エピローグ
冒険者ギルドの酒場。そこはギルドマスターの城でもある。
厨房を他の者に任せていたとしても、酒の管理だけはギルドマスターに委ねられる。それが冒険者ギルドの慣例であり不文律なのだ。
酒瓶が隙間無く並べられた棚の裏側、隠し棚に収納されたグラスを磨きながら、スマルトは大きく息を吐く。
カウンターに置かれたランプの周辺以外は、群青色の闇に覆われている酒場。
厨房担当のジャーロはとうに帰り、最後まで残っていた一団も別の店に移動した。
普段の騒がしさとは真逆の、静か過ぎる空間。
夜の静謐さに包まれながら、収集しているグラスを磨く。その時間は、スマルトにとって小さな安らぎの時間でもある。
美しいカッティングが施されたロックグラス。
透明度の高いガラスで作られたストレートグラス。
不透明な乳白色の色付けがなされたゴブレット。
緑色のガラスで作られたショットグラス。
希少性や値段などは関係無く、全て彼自身が気に入ったものを、吟味した上で集めているのだ。
グラスに映り込む、スマルトの顔。少しだけ、疲労が滲む目元。
七つ目のグラスを磨こうと手を伸ばした時、酒場の扉が静かに開いた。
そして、影のように音も無く入ってくる人物。
グレイだ。
「よう、お帰り」
普通の冒険者にするように、労いの言葉を掛けるスマルト。
彼が戻ってきたということは、“仕事”が完了したことに他ならない。
普通の冒険者は知る由もない、冒険者ギルドの裏側にある仕事を。
「……これを」
スマルトの前に座るなり、グレイはカウンターに革袋を置く。
じゃり、と、金属音がする。
「確認するぞ?」
言うが早いか、スマルトは革袋の中身をカウンターの上に開けた。
黄金製の指輪が六個。表面に複雑な装飾が施されたそれらは、冒険者ギルドが発行しているもので間違いない。
Aランク冒険者の証。
再び、革袋の中に仕舞われる六個の指輪。
「……ご苦労だったな」
一度だけ大きくため息を吐くと、スマルトは隠し棚から一本の酒を取り出す。
二十年熟成物の蒸留酒。細長い長方形の瓶の中で、琥珀色の液体がランプの光を吸い込みながら、静かに揺蕩っている。
磨いたばかりのグラスに琥珀色の酒を注ぎ、スマルトは労うようにグレイの前に置いた。
血色の悪い乾いた唇が、グラスの厚い縁に触れる。
見た目よりも重さのあるグラスを僅かに傾け、グレイはほんの少し、酒を口に含んだ。
苦み。辛み。抉み。甘み。それら全てを内包したスモーキーな香りが、口から鼻へと抜けていく。
「……相変わらず、不味い酒だ」
腹の底に溜まった感情の残滓。それを吐き出すように呟く。
彼の生気の無い鼠色の瞳が琥珀色の水面に映り、ゆらゆらと揺れている。
「不味い酒ほど、現実を忘れるにはうってつけだろう?」
意味深な笑みを微かに浮かべながら、スマルトはグレイを見遣る。
スマルトの前にも一つ、グレイに出したものと同じ酒が注がれたグラスが置かれていた。
酒の香りが、虚しく立ち上る。
「……皮肉か?」
大して興味も無さげに、グレイは頬杖を突きながら視線を外した。
「そんなことを皮肉で言えるほど、無知じゃねぇだろうが。お互いにな」
革袋をポケットの中に仕舞いながら、スマルトは言う。
革袋の中の指輪が擦れ合う音が、まるで何かを訴えているようで。
「……また、次も頼んだぞ。明日かも知れんし、一年先かも知れんが」
「それが、お前と結んだ“契約”だからな」
今更当たり前のことを言うな。そう言いたげに、グレイは席を立った。
カウンターには、まだ半分以上酒が入ったままのグラスが残されている。
「……言い忘れていた」
扉の前で、グレイは振り返らずに立ち止まる。
「金貨三十枚だ」
一瞬、何のことか分からず、スマルトの動きが止まった。
「あのメダリオンの買い取り費用だ。経費として請求しておいてくれ」
「……あ、ああ。上には話を通しておく」
スマルトが返したときにはもう、グレイの姿はそこには無かった
外に出ると、季節外れに寒さを感じる風が吹いていた。
このような風が吹いた翌日は、例外無く雨が降る。
夜もそれなりに遅い時間ではあるものの、まだ開いている店もこの街には多い。
冒険者ギルドの支部がある通りも、それなりに人が行き交っている。
職人の師弟らしき年の離れた二人組。
千鳥足で歩く若者。
顔を赤くしながら酔いを醒ましているらしい、戦士らしき体格の大きな男。
そんな中、前から歩いてくる一団に、グレイは見覚えがあった。
──確か……“モグラ団”、とか言ったな。
“モグラ団”。最近Cランクに昇格した、冒険者の一団だ。
一瞬、グレイは立ち止まってしまうが、すぐに再び歩き出す。
ただし、歩く速度を大幅に落として。
「ちょ、ちょっと、まだ飲み歩くつもり!? いい加減、宿に戻った方が良いんじゃないの?」
盗賊らしき軽装の女が、後方から声を張り上げている。
「もぉー、メリッサってば真面目ちゃんなんだからぁ! そんなんで盗賊なんてやっていけるのぉ? こういうときくらい、気楽に行きましょうよぉ、き・ら・く・に、ね」
妙に色っぽい声を出している、僧侶らしき女。
「お、おれはへたれなんかりゃないのかりゃなぁー! みひぇろよー! うひぇ、うひぇ、うひぇひぇひぇ」
完全に出来上がっているどころか、若干テンションが怪しい重戦士らしき男もいる。
「ちょっとエリク、どうすんのよこれ。ギリアムがかなりヤバい感じになってるんだけど」
「こうなったギリアムは止められないんだよな……。酔い潰して寝させるしかない」
魔術師らしき男はため息を吐きながら、明らかにうんざりした様子を見せている。
「トープ、あなた仮にもリーダーなんでしょ? だったら少しは何とかしなさいよこの惨状」
惨状とは言いつつも、周囲から好奇の目で見られている現状は、約二名によって引き起こされているようだ。
「あー、まあ、良いんじゃねぇの?」
盗賊らしき女から振られた戦士らしき青年は、指先で頬を掻きながら答える。
「ギリアムのヤツ、自分は足手まといなんじゃないかって、ちょっと悩んでたみたいだからな。発散させるって意味で」
「いや、発散させるにも程度ってものがあるでしょ程度ってものが」
話に上がっている当の本人は、怪しい笑い声を上げながら大股で歩いている。
「俺さ、仲間を誰も離脱なんてさせたくねぇんだよ。で、みんなでBランクに上がりてぇんだよ。前に俺達を助けてくれた、“翠の鷹”みたいにさ」
聞き覚えのある単語に、グレイは思わず足を止めた。
「まあ、確かに、仲の良い幼馴染みて言ってたわね、あの人達」
「だろ? 仲が良いってだけじゃやってけねぇかも知んねぇけどさ、それでも、みんなでBに上がりたいって夢は捨てたくねぇんだよな」
リーダーと呼ばれた戦士らしき青年──トープは、少しだけ困ったような表情を浮かべながら笑う。
「……まあ、あんたの言いたいことは分かったけど」
メリッサと呼ばれた盗賊らしき女は、少しだけ表情を柔らかくした。
「とりあえず、アレ、どうすんの?」
視線の指し示した先には、笑いながら鎧と服を脱ぎ始めた重戦士の男──ギリアムの姿。
「わーーーッッッ!!! ギリアム待て! 鎧は良いけど服は脱ぐな! お前こないだ全裸になって憲兵に捕まっただろうがーっ!!!」
大慌てで駆け寄るトープとメリッサ。
グレイは目を閉じると、足早にその場から遠ざかる。
──前に俺達を助けてくれた、“翠の鷹”みたいにさ。
耳の奥に蘇る、トープの言葉。
グレイは何かを言おうとして、しかし口を閉じた。
──彼らは“翠の鷹”がもうこの世に居ないことを知らない。だが、それを知ったところで……言ったところで何になる。
グレイは唇を固く結ぶ。
彼の瞳は鋭さを増しながらも、その顔からは何も感情を読み取ることは出来ない。
三度、グレイは立ち止まる。
そして、コートの裾を翻しながら、路地裏へと続く闇の中に消えていった。
雲一つ無い夜空から、一滴だけ、雨粒が落ちた。




