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冒険者ギルドの掃除人  作者: 沼平 甫
連続扼殺事件
29/37

真珠琥珀

「珍しいわね、こんな時間に来るなんて」

 開口一番、ビリジアーナはそう言った。

 娼館・山鳩亭の、彼女の部屋。

 午後七時という夕方と夜の境界とも言える時刻は、“夜の社交場”と称されるその場所が本来の様子となるには、まだまだ早過ぎる時間帯である。

 下働きと言えど幾分かの余裕はあるようで、ビリジアーナの所作にも若干のゆとりが感じられる。

「此処の下働きの娘に、やたらと注意を向けられていたのだが」

 メイド姿の娘に、横目でチラチラと見られていたのをグレイは思い出す。

「怪しまれているんじゃない? それか……貴方に恋してるのかもね」

 彼女にしては珍しい軽口。

 静かな部屋に響く、ポットに湯を注ぐ音。それと共に部屋に漂い始める茶の香り。

「……香りが違うな。茶葉を変えたか?」

 普段よりも気持ち優雅さを増した手つきで茶を淹れるビリジアーナに、グレイは尋ねる。

「毒入りよ」

 怪訝な顔になるグレイ。

 細められた彼の目が、ビリジアーナの顔を冷徹に見据える。

 対して彼女は、口元に微かに笑みを浮かべた。

 この灰色の男の珍しい表情を見ることが出来たためだろうか。

「冗談に決まってるじゃない。お客様に出すかどうか検討中のものよ。貴方の意見も聞かせて頂戴」

 髪に隠された右目が、真剣にグレイを見据える。

 静寂。

 路地を挟んだ表通りの歓楽街は、喧噪と狂騒の度合いを徐々に上げていく頃だが、それらもこの場所までは届かない。

「俺の意見なんぞ、役には立たんぞ」

 カップに注がれた、普段のものよりもやや薄い琥珀色の液体を見据えるグレイ。

 渋みの中に花のような芳香が紛れた匂いが、空間を満たしていく。

「お客様の中にはお酒を召し上がる方もいらっしゃるわ。酒呑みの意見も参考にしたくて、ね」

「俺が酒呑みだという話をした覚えは無いが」

「ブレンツ産火酒の五年物か、バシュマール産蒸留酒の二十年物」

 グレイの眉が、僅かに上がる。

「今日は素面(しらふ)みたいね。でも、此処に来る時は、大体そう」

 ビリジアーナの言葉には何も返さず、グレイはカップに口を付ける。

 部屋の外から聞こえるごく小さな音は、掃除か何かの作業を行っている音なのだろう。

「……何時ものものよりも、香りが際立っている。茶の香りの奥に、薔薇か茉莉花(ジャスミン)のような甘い香りがするな」

 丹念に、口腔を満たす香りを紐解いていくグレイ。

「味は、渋みは抑えめで万人受けはしそうだ。ただ、舌に甘みがこびりつくように残る」

 彼は音を立てずに、カップをソーサーの上に戻す。

 青い釉薬で縁取られたカップとソーサー。

「酒呑みには、不評かも知れんな」

 茶の香気を纏った息を吐きながら、グレイは答えた。

 ランプの中の小さな灯火が、震えるように二度揺らめく。

「そう。なら、ブレンドして甘さのキレを良くする必要がありそうね。貴重な意見、助かるわ」

 言いながら、ビリジアーナは、自らも味を確かめるように、カップに口を付ける。

 様子も雰囲気も普段とさして変わらぬ彼女。グレイは少しだけ安堵したような色を見せた。

「……どうやら、大丈夫なようだな」

 目の前の女が茶を飲み干すのも待たず、グレイは口を開く。

 ビリジアーナは一瞬だけ、呆気に取られたような表情を見せた。

 この男は言葉が足りない。そう言いたげに。

「もしかして、“あれ”のことかしら?」

 “あれ”。街娼のみを狙う、件の殺人鬼。

 肯定の代わりに、グレイは再びカップを口元へと運ぶ。

「噂は聞いているわよ。でも、その程度」

 言いながら、ビリジアーナは足を組む。

 黒い革製の紐靴。宙に浮いた右の爪先が、空気を撫でるように小さく揺れる。

「婦人からは、気を付けるようにと念を押されているわ。私にとっては、ただそれだけの話」

 買い出し等で外に出る機会が多いためだろう。

 彼女は飲み物の用意だけでなく、山鳩亭の厨房も任されているのだ。

「だけど」

 視線を外し、些か思案を滲ませながら続ける。

「店の娘の中には、怖がっている子も居るわね。誰だって巻き込まれたくないし、死にたくないもの。普通なら、そうでしょう?」

 グレイの鼠色の瞳を挑戦的に見つめる、ビリジアーナの深緑色の瞳。

──初めて会った時のことは、忘れていないわよ?

 明確に、そう物語っている。

 初めて会った時。

 グレイが“処理”する現場を偶然目撃し、彼女も消されそうになったのだった。

 それが今ではこうして茶を飲んでいるのだから、全く以て人生というものは分からない。

「……お前は、暫くは夜の女神(エルディール)と縁が無さそうだな」

 夜の女神(エルディール)。この世界において夜と静寂、死と安寧を司る女神である。

 一説には冥府を統べる女神とも言われている。

「褒め言葉と取っておくわ」

 皮肉めいた口調とは裏腹に、ビリジアーナの口角は僅かに上がっていた。

 再びの静寂。

 ほんの少し開いた窓から流れてくる風が、微妙に色彩を帯び始める。

 日没直後の濃い藍色から、灯りと喧騒が混じる黒へと。

 表通りの歓楽街は、既に人波でごった返している頃だろう。

 部屋に漂う茶の香りは薄れ、空気すらも沈黙を始める。

「ベッド、借りるぞ」

 ゆっくりと立ち上がりながら、纏っていたコートを脱いでいく。

「どうぞ、ご自由に」

 もう何度繰り返したか分からない遣り取り。

 グレイはコートを軽く畳んで椅子の上に置くが、ある意味重量物でもあるそれは、座面から滑り落ちてしまった。

 ビリジアーナは何も言わず、床にへたり込んでいるコートを椅子に置き直す。

 と、床に白くて丸い何かが転がっているのに気付いた。

「これは?」

 コートから出てきたものだろう。その白くて丸い物体を拾い上げながら、ビリジアーナはグレイに尋ねる。

「ボタンだそうだ。材質は分からん」

 返答を待たず、彼女は拾い上げたボタンをランプの光に透かしている。

 何かを見定めるような、真剣な眼差し。

 グレイが服を脱いでいく微細な音だけが響く部屋。

 ビリジアーナは改めて、グレイに視線を向ける。

「これ、“真珠琥珀”よ」

 聞き慣れない単語に、グレイは思わず目を細め、ビリジアーナを凝視する。

 脱ごうとした服はそのままに。

「ごく限られた場所でしか採れない、真珠色をした琥珀。そのままね」

 再び彼女は、真珠琥珀のボタンをランプの光に透かす。

 光沢のある乳白色がランプの灯りの色に染まり、さながら夕焼け空を思わせる色になる。

「採掘される場所は、極星教の厳格な管理下にあると聞いたわね。ある程度の位のある聖職者の装飾品に使われる、とも」

 腕組みをしながら、ベッドに腰を下ろしたグレイ。

 彼もまた、真剣な面持ちでビリジアーナの話に耳を傾けている。

「何故、そのようなことをお前が知っている」

──服飾用品に詳しいヴィオレッタですら分からなかった代物だ。それを何故、お前が知っている。

「……女はね」

 ビリジアーナはわざとらしく、口元に微笑を浮かべる。

「綺麗なもの──特に宝石に詳しいものよ。そういうものでしょう?」

 好意を向けるでもなく、敵意を潜ませるでもなく。

 ただ自分の内側を見せないがためだけの、鎧のような笑顔。

「……そうか」

 それだけ呟くと、グレイは早々に毛布の中に潜り込んでしまった。

 過去に触れるようなことも、未来を語るようなこともせず、互いに“現在”だけを共有する関係。

 意図せずその関係に揺らぎが入りそうになってしまったことを、グレイは悟っていた。

──自衛の笑顔を作ることが出来る分、この女にはまだ救いがあるのだろうな。既に死んだも同然の俺とは違って、な。

 思わず脳裏に浮かぶ自嘲。

 突っ込もうとすれば突っ込めた部分に沈黙を保ったのは、彼なりの反省なのだろう。

「これ、コートのポケットに戻しておくわね」

 ビリジアーナの言葉に対して、返答は無かった。

 代わりに、安らかな寝息が彼女の耳に届いていた。

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