表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冒険者ギルドの掃除人  作者: 沼平 甫
冒険者狩り
17/37

戦士・リヒター

 ひどく重い沈黙が、漂っていた。


 心臓が大きく脈打っているにも関わらず、体がやけに冷たい。


 吸い込んだ空気が、肺の中で鉄の塊のように停滞している。


「……なあ、フォズ?」


 幾分かの冷静さを取り戻したリヒターが、闇の中に向かって呼び掛ける。


 返答は無い。


 汗が頬を伝い、顎の先端から滴り落ちる。


「お、お前、さっきの仕返しか? 黙ってないで、返事くらいしたらどうなんだよ!」


 降り積もる恐怖心を払い除けるように、リヒターはわざとらしい大声で言う。


 本当は、彼にも分かっているのだろう。あの状況の後で返事が無いということが、何を意味しているのかを。


 ざっ……。


 自分ではない誰かが土を踏み締める音に、リヒターはびくりと体を震わせる。


 地面に転がっている、消えかけたフォズの魔力灯。それが何者かに拾い上げられ、ゆっくりと宙に浮く。


 ランタンのものよりも白みを帯びている光が再び明るさを増し、周囲を無機質に照らし出す。


 否応無しにリヒターの視界に入った、力無く投げ出された両足。


 それは、彼の想像通りのことが行われた証拠に他ならない。


 魔力灯を拾い上げた何者かが、更に光源を高く掲げる。


 現れたのは、灰色の髪の男──イェルグだ。


 彼はまるで遠くを見渡すかのように、魔力灯を頭上の高さにまで掲げている。


「……ぁ…………」


 リヒターは小さく声を漏らす。


 目が合った。


 彼の恋人を殺し、つい先程、同じパーティの仲間を殺した相手と。


 大きく見開かれた目の中で、じっとこちらを見据える鼠色の瞳。


 何の感情も読み取れない、周囲の闇すら呑み込むような“無”が広がっている瞳。


──いいか。夜に森の中に入るんじゃないぞ。


 リヒターが幼い頃に父から事ある毎に聞かされた話が、何故か思い起こされた。


 記憶の底に埋もれていた、子供を怖がらせて言うことを聞かせるために語る類の、よくある話。


──夜の森にはフクロウが出る。アイツらは夜の神の使いだ。ネズミを取ってくれるが、目が合えば人間だって“連れて行かれる”ぞ。


 闇を見据えるために大きく開かれた目。


 音も無く忍び寄る翼。


 獲物を捕らえ、殺すための爪と嘴。


「あ、ああ、あああッ……!!」


 顔色が見る間に青ざめていく。


 怒りと狂気に満ちていた瞳には、今は恐怖と戦慄が満ちていた。


 イェルグ──グレイが、一歩踏み出す。


 ヒュッと、リヒターの喉が鳴った。


 空気を求める魚の如く、口をぱくぱくさせる。


「あああっ! くっ、来るなっ、来るなァッ!!!」


 彼の中で恐怖心が爆発した。


 ようやく吐き出せた言葉は、大音声で静寂を破る。


 絶叫し、リヒターは背を向け走り出した。森の中の道無き道を。


 イラクサの棘がズボンに絡み付く。


 イバラの針が頬をかすめる。


 針葉樹の細い枝が、リヒターの額を叩いた。


 乱れた息。荒い呼吸。


 今まで経験したことがない速度で、彼の心臓が脈を打つ。


──逃げるんだここから。一刻も早く、“アレ”が来ない場所へ!


 足が(もつ)れる。


 ぬかるんだ地面はリヒターの体重を支え切れない。


 転んだ。


 無様に倒れ込む。


 泥に塗れ、立ち上がりながら振り返る。


 魔力灯の光が、着かず離れずゆらゆらと揺蕩(たゆた)う。


 鬼火。


 リヒターの脳裏にその言葉が浮かんだ。


 旅人を惑わし、沼地へと引き摺り込む死の光。


「くそォッッ!!」


 上擦った声を上げながら、リヒターは再び走り出す。


──こんな、こんなはずじゃなかった。何で、何でこうなったんだ?


 頭の中で繰り返される問い。


 いつも通りにこの場所へと誘い込み、普段通りにやるはずだった。


 ただ、それだけだったのに。


 リヒターの視界の先、木々の隙間から、森の中の闇とは違う、夜の色を纏った空気が見えた。


──これで、“アレ”から逃げられる……!


 思わず浮かぶ安堵の色。だが、それも一瞬のことだった。


 ガンッ!


 何かにぶつかった衝撃が、リヒターの体を大きく揺さぶる。


 何が起きたのか、彼は瞬時に理解は出来なかった。


 透明な“何か”が、森と、森の外との境界を隔てている。


 ガラスに似ているが明らかに異なる、手で触れても温度を持たない硬い“何か”。


──これで、日が昇るまでは大丈夫よ。私達なら……それだけあれば余裕よね?


 思い出されたのは、美しく微笑みながらパーティの面々を見渡すルシアの姿。


 彼女の行使した障壁の魔法が、まだ生きていたのだ。自身の魔力ではなく、外部からの魔力──宝石に蓄積された魔力を使い発動させたためだ。


「ねぇリヒター。貴方と私はずっと一緒だって……あの時、言ってくれたわよね?」


 リヒターの聴覚は、確かにその声を捉えていた。


 幻聴の類か、それとも“本当に聞こえた”のか。


「……ち、畜生ッ!!!」


 少なくとも日の出までは、この森から出る手段は無い。そのことを悟った彼は、再び森の中へと走り出す。


 鬼火を振り切るように。


 恋人の、ルシアの言葉を振り払うように。


──こうなったら何とか他の連中と合流して、夜明けまで持ちこたえるしかねぇ。あっちは一人だ。人数がいれば負ける訳が……


「んおッ!?」


 思案しながらの全速力。足元の注意が留守になっていたのだろう、リヒターは何かに(つまず)き、勢い良く転んだ。


 ぬかるんだ地面が緩衝材となり、幸いにも怪我は無い。


 立ち上がりながら、何に躓いたのかを確認する。倒れた木か何かだろう。彼は、そう想像しながら。


 しかしその考えは、あっさりと裏切られた。


「なっ……ゲレル……!? 嘘だろ……」


 リヒターが足を取られたもの。それは、地面に俯せに倒れ伏したゲレルだった。


 ぴくりとも動かない。既に息絶えているのは明白だった。


 僅かに射し込む月明かりが照らし出した、青黒く変色した頬。そして、半開きになった目がリヒターの視線と交錯する。


「クソッ! 何で俺が死ななきゃならねぇんだよ! クソリーダーがッ! クソッ、クソがッ!」


 がなり立てるような声が、リヒターの耳に届いたような気がした。


「も、元はと言えばお前のせいだろっ! お前があの時あんなことを言わなけりゃ……!」


 力尽きた冒険者の装備を売り払うことを提案したのは、ゲレルらしい。


 激しく気が動転している様子で、リヒターは彼にだけ聴こえる声に反論するように叫ぶ。


 その声を聞き付けたのか、彼の視界の隅に、魔力灯の光が小さく入り込んだ。


「ひッ!!」


 明確な死を齎すそれから逃れるため、リヒターは再び走り出す。


──アイツは、ゲレルは所詮盾役だ。俺とヒカリとグローが居りゃあ、夜明けまでは持ちこたえられはず。


 既に余裕を無くして久しい脳内で、何とか計算を弾き出すリヒター。


 背後からは、魔力灯の光が一定の距離を保ちながら追いかけてくる。


 付かず離れず、じりじりと、じりじりと。


 まるでリヒターを何処かに誘導するような挙動だったが、当の彼自身には、それに気付く余裕すら存在しなかった。


 徐々に高さを持ち始めた下弦の月が、弱々しい青白い光で森の中の闇を押し返す。


 暗さに慣れきっていた目には、それで十分だった。


 泥とも土とも言えぬ地面に残された足跡を見つけ、辿っていく


 ゲレルのものでもグローのものでもない、男性よりは明らかに小さな足跡。


 剣士のヒカリ。


 僅かな希望を抱きつつ、リヒターは走る。


 幾分か呼吸が落ち着いてきたのは、小さな安堵が芽生えたためだろう。


 少しだけ余裕が出て来たのか、周囲の状況に目を遣りながら足跡を辿る。


 少なくともここまでは、戦闘の形跡は見当たらない。


──生きてる、のか? アイツら、生きてるよな?


 だが、向かった先に待っていたのは。


「……! 嘘……、だろ……」


 草地に倒れ込んで動かないヒカリと、血塗れの状態で絶命しているグロー。


「おい! しっかりしろ! おいっ!」


 返事は無い。


 鼓動も無い。


 呼吸も無い。


 体温も無い。


 それは、命の火がとうに消えているということ。


「あ、ああぁ…………」


 絶望。


 体を揺さぶられた反動で、ヒカリの顔がリヒターを向く。


 もう何も写すことのなくなったヒカリの瞳に、リヒターの姿が映り込んだ。


「何故ですか」


 抗議するように虚空を向いているヒカリの目と、リヒターの目が合う。


「何故、私が、このような道半ばで死なねばならないのですか」


 冷静ながら、苛立ちを含んだ声。それが、頭の中に響いた気がした。


「……お、お前だって、よ、喜んでたじゃないか! 魔物より人間を斬った方が修行になるって、言ってただろうがっ!」


 虚空に向かって、リヒターは言葉を並べる。


「俺は悪くねぇ! お、お前も共犯じゃねぇかよ!」


 引き剥がすように視線を逸らし、後ろを向く。しかし、待っていたのはグローの瞳だった。


 薄く開かれた目の中の濁った瞳が、真っ直ぐにリヒターを射抜く。


「あーあ、最悪だ」


 声と共に鼻腔に入り込む、煙草の強いにおい。グローが日常的に吸っていたものと、同じにおい。


「あと少しで神官になれるってトコだったのによ、無能リーダーのせいでそれもパーだ。最悪だな」


 性格の滲み出ている皮肉めいた口調は、確かにグローのものだった。


 実際に声がしているのかは、確かめる術はないのだが。


「ち、違う、俺の、っ、俺のせいじゃねぇ、俺は、悪くねぇだろ、違うんだ、俺じゃねぇ、俺は、違う」


 仲間だったはずの存在から浴びせられる、責めるだけの声。


 リヒターは憔悴した様子で視線を泳がせる。


「あ、ああ……、フォズ……」


 無意識に口に出てしまうその名前。


 昔から彼だけは、リヒターがどんな失敗をしても責めることは無かった。


 変わっていく“暁の獅子”の面々の中で、唯一変わらなかった彼だけが。


 しかし、フォズは。


「ち、違う! 俺は、アイツを見捨てたんじゃねぇ! アイツが、アイツが助けを求めたら、俺は、アイツを助ける、そのつもりだったんだ! 本当だ、本当なんだよ!!」


 誰に対して言い訳をしているのか、リヒターには既に分からなくなっていた。


 フォズにだろうか。それとも、自分自身にだろうか。


「あッ! あああっ!!」


 無様に言い訳を繰り返している程度の時間で、グレイには十分だった。


 鬼火は、追い付いた。


 無機質な光がリヒターを照らし、彼は恐怖の声を上げる。


 グレイは距離を取りながら、少しずつ、少しずつ、リヒターに近付いていく。


 緊張感で吐き気がする。


 唾液が出ているはずなのに、喉が渇いて仕方ない。


──こ、こうなったら、どこかに隠れて朝までやり過ごすしかねぇ!


 リヒターは身を隠す場所を求めて、転がるように走り出した。


 グレイは追いかけようともしない。


──確か、売っ払えそうにないヤツを捨ててた洞窟が、森のどっかに。あそこなら、あの野郎も手が出せねぇはずだ。


 適した場所に思い当たることが出来た幸運に感謝しつつ、リヒターは目的の場所に向かって全速力で走り出す。


 それでも、彼の体の震えは止まらない。


 気を抜けば叫んでしまいそうなくらいには、恐怖が彼を蝕んでいる。


 べちょべちょ、と。泥を踏む音が響く。


 視界が歪む。


 膝が笑う。


 肉体的な疲労も精神的な疲労も、既に頂点に達しているのだろう。


 足が重い。


 地面から生えた手が、下半身に絡み付いているような気がする。


 知らずに溢れている涙。


──何で、何で俺がこんな目に。何で、何でだよ。


 最早彼には、弱々しい八つ当たりしか出来ない。


 リヒターが進むにつれ、徐々に周囲の光景が変化していく。


 森を構成する樹種が針葉樹から広葉樹へと切り替わり、林床には茶色くなった落ち葉が積もっている。


 棘の森からサルヴァ山南麓へ。


 その道中に、目的の場所はあった。


 森の中の緩やかな傾斜に、水平に口を開いた小さな洞窟。


 入口の手前には低木が茂り、洞窟内の入口付近には、錆び付いた金属片や欠けた剣、原形を留めていない鎧などが散乱している。


 リヒターの足がそれらを踏み締める度に鈍い金属音が立つが、彼には気にしている余裕など無かった。


 洞窟の更に奥、中からは外の様子を窺うことが可能な距離で、リヒターは岩陰に身を潜める。


 震える手で、硬銀製の長剣を構えながら。


──殺ってやる。殺ってやるからな。あの野郎が中に入って来たら、隙を突いて殺ってやる。


 自身を奮い立たせるように、そして恐怖を隠すように。


 リヒターは何度も、頭の中で繰り返していた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ