報告
午後六時。夕闇の下りてきた外とは対照的に、教会の中は光に満たされていた。
鉄製の分厚い扉を徐に閉じれば、通りの喧騒は完全に遮断され、静謐さが空間を占めていく。
香木の匂い。聖なる場所であることを演出された建物の内部。床には大理石のタイルが敷き詰められ、壁から天井に至るまで、白い漆喰が塗られている。
「何か、御用でしょうか?」
白い空間には不似合いな、薄墨色のコートを纏った男──グレイの前に、ロゼが歩み出る。
薔薇色の瞳には何の感情も滲ませず、一見淑やかな口調には、冷淡さが垣間見えていた。
「神官様は葬儀のために外出しております。戻ってこられるのは、九時頃になるかと」
修道女然とした、しかし微かに侮蔑を含む言葉遣い。ロゼはグレイの一挙手一投足を観察するように、強い視線を向けている。
「……用があるのは神官にではない。お前に、だ」
グレイの低い声が、大理石の床に溶けていく。
「私に、ですか?」
ロゼの纏っている、黒青色の修道服。風の吹かない室内であるにも関わらず、その裾が僅かに揺れる。
彼女の心情などには寸分の興味も無い様子で、グレイはゆっくりと歩み寄っていく。
コートのポケットから取り出されたボタン。グレイはそれを、ロゼの掌に押し付けた。
「それが一体何なのか、お前には解るのだろう?」
真珠琥珀の飾りボタン。
「お前と初めて出会った夜、あの場所で拾ったものだ」
男娼が“白布の殺人鬼”に殺された現場で拾ったもの。
「……これだけでは証拠にはなり得ませんね。偶然という言葉、貴方は御存知無いのですか?」
冷ややかで棘のある言葉を放ちながら、グレイを一瞥するロゼ。
その視線は、観察から判定へと変化していた。
「信じようが信じまいが、それはお前の自由だ。だが」
グレイは目の前の修道女を見据える。灰色の瞳が、夜を往く猛禽類の如く、ロゼの背景にあるものまで射抜く。
「あの神官の左手に、もし冒険者ギルドのリングが填められているならば……俺は奴を仕留めねばならん」
カレンの遺体の右首筋に残されていた幾何学紋様。それは冒険者ギルドが発行しているAランク冒険者の証と同じ紋様。
遠目で見た時には判らなかった神官の左手。法衣の左袖の飾りボタンが一つ欠けていたことまでは、確認出来たのだが。
「何を仰いますやら」
冷笑。ロゼは目を閉じながら、嘲るようにグレイの言葉を蹴り飛ばす。
「仮にそうだとすれば、それを行うのは“教会”の役目。部外者である貴方の出る幕はありません」
再び目を開いたとき、ロゼの瞳に宿っていたのは、確固たる意思。
「だと良いのだがな」
グレイは無感情に言い放った。
ロゼは思わず眉を顰める。どれだけ冷淡に突き放したところで、この男の表情には細波すら立たない。それが、彼女にとっては異物感でしかなかったのだ。
用は済んだ。そう言いたげに、グレイは踵を返す。
「一つ言い忘れていたが」
グレイは足を止める。大理石のタイルを踏んでいるにも関わらず、彼の足元からは音すらしない。
「戸締まりはちゃんとしておけ。お節介な鼠が入り込むかもしれんからな」
香の匂いに満たされた空気の中、グレイの低い声は響くことはなく、しかし確かにロゼの耳へと届く。
「……極星の神は、全ての生きとし生けるものを導く存在。門戸を閉ざすことなど有り得ませんよ」
穏やかで優しい口調。しかしその内側には、苛烈な皮肉が込められている。
「例えそれが穢れし者でも、罪を犯した者であっても、地べたを這いずり廻る薄汚い鼠であっても」
ロゼは静かに微笑んだ。
グレイはもう何も言わない。
教会の扉を薄く開けると、喧騒の行き交う闇の中へと、その身を滑り込ませて消えたのだった。
扉の閉まる大きな音。その場に残されたのは、ロゼただ一人。
彼女は再び、掌の中のボタンを見つめていた。
午後九時。疲れ切った体を引き摺りながら、スマルトが階段を登っていく。
一歩踏み出す毎に響く、木の軋む音。彼は元戦士で、確かに体重もそれなりに重いのだが、階段の踏み板が悲鳴を上げるように鳴っているのは、それだけが理由ではないだろう。
自室の扉を開けば、そこには先客が居た。グレイである。
明らかに嫌な予感を覚えながら、スマルトは盛大にため息を吐く。
「……良い報せが二つある」
開口一番、グレイはそう言った。彼の言う“良い報せ”が本当に良い報せである確率は低い。スマルトは経験則でそれを知っていた。
「疲れてるから明日にしてくれ、と言っても聞かなそうだな、その様子だと」
付き合いが特別長い訳ではないが、この男の性分というものを、スマルトはある程度は理解している。
彼がこの場に居るということは、急いで耳に入れるべき報せということだ。
「件のラウズルだが、“白布の殺人鬼”ではなかった」
「……そいつは何よりだ」
荷物を床に下ろしながら、スマルトは答える。中にはギルド職員への土産物が入っている。
「もう一つ、“白布の殺人鬼”の正体が何者なのか、ほぼ確定した」
「おい待て」
あまりにも突飛な発言の飛躍に、スマルトは反射的にグレイを制止する。少なくとも冗談でこんなことを言うような男ではないのは、スマルトも十分理解している。故にその発言は“真”なのだろう。
グレイの発言を制止させたまま、スマルトは言葉を続ける。
「俺は聞かないぞ。むしろ聞きたくない。聞いた以上は、上に報告しなければならなくなる」
冒険者ギルド上層部。依頼者であるアスワド。少なくともこの二つに報告する義務がスマルトにはある。
もしも“白布の殺人鬼”の正体が社会的地位のある者──例えば有力者や貴族だった場合、どんな事態になるのかは想像に難くない。
少しの時間、スマルトは思案する。“白布の殺人鬼”、その正体が判明したことをギルドマスターである自分に告げる意味を。
空気が固体になったかのような沈黙。ややあって、スマルトは再び口を開いた。
「……ギルド絡み、少なくともギルド発行のリングを持っている人物、そういうことだな?」
グレイは無言で頷く。
視線を外し、大きく舌打ちするスマルト。
疲れてるんだ。面倒事を持ち込まないでくれ。そう言いたげな雰囲気を醸し出しつつも、ギルドマスターとしての役目を優先することにしたらしい。
「分かった。なら……最低でもリングは回収しろ」
再びグレイを見据えたスマルトの瞳には、昏い炎が宿っていた。
「これは本部からの依頼じゃないが、見逃しておく訳にはいかない」
支部の職員が知る“スマルト”とは違う、感情を抑えた冷徹な声。
「忘れるなよ。俺達は正義の味方なんかじゃない。俺達が動く基準は、あくまで“冒険者ギルドにとっての利害”だけだ。無用な慈悲は身を滅ぼす。今更、お前に言う必要も無いだろうがな」
眼帯眼鏡のギルドマスターは、目の前の灰色の男に念を押す。
グレイは一度だけ、スマルトに視線を合わせた。
全て理解している。そう、物語っている視線を。
風の音が、外から聞こえてくる。
グレイはコートを翻しながら、窓から闇の中へと飛び去った。
部屋に残されたのは、主であるスマルトただ一人。
彼は少しだけ乱暴に、椅子を引き出し腰掛ける。
床板がギシリと、鈍い悲鳴を上げた。




