真珠琥珀
「珍しいわね、こんな時間に来るなんて」
開口一番、ビリジアーナはそう言った。
娼館・山鳩亭の、彼女の部屋。
午後七時という夕方と夜の境界とも言える時刻は、“夜の社交場”と称されるその場所が本来の様子となるには、まだまだ早過ぎる時間帯である。
下働きと言えど幾分かの余裕はあるようで、ビリジアーナの所作にも若干のゆとりが感じられる。
「此処の下働きの娘に、やたらと注意を向けられていたのだが」
メイド姿の娘に、横目でチラチラと見られていたのをグレイは思い出す。
「怪しまれているんじゃない? それか……貴方に恋してるのかもね」
彼女にしては珍しい軽口。
静かな部屋に響く、ポットに湯を注ぐ音。それと共に部屋に漂い始める茶の香り。
「……香りが違うな。茶葉を変えたか?」
普段よりも気持ち優雅さを増した手つきで茶を淹れるビリジアーナに、グレイは尋ねる。
「毒入りよ」
怪訝な顔になるグレイ。
細められた彼の目が、ビリジアーナの顔を冷徹に見据える。
対して彼女は、口元に微かに笑みを浮かべた。
この灰色の男の珍しい表情を見ることが出来たためだろうか。
「冗談に決まってるじゃない。お客様に出すかどうか検討中のものよ。貴方の意見も聞かせて頂戴」
髪に隠された右目が、真剣にグレイを見据える。
静寂。
路地を挟んだ表通りの歓楽街は、喧噪と狂騒の度合いを徐々に上げていく頃だが、それらもこの場所までは届かない。
「俺の意見なんぞ、役には立たんぞ」
カップに注がれた、普段のものよりもやや薄い琥珀色の液体を見据えるグレイ。
渋みの中に花のような芳香が紛れた匂いが、空間を満たしていく。
「お客様の中にはお酒を召し上がる方もいらっしゃるわ。酒呑みの意見も参考にしたくて、ね」
「俺が酒呑みだという話をした覚えは無いが」
「ブレンツ産火酒の五年物か、バシュマール産蒸留酒の二十年物」
グレイの眉が、僅かに上がる。
「今日は素面みたいね。でも、此処に来る時は、大体そう」
ビリジアーナの言葉には何も返さず、グレイはカップに口を付ける。
部屋の外から聞こえるごく小さな音は、掃除か何かの作業を行っている音なのだろう。
「……何時ものものよりも、香りが際立っている。茶の香りの奥に、薔薇か茉莉花のような甘い香りがするな」
丹念に、口腔を満たす香りを紐解いていくグレイ。
「味は、渋みは抑えめで万人受けはしそうだ。ただ、舌に甘みがこびりつくように残る」
彼は音を立てずに、カップをソーサーの上に戻す。
青い釉薬で縁取られたカップとソーサー。
「酒呑みには、不評かも知れんな」
茶の香気を纏った息を吐きながら、グレイは答えた。
ランプの中の小さな灯火が、震えるように二度揺らめく。
「そう。なら、ブレンドして甘さのキレを良くする必要がありそうね。貴重な意見、助かるわ」
言いながら、ビリジアーナは、自らも味を確かめるように、カップに口を付ける。
様子も雰囲気も普段とさして変わらぬ彼女。グレイは少しだけ安堵したような色を見せた。
「……どうやら、大丈夫なようだな」
目の前の女が茶を飲み干すのも待たず、グレイは口を開く。
ビリジアーナは一瞬だけ、呆気に取られたような表情を見せた。
この男は言葉が足りない。そう言いたげに。
「もしかして、“あれ”のことかしら?」
“あれ”。街娼のみを狙う、件の殺人鬼。
肯定の代わりに、グレイは再びカップを口元へと運ぶ。
「噂は聞いているわよ。でも、その程度」
言いながら、ビリジアーナは足を組む。
黒い革製の紐靴。宙に浮いた右の爪先が、空気を撫でるように小さく揺れる。
「婦人からは、気を付けるようにと念を押されているわ。私にとっては、ただそれだけの話」
買い出し等で外に出る機会が多いためだろう。
彼女は飲み物の用意だけでなく、山鳩亭の厨房も任されているのだ。
「だけど」
視線を外し、些か思案を滲ませながら続ける。
「店の娘の中には、怖がっている子も居るわね。誰だって巻き込まれたくないし、死にたくないもの。普通なら、そうでしょう?」
グレイの鼠色の瞳を挑戦的に見つめる、ビリジアーナの深緑色の瞳。
──初めて会った時のことは、忘れていないわよ?
明確に、そう物語っている。
初めて会った時。
グレイが“処理”する現場を偶然目撃し、彼女も消されそうになったのだった。
それが今ではこうして茶を飲んでいるのだから、全く以て人生というものは分からない。
「……お前は、暫くは夜の女神と縁が無さそうだな」
夜の女神。この世界において夜と静寂、死と安寧を司る女神である。
一説には冥府を統べる女神とも言われている。
「褒め言葉と取っておくわ」
皮肉めいた口調とは裏腹に、ビリジアーナの口角は僅かに上がっていた。
再びの静寂。
ほんの少し開いた窓から流れてくる風が、微妙に色彩を帯び始める。
日没直後の濃い藍色から、灯りと喧騒が混じる黒へと。
表通りの歓楽街は、既に人波でごった返している頃だろう。
部屋に漂う茶の香りは薄れ、空気すらも沈黙を始める。
「ベッド、借りるぞ」
ゆっくりと立ち上がりながら、纏っていたコートを脱いでいく。
「どうぞ、ご自由に」
もう何度繰り返したか分からない遣り取り。
グレイはコートを軽く畳んで椅子の上に置くが、ある意味重量物でもあるそれは、座面から滑り落ちてしまった。
ビリジアーナは何も言わず、床にへたり込んでいるコートを椅子に置き直す。
と、床に白くて丸い何かが転がっているのに気付いた。
「これは?」
コートから出てきたものだろう。その白くて丸い物体を拾い上げながら、ビリジアーナはグレイに尋ねる。
「ボタンだそうだ。材質は分からん」
返答を待たず、彼女は拾い上げたボタンをランプの光に透かしている。
何かを見定めるような、真剣な眼差し。
グレイが服を脱いでいく微細な音だけが響く部屋。
ビリジアーナは改めて、グレイに視線を向ける。
「これ、“真珠琥珀”よ」
聞き慣れない単語に、グレイは思わず目を細め、ビリジアーナを凝視する。
脱ごうとした服はそのままに。
「ごく限られた場所でしか採れない、真珠色をした琥珀。そのままね」
再び彼女は、真珠琥珀のボタンをランプの光に透かす。
光沢のある乳白色がランプの灯りの色に染まり、さながら夕焼け空を思わせる色になる。
「採掘される場所は、極星教の厳格な管理下にあると聞いたわね。ある程度の位のある聖職者の装飾品に使われる、とも」
腕組みをしながら、ベッドに腰を下ろしたグレイ。
彼もまた、真剣な面持ちでビリジアーナの話に耳を傾けている。
「何故、そのようなことをお前が知っている」
──服飾用品に詳しいヴィオレッタですら分からなかった代物だ。それを何故、お前が知っている。
「……女はね」
ビリジアーナはわざとらしく、口元に微笑を浮かべる。
「綺麗なもの──特に宝石に詳しいものよ。そういうものでしょう?」
好意を向けるでもなく、敵意を潜ませるでもなく。
ただ自分の内側を見せないがためだけの、鎧のような笑顔。
「……そうか」
それだけ呟くと、グレイは早々に毛布の中に潜り込んでしまった。
過去に触れるようなことも、未来を語るようなこともせず、互いに“現在”だけを共有する関係。
意図せずその関係に揺らぎが入りそうになってしまったことを、グレイは悟っていた。
──自衛の笑顔を作ることが出来る分、この女にはまだ救いがあるのだろうな。既に死んだも同然の俺とは違って、な。
思わず脳裏に浮かぶ自嘲。
突っ込もうとすれば突っ込めた部分に沈黙を保ったのは、彼なりの反省なのだろう。
「これ、コートのポケットに戻しておくわね」
ビリジアーナの言葉に対して、返答は無かった。
代わりに、安らかな寝息が彼女の耳に届いていた。




