噂
多くの飲食店と同様に、正午前から昼過ぎにかけては、冒険者ギルドの酒場が特に忙しい時間帯でもある。
ここではジャーロが厨房を取り仕切り、天才的としか形容出来ないような手腕で回しているものの、それでも処理可能な注文の許容量から溢れてしまうことはある。
そんな時は、手の空いているギルド職員が助っ人に入るのが、この場所での慣例だった。
「おい! 頼んだモンいつまで待たせやがるんだよ! こっちは腹が減ってイラついてんだ!」
人々のざわめき。
質量のある音の塊を押し返すように、一際声を荒らげながら罵声を飛ばす、革鎧を着た髭面の男。
冒険者ギルドの酒場という場所では、ある意味日常茶飯事の光景だ。
「おっと、待たせて済まなかったな。注文の特盛り薫製肉のオープンサンドと芋と鶏肉のフライの盛り合わせ、茹でた激辛腸詰めに、それとエールだ」
ごとりという音と共に、髭面の男の前に並べられていく皿とジョッキ。
待ち侘びた料理だが、給仕に一つや二つは文句を言ってやろうと顔を上げた瞬間、髭面の男の動きが止まる。
「喉に詰まらせるなよ? 文句だったら、食い終わった後に、ゆっくりじっくり気が済むまで聞いてやる。ゆっくり……な?」
男の眼前にあったのは、眼帯の上から銀縁眼鏡を掛けた、にっこりと圧の強い笑みを浮かべる男の顔。
ギルドマスターのスマルトである。
「は、はいぃ……」
先程までの威勢は何処へやら。
男は縮こまりながら、まるでハツカネズミのように注文の燻製肉のオープンサンドを頬張り始める。
助っ人に入るという慣例は、ギルドマスターとて例外ではないのだ。
(さて、と)
一瞬だけ立ち止まり、酒場を見回すスマルト。
並べられている九つの円卓はどれも人で埋まり、中には窓枠をテーブル代わりにして食事をしている者も居る。
カウンター席は使われていない。この時間帯だけ、厨房で仕上げられた配膳待ちの料理の待機場所として使われるからだ。
壁に沿って幾つか配置された二人掛けのテーブルも、漏れ無く埋まっている。
一番隅に置かれているテーブルに座っているのは、今日この時間はグレイではなく違う冒険者だ。
(流石に、この時間帯には来ていないようだな)
ギルドの酒場の片隅にあるテーブルで、酒瓶を抱えながら寝ている、“いつも居るような気がする男”。
だが裏を返せば、“いつも居るような気がする”は“居ないのとほぼ同じ”である。
いつも居るような気がするが故に存在が意識されず、仮に居なくなっても気が付かない。
現に今のこの瞬間、グレイの不在に気が付いているのはスマルトだけなのだから。
「オラァァァッ! 腸詰めと芋の炒め煮完了ーー!! 早く持ってってくれよー! ひひっ、ひひひっ!」
明らかに色々とおかしい笑いと共に、ジャーロの声が厨房から響く。
忙しさも度が過ぎると奇怪なテンションになってしまうのは、万国共通のものらしい。
(ジャーロの奴をさっさと楽にしてやるためにも、ギルドマスターの俺が頑張ってやらないとな)
魔女が鍋を掻き混ぜるときのような笑いが厨房から聞こえる中、スマルトは苦笑しながらも次々と配膳を処理していく。
(さて。あいつは何処に行ったんだろうな。大方、場末の酒場で安酒でもかっ食らってるのかもしれんが)
“灰色の男”の姿を思い浮かべながら、客と客の間を機敏に動き回っているスマルト。
他方、同時刻──。
眼帯眼鏡なギルドマスターの想像通り、グレイは酒場に居た。
酒場と言っても、陽気で活気に溢れている部類の店ではない。
冒険者ギルドの酒場が“陽”ならば、こちらは“陰”である。
貧困層や低所得層が、日々の苛烈さや苦労を一時忘れるために利用するような、そんな店だ。
煙草のヤニと酒が染み付いた床は黒く変色して粘つき、靴底に絡む。
申し訳程度に光を放つランプがカウンターに置かれてはいるものの、ランプの窓にこびり付いている煤のせいで、明かりとしての役目を果たせているのかすらも怪しい。
客は一様に顔を伏せ、せいぜい隣り合った客とぼそぼそ言葉を交わす程度だ。
安い店特有の、水のように薄い酒。
カウンターに残る斑に色の抜けた染みは、誰かがこぼした酒によるものだろう。
店の一番奥にある壁際の席で、グレイは息を潜めるように、静かに酒を啜っていた。
彼の前には背の低いグラス。既に半分程にまで減っている無色透明の激烈な度数の蒸留酒から、気化したアルコールがゆらゆらと立ち上る。
匂いを振り撒きながら湯気のように漂うそれは、刹那、グラスの縁をぼやけさせる。
「……また、やられたんだとよ」
「今度は男だってさ」
痩せた男と、無精髭の男。疲労感と倦怠感を滲ませながら、小さな声で世間話を始める。
顧みられることすらない、社会の下層に住む者は、治安の変化に敏感だ。それらは世間話や噂話に形を変え、彼らのコミュニティに驚くほどの速度で広がっていく。
自らの身に危険が降りかかる可能性があるならば、特に。
グレイはじっと、聞こえてくる話に耳を傾けていた。
グラスの底がテーブルに擦れる音が小さく響く。
「女だけじゃなかったのか?」
酒焼けした、しゃがれた声。
常連らしい白髪の交じった男が、彼らの世間話に入ってくる。
「どうだかな。もしかすると、気が変わったのかもしれねぇな」
「人殺しの考えることなんざ分かる訳がねぇよ。“白布の殺人鬼”が何を考えてるかなんてよ」
“白布の殺人鬼”。その単語を、グレイは幾度か耳にした覚えがあった。
──確か、数ヶ月前から世間を騒がせている連続殺人犯、だったか。
「まあ、俺らみたいな連中が死んでも、お上は動いてはくれねぇよ」
髪の短い筋肉質な青年が、投げ遣りに呟く。
声色には、嘆息よりも諦めが滲み出ている。
「むしろ喜んでるんじゃねぇか? 底辺の連中が片付いたって」
自嘲。
「まあ、確かに、憲兵が動いてるって話すら聞かねぇもんな」
「そいつぁ、いくら何でもあんまりだ。殺された連中も浮かばれねぇよ」
魚が吐く泡のように嘆きを呟いたところで、それは社会の下層の空気の中に溶け出していく。
「俺に力があったら、“白布の殺人鬼”の野郎を見つけだしてぶっ倒してやるんだがな」
「止めとけ止めとけ。お前さん、冒険者になろうとして諦めちまったんだろうが」
夢破れた若者と、世間を知り過ぎて疲弊した男。
「でもよぉ、あんまりにもあんまり過ぎるだろ。殺られた女の中には、俺が昔世話になった奴もいるんだ……」
「ああ……、今まで殺られた奴は、みんな娼婦だったか。しかも娼館付きじゃねぇ、街娼だったな」
“街娼”。その言葉を聞いた途端に、グレイの隣で黙って酒を飲んでいた女がグラスを倒した。
ごろりという音が、店内の饐えた空気に響く。
ほんの一瞬だけ、客全員の注意が女に向けられる。
グラスの中身が五分の一ほどになっていたのが幸いした。酸い香りを放つ葡萄酒は、カウンターに赤紫の小さな水溜まりを作っただけだった。
「す、すみません……」
蚊の鳴くような声で謝りながら、軽く頭を下げる女。
「いや、問題無い」
ここでグレイは初めて、隣席に座っていた女の顔を見る。
金髪碧眼。頭には黒いヴェールを被り、肩から同じ色のショールを羽織っている。
美しい女ではあるのだが、輝くような若々しさは見当たらない。むしろ顔には色濃い疲労が滲み出ている。
それだけではない。化粧をしているはずにも関わらず顔色はひどく蒼白で、安物の紅が塗られた唇は小さく震えていた。
美しい女が、このような時間帯から場末の酒場で飲んでいるという事実。それはこの女が真っ当な職業に就いていないという証だろう。
「あの、私…………これで、失礼します……」
変わらず小さい声。
おどおどとした表情を浮かべ、微妙に居心地が悪そうに視線を泳がせている。
銅貨を二枚、カウンターに置くと、女は若干ふらつきながら店を出て行った。
扉の開く音と、閉まっていく時の軋んだ音。
何事も無かったかのように、再びぼそぼそとした世間話が店内を覆う。
グレイは女の姿を目だけで追った後、再び眼前に視線を戻そうとした。
と、女が座っていた席の下に、何かが落ちていることに気付いた。
粘ついた黒い床に似合わない、鮮やかな青い色をした物体。グレイはそれを拾い上げる。
どこにでも売っているような、青い花の形をした陶器製の小さなブローチ。
先程の女が落としたとして、成人女性が付けるには妙に幼い意匠に感じられる。
少々の思案。
グレイは、そのブローチをコートのポケットに慎重に入れる。
「それにしても“白布の殺人鬼”、俺らみたいな連中も殺るつもりなのかね」
グラスの酒を呷りながら、痩せた男が口を開く。
「どうだかな。でも、タダで殺られたりしないぜ。俺の戦闘術を見せてやる」
髪の短い筋肉質な青年が、空気を殴るように軽く拳を繰り出す。
「止めとけ止めとけ。お前さん、冒険者になろうとして諦めたんだろうが。狙われちまったら……人生諦めが肝心さ」
常連らしい白髪交じりの男が、空のグラスをカウンターに置いた。
酒場は再び、低いざわめきで満たされていく。
世間話。下品な話。愚痴。
それらはまるで、岩の下に潜む無数の虫が、身を寄せ合って体を震わせているように。




