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冒険者ギルドの掃除人  作者: 沼平 甫
連続扼殺事件
20/37

ある青年の悲劇

 頭のてっぺんから爪先まで、全身を覆い尽くしている疲労感。

 鉛のように重い体を壁にもたれさせ、何とか踏ん張るように立ちながら、今日も俺は“客”を待つ。

 ささくれ立った、塗装が剥げた木の壁。

 路地を二本挟んだ大通りから聞こえてくる客引きの声。そして波のように押し寄せてくる、轟くような行き交う人々の声。

 たった数分歩けば辿り着ける距離なのに、今の俺には果てしなく遠く感じてしまう。

──本当は、こんなことなんてしたくない。でも、もう他に手段がない。

 朝も昼も働いて、夜も働こうとしたものの、体が言うことを聞かなくて。

 だから俺は、決して精神的に楽じゃない、ある意味肉体的にも楽じゃない、この“夜の仕事”をすることを選んだ。

 客の種類は様々だ。

 手近な相手で自分の欲望を処理しようとする労働者。

 女に有り付けなかった冒険者。

 元々“そういう趣味”を持っているような成金。

 物好きな女に買われることも、何回かあった。

 でも……こんな“仕事”をするのもそろそろ終わりだ。もうすぐ金が貯まる。金さえ貯まれば。

 考え事をしていたせいか、周囲に全く気が向いていなかった。

 足音が聞こえた気がした。

 それと同時に、後ろから呼び掛けられた気がした。

 振り向こうとした瞬間。

 俺の後頭部に、痛みと強い衝撃が走った。

 疲労困憊の状態では、こんな時に自分の体も支え切れない。

 バランスを崩した。

 目の前に近付く地面。

 後頭部の痛みが熱くて鈍くて。

 泥の味。

 前歯が一本折れた。

 唇が切れた。

 血の味。

 何が起こったんだ。

 俺は訳が分からなかった。

 でも、直感的にこう思った。

──早く、逃げないと。

 頭の中に残る殴られた余韻。

 まだ揺れている視界。

 俺は虫のように地面を這いつくばる。

 中指と人差し指の先が、泥を掴む。

 石畳に積もった泥。

 俺は必死で立ち上がろうとする。

 でも、もう遅かった。

 俺の上に、重石のように何かが乗った。

 無理矢理体の向きを変えられる。

 顔が、泥から解放される。

 だけど、暗くて何も見えなかった。

 見えたのは、人の形をした大きな影と、夜の空に一つだけ眩しく輝いている星。

 俺の上に乗っている奴が、大きな白い布を俺の顔に押し付けてくる。

 思わず、背筋が凍った。

 近頃、この辺りで起こっている殺人事件。

 被害者は全て、顔に白い布を被せられている。思わず脳裏によぎった噂。

 街角に立っている“娼婦”が標的にされている。その噂の続きはこうだった。

 だから、俺の中に油断があったのかも知れない。

 俺は男だから絶対に襲われないし、事件にも遭わないと。

 視界が白くなって、暗くなる。

 どこかで嗅いだことのあるような匂い。

 顔を、思い切り殴られた。

 一度、二度、三度、四度、何度も、何度も。

 折れた前歯がジンジンと痛む。殴られて頬骨が軋む。頭の中で殴られた音が響く。

 嫌だ。死にたくない。

 思わず、殴りつけてくる相手の腕を掴む。

 太い手首。服の袖の感触。

 何とか腕を押し返そうとした。

 だが、それが逆に相手の怒りに触れたらしい。

 俺の手を振り解くと、今度は俺の頭を何度も殴りつけてくる。

 激しい痛み。痛い。痛い。痛い。

 意識が何度も揺さぶられて、体の力が抜けていく。

 抵抗しようとしても、力が入らない。

 それを待っていたかのように、俺の首に太い指が回る。

 ギリギリと、音がしたような気がした。

 息が、出来ない。

 空気の塊が、肺から出せない。

 顔が熱い。

 目の前が暗くなる。

 苦しい。

 死にたく、ない。

 あと少し、あと少しで金が貯まるのに。

 金が貯まれば、弟の病気を治せるのに。

 俺の、弟。

 俺のたった一人の家族。

 俺が死んだら、誰が弟を見てやれるんだ。

 死にたくない。

 誰か、弟のことを。

 誰か、俺の代わりに、弟のことを。

 もう、声なんて出せなかった。

 誰にも、俺の声は届かなかった。

 最期に俺の耳に届いたのは、大通りから聞こえてくる喧騒だった。


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