依頼
床に残る水の跡と、テーブルに残る肉の脂の染み。
置かれた椅子の数はどの円卓もまちまちで、場が整えられていないのが一目で判る。
形容するならば、それは正しく嵐が去った後の静けさ。
午後四時。冒険者ギルド支部の酒場。
やや赤みを帯びた光が窓から射し込み、昼間よりも暗さを増した酒場を断片的に照らす。
客は──数人居るが、今の時間ならばその程度だ。
厨房担当のジャーロはカウンターに片肘を突きながら、虚ろな目で明後日の方向を見つめている。
魂が抜けたような表情とは、よく言ったものだ。
普段は快活で溌溂とした彼ではあるが、流石に昼間の修羅場は堪えたらしい。
軋んだ音を微かに立てながら酒場の扉が開くが、あまりにも気の抜け過ぎているジャーロには、気付く余地すらない。
入ってきたのはグレイだった。普段と同じ格好に加え、水の入った酒瓶を携えている。
僅かに背を丸めて俯き気味になりながら、隅へと歩いていく灰色の男。
そこにあるのは、いつも突っ伏して寝たふりをしている、彼の定位置とも言えるテーブル。
ごとり。
水の詰まった酒瓶を置く音。
今の今まで足音すら立てていなかったグレイが、自分の存在を示すかの如く立てた音。
しかし、酒場の客は誰一人気を向けたりはしない。
乾燥と長年の使い込みが祟り、加工が不完全だった端からヒビが入ってしまっている、テーブルの天板。
そのヒビ割れに押し込むように挟んであるのは、折り畳まれた小さな紙片。
勿論、グレイが見逃すはずがなかった。
椅子に座り、酒瓶を目隠しにして紙片を開く。
白紙にくすんだ濃青色のインクで捺してあるのは、狼を模した紋章。
このギルドの──スマルトがギルドマスターを務めるこの冒険者ギルド支部の紋章だ。
何も知らない者が見たところで、ただの押し損じか何かだと思われるだろう。だからこそそれは、符丁として最適なのだ。
これの意味が分かる者は、今この場所ではグレイだけなのだから。
──“仕事”があるぞ。
それは、スマルトからの呼び出しの報せ。
グレイは小さくため息を吐くと、両腕を枕にしながらテーブルに突っ伏した。
日課である噂の収集。
いつも通り、普段通りの、酒場の風景の一部分に紛れながら。
つい二時間前に飲んだ蒸留酒の余韻が意識を揺らすが、それでも彼は聴覚に神経を集中させている。
「また……らしい。“白布……殺人鬼”」
「殺られた奴は……白い布を顔に…………首を絞められて……」
──ここでも、その話題か。“白布の殺人鬼”。いい加減、聞き飽きた気もするが。
グレイは小さく、そして呆れたように心の中で呟いた。
「“白布の殺人鬼”は知っているな?」
真夜中。スマルトの私室での第一声はそれだった。
既に今日だけで何度聞いたかも分からない単語。グレイにしては珍しく、表情に出ていたのかもしれない。
「全く。明日は雨どころか槍が降るかもな。お前がそんな顔をするなんて」
スマルトは茶化すが、グレイの表情は変わらない。
抽出し過ぎた茶のような、苦味を含んだ沈黙が、二人の間を横切る。
「……本題に入れ」
「少しは会話を楽しもうなんて気は…………無かったな、お前には」
肩を竦め、大袈裟にため息を吐きながら、スマルトはグレイに向き直る。
「調べろ、だとさ。そいつが“白布の殺人鬼”なのかどうか」
言いながら、スマルトは一枚の書類を差し出した。
「……ラウズル。職業は戦士、か」
受け取りながら、書類の文面を目で追うグレイ。
「ああ。ギルドの本部が、一番怪しいと思われる人物を選びに選び抜いた結果が、そいつだ」
椅子から立ち上がり、スマルトはゆったりと歩き出す。
ぎぎっ、と、床板が鳴った。
「戦士ラウズル。二十九歳。魔物の討伐を主とするBランク冒険者。基本的にパーティは組まず、自身単独での依頼受注がほとんど。剣や斧等の武器を使わず、金属製の手甲や脛当て装備し、それらを活かした肉弾戦を好む。冒険者ギルドにおける職業分類には当てはまらないが、自身は“拳士”を自称している」
グレイに渡した書類の内容を暗誦しながら、数歩の間合いを往復するスマルト。
銀縁眼鏡の奥の視線は、冷ややかな雰囲気を醸し出しながら書類に目を通すグレイに注がれている。
「調査対象のことは分かった。だが」
グレイの視線が、スマルトの視線と交差する。
「冒険者ギルドが何故“このようなこと”をする? これは憲兵組織や自警団の仕事のはずだ。自尊心の無駄に高いあの連中が冒険者ギルドに協力を依頼するなど、万に一つも考えられんのだが」
通常、街中で起こる殺人等の犯罪の取締りは憲兵組織の管轄だ。無論、犯罪の捜査も含まれる。
もっとも、今回に関してはかなり動きが鈍いようだが。
「念のために言っておくが、この件は憲兵組織や自警団からの依頼じゃない」
彼らから見れば、冒険者というものはむしろ真っ先に疑って然るべき部類の人間である。
憧れを抱く者が居る一方、嫌悪感や不信感を抱く者も居るという、世間一般における当たり前の理屈だ。
「アスワドだ。依頼主は」
アスワド。その言葉を聞いた途端、グレイの表情が険しくなる。
「成程。ようやく合点が行った」
表情は変えずに、読み終えた書類をスマルトに突き返すグレイ。
「しかし……“裏”の人間が、わざわざ依頼をしてくるとはな」
──憲兵に圧力を掛けられないが故の弥縫策か。
「それだけ、“あちらさん”としても見過ごせない事態という訳だ。“裏”が“表”を動かそうとして“裏”が動くなんざ、皮肉にも程があるな」
街や村、大都市ならば地区毎に“顔役”と呼ばれるような者が居るのは珍しくはない。
顔役と言っても、単純に顔が広いだけの者、権力があり影響力がある者、権力はないが各方面への調整役を一手に引き受けている者など様々である。
アスワドは貧民街や闇市場に大きな影響力を持つ、“裏社会の顔役”とも言える人物だ。
「まあ、依頼されたとはいえ、ギルドに出来ることなんてたかが知れてるんだがな」
冒険者ギルドはあくまで冒険者の管理組合的組織である。犯罪の捜査権限などあろうはずがない。
「つまり、ギルドが動いたという実績を作るため、だな?」
グレイの言葉に、スマルトは黙って頷く。
「俺に回ってきたのも、表で冒険者を動かせば、良からぬ憶測を生みかねないから、か」
一人で納得するグレイ。
「まあ、ギルド側としても、その書類のラウズルが犯人だとは、これっぽっちも思ってないはずだ」
スマルトは突き返された書類を折り畳むと、ズボンのポケットに無造作に突っ込む。
「まあ、今回は気楽にやってくれ。とにかく、このラウズルが“白布の殺人鬼”じゃない証拠が一つでも見つかれば良いんだ」
スマルトはグレイに向き直る。
「もしもそいつが本当にそうだった場合は──普段通りに、な」
感情のこもっていない冷たい微笑。スマルトの瞳に昏いものが宿る。
だがそれも束の間。次の瞬間には、スマルトはすぐに普段通りの顔になる。
「そうそう、言い忘れるところだったが」
勢いよく椅子に腰を下ろすスマルト。
床が悲鳴を上げるように、ギシリと鳴った。
「明日から四日間、俺は留守だからな」
「旅行か? 随分と良い身分だな」
腕を組みながら言うスマルトに、グレイはすかさず皮肉で返す。
「行けたら行きたいがな。残念ながらそんな時間の余裕は無ぇんだよ。中央に呼ばれてるんだ」
中央。冒険者ギルドの中央本部。
「呼び出しか。骨なら拾ってやらんぞ」
「そうじゃねぇ。年に一度のギルドマスター会合だ」
明らかに気が進まない様子のスマルト。ちなみに、ギルドマスター会合に参加拒否権というものは存在しない。
「御愁傷様、で良いか?」
「もう何とでも言ってろ。はあ……考えるだけで胃が痛くなるな……」
げんなりとした表情を浮かべながら、どこか投げやりな口調で彼は呟く。
下を向いていた視線を、スマルトは再びグレイに向けた。
「……という訳だ。報告は四日後、俺が帰ってきてからで良い。時間はあるからな。ゆっくり、確実に進めてくれ」
中間管理職の苦労とでも言うべきものが滲み出た顔。
スマルトは力無く笑う。
彼の私室にもう一度だけ、誰のものとも知れぬため息が響いた。




