再会
夕暮れ時は、一日で最も人の流れが激しい時間帯でもある。それはどの街でも変わることはない。
帰路に着く者。買い出しに行く者。店へと繰り出す者。これから出勤する者、等。
互いの名前も事情も知らぬ者達が擦れ違い、時にぶつかりそうになりながら、次から次に雑踏の中から現れては消えていく。
グレイも、その中の一人だった。
ヴィオレッタの店を出て、職人通りから歓楽街へと向かう途上。
押し寄せてくる人の波を掻き分け、すり抜けながら、目的の方向へと進んでいたのだが。
高所から低所へと、重力に従って流れていく水とは違い、相手は自由意思を持った人間である。
如何にグレイが機敏であったとしても、行こうとする方向へ真っ直ぐに進めるとは限らない。
流し流され、更に流されそうになっていたところを、建物の壁際に避難したのだった。
二つの通りが交差する四つ辻に面した、決して大きいとは言えない建物。それは世界で最も信徒が多いとされる“極星教”の教会だ。
街の中央にはこれとは別に巨大な聖堂があるが、それでも中央からは然程離れていないこの場所に建てられているということは、必要性があるからだろう。
グレイは教会の壁に後頭部を押し付けながら、何処か冷めた様子で雑踏を眺めている。
子供の泣き声。大きな欠伸。憎しみのこもった愚痴。誰かの鼻歌。それらが一塊となって“街の音”へと変化する。
目の前を通り過ぎていく、髪の色も瞳の色も服装すらも様々な者達。
程度の差はあれど疲労の色を顔に貼り付けながら、足早に何処かへと去っていく。
最早流れに逆らう気力すら無い様子の人々。
頭を重たげに俯かせながら、緩慢な足取りで人混みに紛れては消えていった。
教会の壁を覆うガラス質の釉薬を纏ったタイルは、無機質な温度でグレイの後頭部から僅かに熱を奪う。
今にも沈みそうな太陽はピンクに近い輝きを放ち、鉛色の雲に熾火のような赤い光を忍ばせる。
切れ間から見える空は、既に青紫色に染まっていた。
夜の始まり。それを告げる合図のように、街の中心部の方角から大聖堂の鐘の音が聞こえてくる。
耳障りで、腹の底にまで響くような鐘の音。
反響で、石畳が僅かに振動している。
人波に隙間を見つけたグレイが、再び雑踏に戻ろうとした直前、教会の扉が遠慮がちに小さく開いた。
中から出てきたのは、黒いヴェールを纏い黒いショールを羽織った、金髪碧眼の髪の長い女。今は化粧をしていないようだが、グレイは彼女に見覚えがあった。
場末の安酒場で隣に座っていた、ワインを零した女。
「……おい」
グレイが小さく声を掛けると、女はびくりと体を震わせる。
「な、何か御用でしょうか……?」
声が揺れている。
不安に彩られた表情。
自分を安心させるように、右手で左の二の腕を掴んでいる。
無理もない。急に、しかも得体の知れない男から声を掛けられたのだから。
「これは……お前のものだろう?」
コートのポケットに入れっ放しになっていたそれを、彼は掌に乗せて差し出す。
街の雑貨屋を覗けば何処にでも売っているような、青い花を模した陶器製のブローチ。
「あ、それは……!!」
女はグレイの掌から優しく取り上げると、壊れ物を扱うように両手で包み込む。
「ありがとうございます、私の、とても大事な物なんです……本当に、ありがとうございます……」
女は、涙を流しながら何度も礼を言う。余程大切な物だったらしい。
安物の装飾品に対して涙を流す辺り、明らかに理由有りだろう。
だがグレイには、そんな事情に立ち入るつもりは毛頭無い。
「次は落とすな」
感情のこもっていない視線で女を見つめながら、グレイは淡白に言い放った。
「あ、あの、お礼は」
「要らん」
有無を言わせぬ口調で遮ると、グレイは雑踏の中へと歩き出す。
薄墨色のコートは人の流れの中で翻りながら、人波の隙間を満たし始めた夕闇に紛れ込んでいく。
僅かに開いた教会の扉から漏れ出る灯り。
清廉な光は小さく広がりながら、夜の色を落とした石畳を照らす。
雑然とした街頭とは対照的な香の匂いを纏った空気が、教会の中から溢れてくる。
青い花のブローチを、両手で優しく覆ったままの女。
彼女はまるで、その場に縫い付けられたかのように動けない。
「……カレンさん、どうかなさいましたか?」
誰かが扉の外に突っ立っていることに気付いたのだろう、教会の中から修道女の姿をした若い女が顔を出した。
修道女は真紅の瞳をカレンに向けながら、起伏のない静かな声で問いかける。
注意されているのかと思ったのかもしれない。カレンは小さな震えを抑えながら、修道女の方に向き直る。
「あっ、いえ……何でもないんです。すみません、ロゼさん」
カレンは服の袖で涙を拭うと、顔を伏せながらその場を後にする。
黒いヴェールが揺れながら、群衆の中へと溶けるように消えていく。
ロゼは暫く、視線を通りに向けていた。
ロゼは気付いていたのだ。カレンとの遣り取りを遠くから眺めていた者が居ることを。
流れ行く人々で出来た壁の、幾重か向こう側。
梟のように、こちらを見据える鼠色の視線。
──やはり、“教会の犬”だったか。
軽蔑でも嘲笑でもない、淡々と事実だけを述べているだけの視線。
ロゼの瞳が、鼠色の視線を捉える。薔薇を思わせる色とは真逆の、凍りついた炎のような冷たい瞳。
互いに互いの姿を認めると、視線の主──グレイは体を翻しようやく歩き出す。
三歩、雑踏に足を踏み入れた途端に彼の姿は人々に紛れ、ロゼは完全にグレイを見失った。
それでも彼女は、人混みに目を向け続けている。
グレイの気配の残滓が完全に消え去るのを、見届けるかのように。
「ロゼ、戻りなさい」
低く、野太い声が教会の中から響いた。
鐘の音の余韻のようなその声は、この教会の主である神官のものだ。
神官に呼ばれ、彼女は表情を変えぬまま教会の中へと戻っていった。
雲の切れ間から覗く空には、北極星が瞬いている。
彼の教会曰く、神々の座する星が。




