対峙
宵闇の濃い黒が、教会の周囲を染め上げる。
午後十時。神官はようやく、自身が主を務める教会へと帰り着いた。
壁に据え付けられた魔力灯。その光は未だ鈍い輝きを放ち続けている。しかし数時間前まで内部を満たし尽くしていた香木の匂いは、完全に消え失せていた。
「このような時間まで、本当にお疲れ様でございました、神官様」
静かな声が響く。
修道女ロゼ。
「まだ起きていたのですか。先に休むよう言っておいた筈ですが」
神官──スヴェンは、自分よりも頭二つ分以上背の低い修道女を見下ろしながら、言う。
一歩、ロゼは神官の前に踏み出す。
「神官様、こちらを」
差し出した掌。そこには真珠色のボタンが乗せられていた。
「神官様の法衣の、左袖のボタンではありませんか? “親切な方”が、拾って届けて下さいました」
スヴェンが一瞬だけ真顔になる。彼の視線は、ロゼの表情を執拗なまでに探っていた。
冷淡ささえ感じられる淑やかな口調。伏し目がちな無表情は、普段の彼女と何ら変わりはない。
「……有難うございます。何処で拾ったのか、その方は何かおっしゃっていましたか?」
いつも通りの、厳格だが人格者である神官としての口調。だが、ほんの僅かに吐息が乱れる。
「その“親切な方”曰く、貧民街で拾った、と」
スヴェンはロゼの掌から、慎重にボタンをつまみ上げる。
左側の、袖口に最も近い部分。布地の黒さで目立たないが、針を通した跡がある。袖に残された二つのボタンが擦れ、硬質な音を立てた。
「……街を騒がせている殺人鬼、その被害者の遺体が発見された場所に、落ちていたとのことだそうです」
ロゼは顔を上げると、スヴェンを仰ぎ見る。
「何故、神官様の法衣のボタンが、そのような場所に落ちていたのでしょうか」
薔薇色の瞳。無表情に淡々と見つめる視線。
スヴェンは、このロゼという修道女が時折見せる得体の知れない雰囲気が──生理的嫌悪感を催す程に嫌いだった。
「ロゼ」
スヴェンの呼び掛けに、ロゼは少しだけ首を傾げる。
彼はにっこりと微笑む。心の中を見透かされぬよう、隙という隙を笑顔で埋めるように。
「黙りなさい」
同時に、右の拳が空気を無理矢理に割いていく。
神との繋がりを示す黒銀製の指輪。高位の神官の証であるそれが黒い煌めきを放つ軌道となって、ロゼの顔を捉えた。
“はずだった”。
修道服とヴェール。その二つが垂れたつる植物のように、スヴェンの右腕に絡み付く。
先程までそれらを纏っていた者は、彼の拳の先には居ない。
「それが“回答”ということでよろしいでしょうか、神官様」
スヴェンの腕の届く範囲から、二歩ほど後退した位置に佇む女。
肩までの長さの、プラチナブロンドの髪。
薔薇色の瞳をスヴェンに向けたまま、ロゼは宣告する。
「極星の神の名に於いて、神官スヴェン、貴方を制圧致します」
右手の短剣の尖端で、スヴェンを指すロゼ。刀身に彫り込まれた紋章は、極星教主教会に属する者が戴くものだ。
「……犬が」
憎しみを帯びた視線を向けながら、スヴェンは言葉を吐き捨てる。そこにはもう、神官としての“普段の姿”は見当たらない。
一方、ロゼはその視線に動じた様子も見せていなかった。
黒地に白い縁取りのある装束。女性用にカスタマイズされてはいるものの、それは確かに極星教の審問官が身に着ける服である。
ロゼの靴が大理石の床を蹴る音。それが、戦闘開始の合図となった。
姿勢を低くしたまま、滑るように踏み込むロゼ。左右の手に携えた短剣の二刀流。
前に踏み出した右足でブレーキを掛けながら、左の刃を突き出す。
勢いの乗った切っ先はスヴェンの法衣を僅かに裂いた。半歩飛び退き、回避したのだ。
白い空間に糸屑が舞う。
致命傷たり得た一撃ではあった。だがそれは、かの神官を捉えるには至らなかった。
スヴェンの左手薬指に填められている黄金製の指輪。Aランク冒険者の証である。経験は何物にも勝る宝、ということだろうか。
「ああ、苛々しますね!!」
明らかに不愉快極まりない様子を口調に滲ませながらも、スヴェンは笑う。
狂気に満ちた笑顔。
「貴女のような審問官に何が解るというのです? 教団の上位層たる審問官の貴女に!」
言いながら、拳を繰り出す。
戦士顔負けの体格に、長く太い手足。空気を唸らせながら迫る拳を、ロゼはギリギリで躱す。
「あなた方は何時もそうです! そうやって何時も我々神官や僧侶を見下しなさる!!」
スヴェンの左手が空気を引っ掻いた。
爪がロゼの頬を掠め、後には浅い傷が残る。
微かな血の匂い。
「貴女もどうせ選ばれた側の人間なのでしょう? 選ばれた人間には解らないのですよ! 地べたを這いずり回りながらのし上がろうとする者のことなど!」
戦鎚の如き拳が何度も振り下ろされていく。当たれば痛撃は免れない。ロゼはひたすらに、それを避け続けている。
まるで、辻風に弄ばれる黒い翅のシジミチョウの如く。
「何故」
防戦一方のロゼ。彼女は拳の隙間を掻い潜りながら、口を開く。
「何故、貴方のような方が斯様な事件を」
ロゼの繰り出した突き。生半可な腕前の者ならば見切ることすら困難なそれは、しかし虚しく空を切り裂いた。
「私の母はそれは酷い女でしてねェ! 男と見れば誰彼構わず股を開くような売女だったのですよ!」
怒気を含んだスヴェンの声。
目に見えない何者かに怒りをぶつけるように、繰り出される拳に込められている力が増していく。
「幼いながら身体の大きかった私を母は無理矢理働かせていたのです! 年齢まで偽らせてねェッ!」
スヴェンの足元。床に敷かれた大理石のタイルが割れる。
直線的ながら速度も破壊力もある攻撃。ロゼはスヴェンの懐に入ることも出来ない。
「ある日のことですよ! 母と喧嘩で揉み合いになり突き飛ばしたら」
スヴェンの瞳に危うい輝きが宿る。
審問官としてある程度の経験があるはずのロゼですら見たことのない、爛々とした光。
「頭をぶつけて死んでしまいましてねェ」
スヴェンの脳裏に蘇るのは、頭から血を流して動かなくなった母の姿。
彼の身体が、熱くなる。
「怖くなった私は教会に駆け込み、そして今に至るという訳なのですよ」
一瞬の隙を突いて、スヴェンのリーチの内側に入り込むロゼ。
喉元に向けて刺突攻撃を繰り出そうとした瞬間。
「がっ、は!」
スヴェンの膝が、ロゼの腹にめり込んだ。
彼女の内側で、骨の軋む音が響く。
勢いを殺すことが出来ず、吹き飛ぶロゼ。
強かに全身を打ち付けながらも、すぐさま上体を起こそうとする。
衝撃からか肺が縮み、ロゼは浅い呼吸を繰り返していた。
丸みを帯びた白い襟が大きく揺れる。左襟の下で密やかに咲いていた青い花を象った陶器製のブローチが、俄に露わになる。
「最初はね、偶然だったのです」
いつの間にか、ロゼの前に立っていたスヴェン。
「私の財布を盗もうとした盗賊崩れの娼婦を捕まえようとしたら……死んでしまいましてね」
彼は優しく微笑んでいる。目には危うい光を宿したままで。
「あの時、思い出したのですよ。母が死んだときのことを」
スヴェンの両手が、ロゼの首へと伸びていく。
ロゼは後退ろうとするが、動けない。
「頭の芯が痺れるような甘い感覚。貴女には分からないでしょうねェ、この先もずっと!」
神官の両手が、審問官の首を捉えた。
「私は神に許されたのだと思ったのです! このような心地の良い感覚を与えて下さるのですから!! 神は私に人を殺める許可を下さったのですよッ!」
「かッ、あッ、はァッ……」
スヴェンの指が、ロゼの首筋に食い込んでいく。
彼女は抵抗するが、力の差は歴然としていた。
「はあっ、はあっ、はあッ! 死になさい、死になさいロゼ、死ね死ね死ね死ねェェッ!!」
荒い息。顔を紅潮させながら、興奮した様子で絶叫するスヴェン。それはまるで、独り善がりに女を抱くかのように。
暗転しそうになる意識の中、ロゼは必死に右手を動かす。
未だ握られたままの短剣。それを、スヴェンの腕に突き立てる。
「ぐううぅっ!?」
鋭い痛み。スヴェンは思わず首から手を離す。
緩慢な動きで体を起こすと、ロゼは激しく咳き込んだ。
そんな彼女を、スヴェンは冷たく見下ろしている。
「……どうやら、たっぷりと教え込まなければならないようですね」
左腕に刺さった短剣を引き抜き、無造作に放り投げた。
乾いた音が響く。
白い大理石の床に、赤い血が点々と飛び散る。
「出来の悪い犬にどちらが上なのかをねェッッ!」
スヴェンが拳を振り上げた。
それを見た瞬間、ロゼの表情が強張る。
『この出来損ないがッ!!』
そう言いながら何度も彼女を打った母親の姿。それが、ロゼの脳裏に蘇ったのだ。
「…………いやぁっ」
小さくか細い悲鳴。
極星教の審問官という仮面がひび割れ、年相応の少女の顔が垣間見えた瞬間だった。
──あの女を始末して、乗り越えたと思ったのに、何で、動けないの、何で、何で……!




