武将 古田織部 第80話 小田原攻め
小田原攻めが始まった頃、
織部は京で聚楽第の用向きを務めていた。
だが、ある日突然、秀吉に呼び出された。
「織部。
おぬし、しばらく戦場から離れておったな。」
秀吉の声は軽かったが、
その奥に試すような響きがあった。
「八王子城の支城が手強い。
武家の身である以上、戦場が恋しかろう。」
織部は静かに頭を下げた。
「は。
御意にございます。」
秀吉は扇を閉じ、織部を見据えた。
「戦も、茶も、
どちらも“わしの天下”を支えるものよ。
行ってこい。」
それだけだった。
織部は、武将として戦場へ向かうことになった。
茶の湯の名で呼ばれたわけではない。
ただ、武家としての務めを果たすために。
天正十八年六月二十三日
武蔵国・八王子城の麓
朝霧が深く、
谷あいの兵の影すらぼやけて見えた。
織部は、わずかな与力・足軽を率いて山道を進んでいた。
霧の向こうで、敵の伏兵が動いた気配がした。
織部は即座に声を放つ。
「右へ回り込め!
谷を使うな、斜面を登れ!」
兵たちは迷いなく動いた。
伏兵が姿を現した瞬間、
織部の隊はすでに横腹へ斬り込んでいた。
短い、しかし激しい戦い。
織部は槍を振るい、敵の隊長を突き伏せた。
霧がわずかに晴れ、
戦場に静けさが戻る。
家康は遠巻きに戦場を見ていた。
東海道方面軍の総指揮として、
支城戦の様子を視察していたのだ。
霧の中で動いた一隊の采配に、
家康の目が細くなる。
「……ほう。」
無駄がない。
速い。
そして、どこか“美しい”。
家康は近習に声をかけた。
「……あの武将は誰だ。」
近習は目を凝らし、やがて答えた。
「古田織部と申す者にございます。
利休殿の弟子筋にて、
近年は秀吉様の御前の茶事を務めているとか。」
家康はわずかに眉を上げた。
「茶の者が……あの戦を?」
「は。
武にも通じていると聞き及びます。」
家康は再び戦場に目を向けた。
織部は敵の隊長を突き伏せ、
霧の中で静かに槍を引いた。
その姿は、
戦の只中にありながら、
どこか“茶の湯の所作”のように見えた。
家康は小さく呟いた。
「……妙な男よ。」
ただそれだけ。
名を深く記憶することもなく、
ただ“印象”だけが静かに残った。
だがその印象は、
後の時代へと繋がる
小さな種となった。




