情報
午前三時。
ようやく街が眠りに就く頃、ロコウの一日が始まる。
材料の下処理、メニューの仕込み、更には野菜や肉の仕入れ。やるべきことは山積みで、仕事は増えることはあっても減ることは無い。
それに。
「ロコウ」
思わぬ来客の訪問すらある。
灰色の男、グレイ。
店の雨戸を外していたロコウの背後から、彼が声を掛ける。
「今日は普段より早いな」
夜明け前の一番濃い闇。背後に視線を遣るように、横目で睨み付けるロコウ。
「先に中に入っていてくれ」
開店準備の手を止めぬまま、ロコウはそう呟いた。
店内は静かだった。
鍋の煮える音、薪の爆ぜる音、野菜を刻む音。普段ならばしているはずの音は一切存在していない。
まだ、厨房は眠っているのだ。
「で、何があった」
綿状の火種を釜戸に入れると、擦ったマッチを放り込む。
火種が燃え上がり、細い薪へと熱が伝わっていく。
木が燃える、独特のにおい。
「半年前から今日まで、この街に滞在し続けているAランク冒険者の数は?」
カウンターに金貨を一枚置くグレイ。
ロコウの問いには答えない。
「五十八人、だな」
金貨を指先で引き寄せると、ロコウはそれをエプロンのポケットに仕舞う。
洗い場の桶に張られた水が、微かに揺れる。
「その中で、俺より頭一つ分以上背が高い者は?」
細い薪から太い薪へと、火が燃え移っていく。
表面が焦げていく臭い。
「十四人だ」
ランプを灯すロコウ。
ネズミか何かだろうか、小さな生物が駆けていくような音がした。
「男は?」
ランプの光に照らし出されたグレイの顔。
普段通りの無表情ではあるが、何処となく真剣味を帯びているように感じられる。
「十二人だな」
ロコウは釜戸の火加減を見ながら答える。
釜戸に置かれている、水で満たされた巨大な鍋。
香草、香辛料、牛の骨を砕いたもの。まだ生ぬるいそれへ、次々に放り込んでいく。
「では──その中に神職者は何人居る?」
不意に高まる緊張感。回答の拒絶を許さない、グレイの視線。
隙間風が湯気を攫い、生暖かい空気の流れが通り抜けていく。
「……一人だ」
ロコウの答えに、グレイは目を細める。
「もっとも、ここ数年は冒険者として活動していないようだがな」
布袋の中の玉ねぎが、一つ転げて音を立てた。
「そうか」
一言だけ残して、席を立とうとするグレイ。
「スープは良いのか?」
床に転がった玉ねぎを拾いながら、ロコウは声を掛ける。
「冷たいスープを飲む趣味は無い。次の機会に頼む」
チラリと、一瞬だけ振り返る。灰色の男は、そのまま通りの闇の中へと消えていった。
後に残ったのは、野菜を刻む音と、鍋が煮え始めた音。
ロコウは小さく息を吐く。
眠りから覚めた厨房は、徐々に温度に染まっていくのだった。
昼下がり。グレイは再び、昨夜の事件の場所を訪れていた。
貧民街の通りから一本入った路地裏。粗末な家屋が両側に立ち並ぶ狭い道。それを更に進んだ先にある、円形の小さな広場。
饐えた泥の臭い。湿り気を帯びた空気。日当たりは悪く、生えた雑草の先端が変色している。
少ない人気。だが、そこには先客が居た。
『早く、早く医者を呼んでおくれよぉ! 憲兵も! 早くぅ!』
被害者である街娼・カレンの傍で泣き叫んでいた女だ。
「何をしている」
グレイは女に問う。女は一瞬体を震わせるが、彼の姿を見て胸を撫で下ろしたようだった。
「花を、供えてたんだよ。カレンに」
しゃがみ込む女。左手に持った花を、剥がれた石畳に一本ずつ置いていく。
五枚の白い花弁を持つ花。ちょうど今の時期に咲く、野草だ。
「だって、可哀想過ぎるじゃないか。殺された所で誰も気にも留めない。殺されたら、死体袋に入れられて、共同の墓に捨てられちまうんだ」
女の声が、湿り気を帯びる。
「あの子だって生きてたんだ。カレンって名前で、あたしらみたいな娼婦崩れでも、必死で生きてるんだよ」
女の肩が、震える。
「あたしだって見世物じゃない。あの子だって見世物何かじゃない。なのに野次馬共に話の種にされちまうんだから」
グレイは女の隣にしゃがみ込む。
「泣くな。また、化粧が崩れるぞ」
同情でもなければ励ますでもない、無機質だからこそ温度のある言葉。
「だって……悔しいじゃないか」
女は手で顔を拭う。橙色の染料を塗った爪が、涙を纏って艶めきを帯びる。
グレイは女の言葉を聞きながらも、“現場”を注視していた。昨晩、“白布の殺人鬼”の犠牲となったカレンの姿を思い起こしながら。
当然ながら片付けられ、死体も物品も残ってはいない。だが、目を凝らせば、痕跡を薄く見つけることは出来る。
露出した湿った地面に残る凹凸。恐らくは体の跡だろう。
石畳の破片に引っ掛かった赤い糸屑。確かあの時、カレンは扇情的な赤い服を着ていたはず。
窪みに残る、青い粉状の破片。これは、例の青い花のブローチが割れたものだろうか。
「カレンが言ってたのって、たぶん、あんただよね?」
真剣に現場を見据えるグレイの横顔に、女は言葉を投げ掛ける。
「あの子、言ってたんだよ。灰色の髪の、少し怖そうな男の人が、ブローチを拾ってくれた、って」
グレイは視線だけを横にずらす。
女は、自分が備えた花を見つめている。
「あのブローチね、あの子の大事な、お守りみたいなものなんだってさ。母親か誰だかに買ってもらったって、そう言ってた」
グレイは視線を戻す。
少しだけ萎れている供えられた花が、石畳に寄りかかりながら微かに揺れる。
「……お前、名前は?」
「え? あ、あたしは、アガタだけど……」
唐突に名前を尋ねられ、困惑するアガタ。
そんなことはお構い無しに、グレイはコートのポケットに手を突っ込む。
「アガタ。これで改めて花を供えてやってくれ。余りは手間賃だ」
銀貨七枚。花を買ったとしても、十分過ぎる程に釣りが来る金額だ。
有無を言わせぬ態度で、グレイはアガタに銀貨を握らせる。
一瞬の逡巡。だが、アガタは突き返しはしなかった。
「は、はん! あたしが丸々使い込むとか、あんたはそう思わないのかい?」
「友人のために涙を流せる人間に、そんなことは出来んだろうな」
即答だった。
アガタは一瞬、呆気に取られた表情を浮かべて──微かに笑った。
対照的に、喪に服すように目を閉じるグレイ。
数秒の沈黙。そして、立ち上がろうとした時。
道の先の家の前に、一団が集まっているのが見えた。
「……あれは何だ?」
「さ、さあねえ……。確かあの家、兄弟が住んでたような気がするけど」
誰に尋ねるでもなく出たグレイの疑問と、それに答えるアガタ。
しばらくして、家の中から何かが運び出されていくのが見えた。
簡素な担架に載せられた、白い布に包まれた“何か”が。
その傍に居る、黒い法衣を纏った体格の良い背の高い男。彼は白い布に包まれた“何か”に向け、何やら祈りの言葉を唱えている。
「お前さん達、知らないのかい?」
いつの間にか外に出てきていた、近くの家の住人らしき老人。
老人は指を差しながらも、声を潜めて言う。
「あの家に住んでた兄弟の兄が、こないだ例の殺人鬼に殺されたんだよ。で、病気持ちだった弟も、今朝家の中で死んでたのが見つかったらしい。全く、救いが無いにも程があるねえ……」
耳を傾けながらも、グレイは黒い法衣を纏った男を見つめている。
法衣に刺繍された意匠に、祈りの言葉。どうやら極星教の神官らしい。
白い布に包まれた“それ”を何度も撫でるように、右手を動かす神官。袖口に縫い付けられている三つ並んだ白いボタンが、まるで星座を成すように白く輝く。
左手に持った豪奢な教典。魂の安寧を願う一節が、神官の低く野太い声で読み上げられていく。
左の袖口に煌めく、二つの白いボタン。
二つ。
三つあるべきはずのものが、その神官の法衣の左袖口に、欠けていたのだった。




