に……あんたは凄い奴だな」
「あなたの親御さんが育った遼南にはこんな山道はありふれているんですよ……まあもう二度と戻ることの出来ない国だとあなたは言うかも知れませんが」
それだけ言うとネネは疲れも見せずに立ち上がり、崖の横に不自然に出来ている道をゆっくりと北へ歩き始めた。