酒場にて
瓶の中身を丈の低いグラスに注げば、独特の香りが周囲に広がっていく。
清涼感のある甘い香りと、草を強く感じる野性的な香り。そして、嗅いだだけで口の中に苦味が溢れるような匂い。
照度を落とした魔力灯の白みを帯びた光。それに照らし出されている、明るい緑色の──彼の瞳と同じ色をした──液体を、ラウズルは一気に呷る。
「……んんッ!! ……たまらないね」
目を強く閉じたかと思えば、苦い香気を帯びた息を吐き出しながら、彼は満足気に眉を下げる。
味も香りも一癖どころか二癖以上あるニガヨモギの酒。度数もかなり高いはずのそれを、ラウズルは水で薄めることなく、砂糖で甘みを足すことすらせずに飲み干した。
「馬鹿だな、お前は。いや、阿呆か」
無表情なグレイにしては珍しく、呆れた態度を前面に出している。
彼も中々の酒豪のはずなのだが、流石にラウズルの飲み方には思うところがあるらしい。
店に入り、席に着くや否やこの酒を丸々一本注文したのだから、それも仕方あるまい。
「この苦味と、内臓を強引に抉じ開けながら、無理矢理体の隅々に染み込んでいくようなこの感覚。それが良いんじゃないか」
ラウズルは笑いながら、まだ開けたばかりのニガヨモギの酒を、再びグラスに注いでいく。
それぞれの前に、店主が水の入ったコップを差し出した。
「如何にも体に悪いことをしてる感じがして、最高だろう?」
言いながら、目の前の皿に盛られた薄切りの燻製肉を筒状に丸め、口へと運ぶ。
定番のつまみだが、果たしてニガヨモギの酒に合うのかは甚だ疑問ではある。
「試合中、腹に一発貰っていたはずだが?」
対照的に、静かにグラスを口元へと近付けるグレイ。
八分目まで注がれている無色透明なそれは、ドラゴンをも酔わせると謳われている火酒だ。
魔力灯の光に写し出された、彼のグラスから湧き立つアルコールの靄が、テーブルに仄かな影を作り出す。
「だからこそ、だよ」
燻製肉のスモーキーな塩味を洗い流すように、再びニガヨモギの酒を口に含むラウズル。
中々に、“悪い飲み方”を心得ているようだ。
既に追加で注文していた、香辛料で味付けされた薄切りの干し肉が盛られた皿が差し出される。
「理解出来んな」
突き放すような、しかし幾分かの取り付く余地を残した口調で、グレイは呟く。
コップに付いた水滴が尾を引きながら、テーブルへと流れ落ちる。
「構わないよ。理解してもらえるなんて、僕自身、思ってないからね」
言いながら、ラウズルは少しだけ寂しそうに笑った。
此処は歓楽街から少し離れた場所にある、看板を出していない酒場。
所謂、“隠れ家”的な店だ。
グレイとラウズル、彼ら二人を除けば店主しか居ない静かな空間。
猥雑な街の喧騒を離れ、落ち着いて酒を楽しむにはうってつけの場所である。
自分の趣味に合う行きつけの店を複数持つことは、酒飲みとしての初歩にして必須項目らしい。
「……で、改めて言うけど」
ラウズルはグレイに向き直る。
「僕は本当に噂しか聞いたことがないんだ。えっと、“白布の殺人鬼”、だったかな?」
“白布の殺人鬼”。その単語を耳にし、グラスを磨いていた店主の手が止まる。
夜の商売をする者にとっては、中々に厄介な話題だろう。
「疑われていたのは、少し心外だなあ……仕方無いのかもしれないけど」
言いながら、ラウズルはわざとらしく大きなため息を吐く。
「僕は結果よりも過程を楽しみたいから、全然違うんだけどね」
口直しなのか、一旦、彼は水を口に含んで酒を洗い流す。
「そうだな。お前は戦いの中に身を置くことに愉しみと悦びを覚える部類の人間だ。人を殺すことよりも、な。それは見ていてよく解った。」
グレイの脳裏に、数時間前の賭け試合の熱狂が思い出される。
あの時は野獣のような爛々とした輝きに満たされていたラウズルの瞳は、今は理性的な光を湛えている。
「少なくともお前は件の殺人鬼ではない。大層に歪んではいるが」
グレイは静かに酒を啜る。
二人の会話に耳を欹てていた店主は、安堵の雰囲気を滲ませた。
「お褒めいただき恐悦至極、だね」
笑い声。皮肉を含んでいるが、それだけではない。
ラウズルは再び、緑色の酒を口に流し込む。
「……歪んでいる、か」
ニガヨモギの香りと共に零れた一言は、彼の顔に濃い陰を作り出した。
「狂犬だとか戦闘狂だとか、その類の言葉はよく言われるけど、そうか……そうだね」
図らずも本質に触れてしまったグレイの言葉を、ラウズルは酒の香気と共に反芻する。
しばしの沈黙。
グラスを磨く音。
火酒をちびりちびりと啜る音。
音の無い、魔力灯の輝き。
「……俺はお前が“白布の殺人鬼”ではないと確信出来ている。だが、他の人間が見ても分かる証拠が欲しい。何か心当たりは?」
鼠色の瞳をラウズルの横顔に向け、グレイは問う。
ラウズルは一瞬だけ視線をグレイに合わせるが、次の瞬間には虚空を見つめていた。
此処ではない、何処か遠くを懐かしむように。
「だったら──そうだね、ブレンツの冒険者ギルドに問い合わせてみてくれないか。僕は元々、あちらの方の人間でね」
ブレンツ。遥か北方の連邦国家、グアルダ連邦共和国の首都である。
聞き覚えのある地名に、店主の視線が酒の並ぶ棚に注がれる。
グレイが飲んでいた火酒は、ブレンツ産の五年物だ。
「この街に来る前……と言っても三十日くらい前だけど、向こうのギルドを通じて出国申請を出している。その記録が多分残っているはずだよ。山盛りの書類に紛れていなければ、の話だけどね」
“白布の殺人鬼”の最初の事件は三ヶ月前。その時期にこの街に居なかったのが確かならば、客観的な証拠になり得るかもしれない。
「……成程な。公的な記録ならば改竄はまず不可能と見ていいだろう。分かった。問い合わせて調べておく」
言いながら、グレイは席を立つ。
コートのポケットから銀貨八枚──二人分の酒とつまみの代金を置くと、そのまま扉の方へと歩き出した。
「あ、ちょっと待って」
グレイの背中に投げ掛けられるラウズルの声。
「名前、聞いてなかったよね? 教えてくれないかな、貴方の名前を」
微笑むラウズル。その顔に、敵意を見出すことは出来ない。
短い沈黙を、グラスを磨く音が埋めていく。
「…………グレイだ」
ややあって、ため息を吐き出すようにグレイは名乗る。
スマルトとロコウ、ヴィオレッタとビリジアーナ、そしてラウズル。
問われて彼が名を教えた者は、これで五人目だ。
鉄製のノブに手を掛けたグレイに、再びラウズルが声を掛ける。
「グレイ!」
早速名前を呼ばれ、僅かに片眉を上げるグレイ。
「また、一緒に飲まないかい? 貴方が良ければ、だけど」
グレイは少しだけ振り返り、ラウズルに視線を送る。
「構わんが……俺は介抱はせんぞ。自分で自分の面倒を見られる奴としか、酒は飲まん」
それだけを言い残し、彼は扉の向こうの宵闇の中に、するりと消えていった。
ラウズルと店主、二人きりになった店内には、何処となく優しい静寂が漂っている。
ラウズルは再び、自らの目の前に視線を落とす。
飲みかけの水と、グラスの底にへばり付いた緑の酒。
瓶の中身は既に半分以下にまで減り、皿に盛られた薄切りの薫製肉も干し肉も、気付けば残り僅かだ。
「ある程度の路銀が溜まったら、さっさと発とうと思っていたんだけど」
グラスに緑色の酒を注ぐ音が響く。
「留まる理由、出来ちゃったなあ……」
上機嫌な雰囲気を漂わせながら、ラウズルは再び、グラスの中身を一気に呷る。
じゃりりと、テーブルに置かれた銀貨八枚の塔が、音を立てて崩れた。
「マスター、お茶を淹れてくれないかな? 酔いが覚めるような、渋みのとびきり強いやつ」
ラウズルの注文に、店主は湯の準備を始める。
円筒形の簡易的な炉に火が入れられ、指ほどの太さの乾燥した枝が焚べられていく。
木の爆ぜる、小さな音。
薬缶に水が注がれる音。
ラウズルは目を閉じながら、夜の中に溶けていく音と匂いを楽しんでいた。




