ある青年の悲劇
頭のてっぺんから爪先まで、全身を覆い尽くしている疲労感。
鉛のように重い体を壁にもたれさせ、何とか踏ん張るように立ちながら、今日も俺は“客”を待つ。
ささくれ立った、塗装が剥げた木の壁。
路地を二本挟んだ大通りから聞こえてくる客引きの声。そして波のように押し寄せてくる、轟くような行き交う人々の声。
たった数分歩けば辿り着ける距離なのに、今の俺には果てしなく遠く感じてしまう。
──本当は、こんなことなんてしたくない。でも、もう他に手段がない。
朝も昼も働いて、夜も働こうとしたものの、体が言うことを聞かなくて。
だから俺は、決して精神的に楽じゃない、ある意味肉体的にも楽じゃない、この“夜の仕事”をすることを選んだ。
客の種類は様々だ。
手近な相手で自分の欲望を処理しようとする労働者。
女に有り付けなかった冒険者。
元々“そういう趣味”を持っているような成金。
物好きな女に買われることも、何回かあった。
でも……こんな“仕事”をするのもそろそろ終わりだ。もうすぐ金が貯まる。金さえ貯まれば。
考え事をしていたせいか、周囲に全く気が向いていなかった。
足音が聞こえた気がした。
それと同時に、後ろから呼び掛けられた気がした。
振り向こうとした瞬間。
俺の後頭部に、痛みと強い衝撃が走った。
疲労困憊の状態では、こんな時に自分の体も支え切れない。
バランスを崩した。
目の前に近付く地面。
後頭部の痛みが熱くて鈍くて。
泥の味。
前歯が一本折れた。
唇が切れた。
血の味。
何が起こったんだ。
俺は訳が分からなかった。
でも、直感的にこう思った。
──早く、逃げないと。
頭の中に残る殴られた余韻。
まだ揺れている視界。
俺は虫のように地面を這いつくばる。
中指と人差し指の先が、泥を掴む。
石畳に積もった泥。
俺は必死で立ち上がろうとする。
でも、もう遅かった。
俺の上に、重石のように何かが乗った。
無理矢理体の向きを変えられる。
顔が、泥から解放される。
だけど、暗くて何も見えなかった。
見えたのは、人の形をした大きな影と、夜の空に一つだけ眩しく輝いている星。
俺の上に乗っている奴が、大きな白い布を俺の顔に押し付けてくる。
思わず、背筋が凍った。
近頃、この辺りで起こっている殺人事件。
被害者は全て、顔に白い布を被せられている。思わず脳裏に過った噂。
街角に立っている“娼婦”が標的にされている。その噂の続きはこうだった。
だから、俺の中に油断があったのかも知れない。
俺は男だから絶対に襲われないし、事件にも遭わないと。
視界が白くなって、暗くなる。
どこかで嗅いだことのあるような匂い。
顔を、思い切り殴られた。
一度、二度、三度、四度、何度も、何度も。
折れた前歯がジンジンと痛む。殴られて頬骨が軋む。頭の中で殴られた音が響く。
嫌だ。死にたくない。
思わず、殴りつけてくる相手の腕を掴む。
太い手首。服の袖の感触。
何とか腕を押し返そうとした。
だが、それが逆に相手の怒りに触れたらしい。
俺の手を振り解くと、今度は俺の頭を何度も殴りつけてくる。
激しい痛み。痛い。痛い。痛い。
意識が何度も揺さぶられて、体の力が抜けていく。
抵抗しようとしても、力が入らない。
それを待っていたかのように、俺の首に太い指が回る。
ギリギリと、音がしたような気がした。
息が、出来ない。
空気の塊が、肺から出せない。
顔が熱い。
目の前が暗くなる。
苦しい。
死にたく、ない。
あと少し、あと少しで金が貯まるのに。
金が貯まれば、弟の病気を治せるのに。
俺の、弟。
俺のたった一人の家族。
俺が死んだら、誰が弟を見てやれるんだ。
死にたくない。
誰か、弟のことを。
誰か、俺の代わりに、弟のことを。
もう、声なんて出せなかった。
誰にも、俺の声は届かなかった。
最期に俺の耳に届いたのは、大通りから聞こえてくる喧騒だった。




