戦士・リヒター
ひどく重い沈黙が、漂っていた。
心臓が大きく脈打っているにも関わらず、体がやけに冷たい。
吸い込んだ空気が、肺の中で鉄の塊のように停滞している。
「……なあ、フォズ?」
幾分かの冷静さを取り戻したリヒターが、闇の中に向かって呼び掛ける。
返答は無い。
汗が頬を伝い、顎の先端から滴り落ちる。
「お、お前、さっきの仕返しか? 黙ってないで、返事くらいしたらどうなんだよ!」
降り積もる恐怖心を払い除けるように、リヒターはわざとらしい大声で言う。
本当は、彼にも分かっているのだろう。あの状況の後で返事が無いということが、何を意味しているのかを。
ざっ……。
自分ではない誰かが土を踏み締める音に、リヒターはびくりと体を震わせる。
地面に転がっている、消えかけたフォズの魔力灯。それが何者かに拾い上げられ、ゆっくりと宙に浮く。
ランタンのものよりも白みを帯びている光が再び明るさを増し、周囲を無機質に照らし出す。
否応無しにリヒターの視界に入った、力無く投げ出された両足。
それは、彼の想像通りのことが行われた証拠に他ならない。
魔力灯を拾い上げた何者かが、更に光源を高く掲げる。
現れたのは、灰色の髪の男──イェルグだ。
彼はまるで遠くを見渡すかのように、魔力灯を頭上の高さにまで掲げている。
「……ぁ…………」
リヒターは小さく声を漏らす。
目が合った。
彼の恋人を殺し、つい先程、同じパーティの仲間を殺した相手と。
大きく見開かれた目の中で、じっとこちらを見据える鼠色の瞳。
何の感情も読み取れない、周囲の闇すら呑み込むような“無”が広がっている瞳。
──いいか。夜に森の中に入るんじゃないぞ。
リヒターが幼い頃に父から事ある毎に聞かされた話が、何故か思い起こされた。
記憶の底に埋もれていた、子供を怖がらせて言うことを聞かせるために語る類の、よくある話。
──夜の森にはフクロウが出る。アイツらは夜の神の使いだ。ネズミを取ってくれるが、目が合えば人間だって“連れて行かれる”ぞ。
闇を見据えるために大きく開かれた目。
音も無く忍び寄る翼。
獲物を捕らえ、殺すための爪と嘴。
「あ、ああ、あああッ……!!」
顔色が見る間に青ざめていく。
怒りと狂気に満ちていた瞳には、今は恐怖と戦慄が満ちていた。
イェルグ──グレイが、一歩踏み出す。
ヒュッと、リヒターの喉が鳴った。
空気を求める魚の如く、口をぱくぱくさせる。
「あああっ! くっ、来るなっ、来るなァッ!!!」
彼の中で恐怖心が爆発した。
ようやく吐き出せた言葉は、大音声で静寂を破る。
絶叫し、リヒターは背を向け走り出した。森の中の道無き道を。
イラクサの棘がズボンに絡み付く。
イバラの針が頬をかすめる。
針葉樹の細い枝が、リヒターの額を叩いた。
乱れた息。荒い呼吸。
今まで経験したことがない速度で、彼の心臓が脈を打つ。
──逃げるんだここから。一刻も早く、“アレ”が来ない場所へ!
足が縺れる。
ぬかるんだ地面はリヒターの体重を支え切れない。
転んだ。
無様に倒れ込む。
泥に塗れ、立ち上がりながら振り返る。
魔力灯の光が、着かず離れずゆらゆらと揺蕩う。
鬼火。
リヒターの脳裏にその言葉が浮かんだ。
旅人を惑わし、沼地へと引き摺り込む死の光。
「くそォッッ!!」
上擦った声を上げながら、リヒターは再び走り出す。
──こんな、こんなはずじゃなかった。何で、何でこうなったんだ?
頭の中で繰り返される問い。
いつも通りにこの場所へと誘い込み、普段通りにやるはずだった。
ただ、それだけだったのに。
リヒターの視界の先、木々の隙間から、森の中の闇とは違う、夜の色を纏った空気が見えた。
──これで、“アレ”から逃げられる……!
思わず浮かぶ安堵の色。だが、それも一瞬のことだった。
ガンッ!
何かにぶつかった衝撃が、リヒターの体を大きく揺さぶる。
何が起きたのか、彼は瞬時に理解は出来なかった。
透明な“何か”が、森と、森の外との境界を隔てている。
ガラスに似ているが明らかに異なる、手で触れても温度を持たない硬い“何か”。
──これで、日が昇るまでは大丈夫よ。私達なら……それだけあれば余裕よね?
思い出されたのは、美しく微笑みながらパーティの面々を見渡すルシアの姿。
彼女の行使した障壁の魔法が、まだ生きていたのだ。自身の魔力ではなく、外部からの魔力──宝石に蓄積された魔力を使い発動させたためだ。
「ねぇリヒター。貴方と私はずっと一緒だって……あの時、言ってくれたわよね?」
リヒターの聴覚は、確かにその声を捉えていた。
幻聴の類か、それとも“本当に聞こえた”のか。
「……ち、畜生ッ!!!」
少なくとも日の出までは、この森から出る手段は無い。そのことを悟った彼は、再び森の中へと走り出す。
鬼火を振り切るように。
恋人の、ルシアの言葉を振り払うように。
──こうなったら何とか他の連中と合流して、夜明けまで持ちこたえるしかねぇ。あっちは一人だ。人数がいれば負ける訳が……
「んおッ!?」
思案しながらの全速力。足元の注意が留守になっていたのだろう、リヒターは何かに躓き、勢い良く転んだ。
ぬかるんだ地面が緩衝材となり、幸いにも怪我は無い。
立ち上がりながら、何に躓いたのかを確認する。倒れた木か何かだろう。彼は、そう想像しながら。
しかしその考えは、あっさりと裏切られた。
「なっ……ゲレル……!? 嘘だろ……」
リヒターが足を取られたもの。それは、地面に俯せに倒れ伏したゲレルだった。
ぴくりとも動かない。既に息絶えているのは明白だった。
僅かに射し込む月明かりが照らし出した、青黒く変色した頬。そして、半開きになった目がリヒターの視線と交錯する。
「クソッ! 何で俺が死ななきゃならねぇんだよ! クソリーダーがッ! クソッ、クソがッ!」
がなり立てるような声が、リヒターの耳に届いたような気がした。
「も、元はと言えばお前のせいだろっ! お前があの時あんなことを言わなけりゃ……!」
力尽きた冒険者の装備を売り払うことを提案したのは、ゲレルらしい。
激しく気が動転している様子で、リヒターは彼にだけ聴こえる声に反論するように叫ぶ。
その声を聞き付けたのか、彼の視界の隅に、魔力灯の光が小さく入り込んだ。
「ひッ!!」
明確な死を齎すそれから逃れるため、リヒターは再び走り出す。
──アイツは、ゲレルは所詮盾役だ。俺とヒカリとグローが居りゃあ、夜明けまでは持ちこたえられはず。
既に余裕を無くして久しい脳内で、何とか計算を弾き出すリヒター。
背後からは、魔力灯の光が一定の距離を保ちながら追いかけてくる。
付かず離れず、じりじりと、じりじりと。
まるでリヒターを何処かに誘導するような挙動だったが、当の彼自身には、それに気付く余裕すら存在しなかった。
徐々に高さを持ち始めた下弦の月が、弱々しい青白い光で森の中の闇を押し返す。
暗さに慣れきっていた目には、それで十分だった。
泥とも土とも言えぬ地面に残された足跡を見つけ、辿っていく
ゲレルのものでもグローのものでもない、男性よりは明らかに小さな足跡。
剣士のヒカリ。
僅かな希望を抱きつつ、リヒターは走る。
幾分か呼吸が落ち着いてきたのは、小さな安堵が芽生えたためだろう。
少しだけ余裕が出て来たのか、周囲の状況に目を遣りながら足跡を辿る。
少なくともここまでは、戦闘の形跡は見当たらない。
──生きてる、のか? アイツら、生きてるよな?
だが、向かった先に待っていたのは。
「……! 嘘……、だろ……」
草地に倒れ込んで動かないヒカリと、血塗れの状態で絶命しているグロー。
「おい! しっかりしろ! おいっ!」
返事は無い。
鼓動も無い。
呼吸も無い。
体温も無い。
それは、命の火がとうに消えているということ。
「あ、ああぁ…………」
絶望。
体を揺さぶられた反動で、ヒカリの顔がリヒターを向く。
もう何も写すことのなくなったヒカリの瞳に、リヒターの姿が映り込んだ。
「何故ですか」
抗議するように虚空を向いているヒカリの目と、リヒターの目が合う。
「何故、私が、このような道半ばで死なねばならないのですか」
冷静ながら、苛立ちを含んだ声。それが、頭の中に響いた気がした。
「……お、お前だって、よ、喜んでたじゃないか! 魔物より人間を斬った方が修行になるって、言ってただろうがっ!」
虚空に向かって、リヒターは言葉を並べる。
「俺は悪くねぇ! お、お前も共犯じゃねぇかよ!」
引き剥がすように視線を逸らし、後ろを向く。しかし、待っていたのはグローの瞳だった。
薄く開かれた目の中の濁った瞳が、真っ直ぐにリヒターを射抜く。
「あーあ、最悪だ」
声と共に鼻腔に入り込む、煙草の強いにおい。グローが日常的に吸っていたものと、同じにおい。
「あと少しで神官になれるってトコだったのによ、無能リーダーのせいでそれもパーだ。最悪だな」
性格の滲み出ている皮肉めいた口調は、確かにグローのものだった。
実際に声がしているのかは、確かめる術はないのだが。
「ち、違う、俺の、っ、俺のせいじゃねぇ、俺は、悪くねぇだろ、違うんだ、俺じゃねぇ、俺は、違う」
仲間だったはずの存在から浴びせられる、責めるだけの声。
リヒターは憔悴した様子で視線を泳がせる。
「あ、ああ……、フォズ……」
無意識に口に出てしまうその名前。
昔から彼だけは、リヒターがどんな失敗をしても責めることは無かった。
変わっていく“暁の獅子”の面々の中で、唯一変わらなかった彼だけが。
しかし、フォズは。
「ち、違う! 俺は、アイツを見捨てたんじゃねぇ! アイツが、アイツが助けを求めたら、俺は、アイツを助ける、そのつもりだったんだ! 本当だ、本当なんだよ!!」
誰に対して言い訳をしているのか、リヒターには既に分からなくなっていた。
フォズにだろうか。それとも、自分自身にだろうか。
「あッ! あああっ!!」
無様に言い訳を繰り返している程度の時間で、グレイには十分だった。
鬼火は、追い付いた。
無機質な光がリヒターを照らし、彼は恐怖の声を上げる。
グレイは距離を取りながら、少しずつ、少しずつ、リヒターに近付いていく。
緊張感で吐き気がする。
唾液が出ているはずなのに、喉が渇いて仕方ない。
──こ、こうなったら、どこかに隠れて朝までやり過ごすしかねぇ!
リヒターは身を隠す場所を求めて、転がるように走り出した。
グレイは追いかけようともしない。
──確か、売っ払えそうにないヤツを捨ててた洞窟が、森のどっかに。あそこなら、あの野郎も手が出せねぇはずだ。
適した場所に思い当たることが出来た幸運に感謝しつつ、リヒターは目的の場所に向かって全速力で走り出す。
それでも、彼の体の震えは止まらない。
気を抜けば叫んでしまいそうなくらいには、恐怖が彼を蝕んでいる。
べちょべちょ、と。泥を踏む音が響く。
視界が歪む。
膝が笑う。
肉体的な疲労も精神的な疲労も、既に頂点に達しているのだろう。
足が重い。
地面から生えた手が、下半身に絡み付いているような気がする。
知らずに溢れている涙。
──何で、何で俺がこんな目に。何で、何でだよ。
最早彼には、弱々しい八つ当たりしか出来ない。
リヒターが進むにつれ、徐々に周囲の光景が変化していく。
森を構成する樹種が針葉樹から広葉樹へと切り替わり、林床には茶色くなった落ち葉が積もっている。
棘の森からサルヴァ山南麓へ。
その道中に、目的の場所はあった。
森の中の緩やかな傾斜に、水平に口を開いた小さな洞窟。
入口の手前には低木が茂り、洞窟内の入口付近には、錆び付いた金属片や欠けた剣、原形を留めていない鎧などが散乱している。
リヒターの足がそれらを踏み締める度に鈍い金属音が立つが、彼には気にしている余裕など無かった。
洞窟の更に奥、中からは外の様子を窺うことが可能な距離で、リヒターは岩陰に身を潜める。
震える手で、硬銀製の長剣を構えながら。
──殺ってやる。殺ってやるからな。あの野郎が中に入って来たら、隙を突いて殺ってやる。
自身を奮い立たせるように、そして恐怖を隠すように。
リヒターは何度も、頭の中で繰り返していた。




