拳士・ラウズル
──人々を最も興奮させ、熱狂の渦に巻き込むもの。それは、自身が傍観者たることが確定している“暴力”である。──
歓声と怒号。
血と汗と酒のにおい。
その空間は、一種異様な雰囲気で満たされていた。
「おい、そこだ! 行けっ!」
「避けろ! 殴れっ!」
幾重にも壁のように連なった人々が、口々に怒鳴るような声で叫ぶ。
ざわめき。轟き。うねり。
興奮と熱狂が音となり、温度となり、振動となって空間全体を包む。
スマルトからの“依頼”を受けた翌日、午後九時。
グレイは壁に背を預けながら、入口付近から凝視していた。
彼の視線の先、そして人々の視線の先にあるもの。
熱狂の根源。
この空間て唯一の照明に映し出されている、二人の男の姿。
角刈りの男が放った鋭い拳。
ブンッという音。
無造作な短髪の男はそれをギリギリで躱す。
飛び散る汗。
揺れる金髪。
短髪の男は素早く半歩踏み込む。
相手の死角を狙う横からの拳。
反射的に飛び退く角刈りの男。
空を切る拳。
湧き上がる歓声と罵声。
場の温度が上昇していく。
──ただの見世物か。下らんな。だが……あの男、やはり只者ではない。
グレイは冷ややかに、人だかりの中心にある戦場を見つめている。
非合法の賭け試合。このような興行が催される場は、ある程度の規模の街ならばどこにでもあるものだ。
今度は短髪の男が攻める。
素早い踏み込み。
そこから真っ直ぐに繰り出される右の拳。
拳撃を左手で弾く角刈りの男。
小気味の良い音。
逸らされ空にめり込む拳。
露わになる無防備な胴体。
角刈りの男の爪先が腹に食い込む。
衝撃。
声と共に空気を吐く短髪の男。
一瞬、体が前方に傾く。
汗が床に滴る。
角刈りの男の、左頬を狙った渾身の一撃。
──終わったな。
グレイは確信し、目を閉じる。
最早勝利を確信して疑わない角刈りの男。
だが、グレイが確信したのは“そうではない“結末”。
短髪の男は体を傾けたまま一歩踏み込む。
そして、頭を思い切り振り上げた。
角刈りの男の顎の先端へと。
ゴッッッ!
鈍い音。
刹那、静まり返る場。
痛みに、僅かに顔を歪める短髪の男。
緑色の瞳がギラギラと輝く。
笑っている。短髪の男が口元だけで。
相手からすれば予期せぬ反撃。
顎から頭へ抜ける衝撃。
激しく揺さぶられ、平衡感覚を一瞬失う。
よたよたと足踏みする角刈りの男。
視線が定まらない。
動揺。
その隙を見逃すはずが無かった。
短髪の男が伸ばした右腕。
大蛇が噛み付くが如く、角刈りの男の首を掴む。
そのまま地面に引き倒される。
短髪の男が馬乗りになる。
彼の拳が角刈りの男の顔を捉えようとした瞬間。
「そこまでだ!!」
審判による制止が掛けられた。
──あの男、悪趣味だな。自分の命を餌にして、楽しんでいる。
グレイの視線が再び、短髪の男に向けられる。
勝利を祝福するかのように、男は審判に右腕を高く掲げられる。
「勝者、ラウズル!!」
宣言と共に、吹雪のように賭け札が乱れ舞った。
「ああクソッ! 負けちまった!」
「次もお前に賭けるからな! また頼むぜ!」
「これで八連勝か。アイツやるなぁ」
「今日の稼ぎがパーだ……とほほ……」
「流石に次は負けるだろ。たまたまだよ、たまたま」
称賛と罵声。失意と僥倖。様々な色の声。
数段下がった試合領域に立つ者に、再び観衆の注目が集まる。
視界を埋め尽くすような紙片の隙間で、グレイは──ラウズルと目が合った。
彼がどんな表情をしていたのか、グレイには確認することが出来なかった。
笑っているのか、睨んでいるのかさえも。
元々黒かったのか、それとも黒くなっていったのか。僅かに凹凸のある石造りの床はぬめりを纏っている。
幾度も踏みつけられたであろう紙片に、散らかったままの瓶の欠片。
熱狂の痕跡は既に腐り果て、まだ微かに残る人熱れの湿り気と混じり合い、淀んだ臭いを発している。
すっかり人気が無くなったその場所は、先程までの興奮が嘘のように、冷たい静寂に包まれていた。
「貴方だったのか。試合中も、その後も、ずっと感じていた視線は」
短髪の男──ラウズルは、濃い闇に向かって問い掛ける。
試合中の上半身裸からは打って変わった普通の服装。
艷やかな金髪が、まだ汗で濡れている。
「……随分と、派手な活躍をしているようだな。八連勝か」
ぬるりと現れた人型の影。グレイだ。
「もっとも、派手に財布を痩せさせた客も居るようだが」
皮肉混じりに拳士に向けられる、鼠色の瞳。
「専属の護衛になれという話なら、先日丁重にお断りしたはずだけど……どうやら、それとは違うみたいだね。貴方が一般人ではないのだけは判る」
柔和な雰囲気の中に張り詰めた殺気を隠しながら、ラウズルはグレイに改めて顔を向ける。
“丁重”という言葉は、果たして額面通りの意味なのだろうか。
「…………呼び出しに応じてくれるとは思っていなかった。それは感謝する」
グレイは軽く頭を下げた。
「果たし状や決闘の予告なら、完全に無視するつもりだった。ただ、それにしては少し違和感が、ね」
言いながら、ラウズルは小さく折り畳まれた紙をポケットから取り出す。
多少の真剣味を帯びた視線が、グレイに刺さる。和やかな表情を崩してはいないものの、目は明らかに笑っていない。
「改めて確認するけど、これは貴方からのもので間違いないのかな?」
『賭け試合終了後の午後十時三十分に、再びこの場所に来て欲しい。話がある』
広げられた紙には、流暢な筆跡でそう書かれていた。
「ああ、そうだ。俺が、控え室に置いたものだ」
グレイは深く探るように、ラウズルを観察する。
身長は──グレイよりは高いが、肉弾戦を主とする者としては低い方だろう。
着ている上下がやや大きめのものなのも、関節や腕、足の可動域を考えてのものか。
「それで、僕に話とは一体何かな?」
和やかな表情を浮かべてはいるが、その裏には牙を研いでいる獣が見え隠れする。
樹上に潜む豹のようにグレイを見据えている、明るい緑色の瞳。
「“白布の殺人鬼”。聞いたことはあるか?」
グレイの言葉に、心底解せないといった表情のラウズル。
全力の肩透かしを喰らった人間は、存外に間抜けな顔をするものだ。
「あ、まあ、噂……くらいなら、聞いたことはあるけれど……?」
唐突ささえ感じる脈絡の無い質問に、ラウズルはグレイが何を言いたいのか、全く理解出来ていないようだ。
彼の端正な顔が困惑の色に染まる。
頭の上に疑問符が浮かんでいるのが目に見えるように判る。
その反応を目の当たりにして、グレイは小さくため息を吐いた。
──やはりこの男、無関係だ。スマルトの言った通りだな。
用は終えたと言いたげな雰囲気を微かに醸し出しているグレイ。そんな彼を、ラウズルは引き留めるように呼び止める。
相手の隙を窺う能力が高い者は、相手の醸し出す空気を読む能力も高いらしい。
「ちょ、ちょっと待って。呼び出されたと思ったらそんな質問をされて、しかもその反応。もう少し、詳しい説明があっても良いんじゃないかな?」
すっかり殺気を削がれたラウズル。
完全に毒気が抜けた様子で、彼はグレイに小さく抗議する。もっともな言い分である。
「分かった。場所を変えるとしよう。酒くらいなら飲ませてやる。迷惑料は、それで十分だな?」




