雇用条件とシャンプー
翌日。
いつも通りシルビアちゃんが美容院にやってきた。
今日はまだ休日だ。
シルビアちゃんは心なしか肩に力が入っている様に見える。
緊張で顔も強張っている。
力を抜けと言っても、難しいだろうな。
だってこれまではボランティアだったけど、今日からはれっきとした出勤だ。
即ち今日は出勤初日ということになる。
こちらとしても、あまり初日からリラックスされてもねえ。
初々しくていいじゃないか。
「シルビアちゃん、先ずはこれからについて話そうか」
本当は昨日の間に話したかったが、あの後宴会気分になったマリオさんとライゼルの所為で、そんな暇はなかった。
何かとこの二人は浮かれていた。
マリオさんはともかく、何故にライゼルまで?
俺もそれなりに飲まされてしまったよ。
有頂天になってしまったマリオさんとライゼルのはしゃぎ様は・・・
思わずほっこりしてしまった・・・と大人の回答をしておこう。
少々マリオさんの親バカ感が気にはなったが。
もしかしたら今日も同行してくるんじゃないかと疑うぐらいだったよ。
最初にシルビアちゃんと話したいことは、基本的な就業に関する事や給料等、待遇面についての話だ。
こういう処はちゃんとしておきたい。
俺はホワイト企業を目指したいのでね。
「はい!よろしくお願いします」
シルビアちゃんをカウンター前の椅子に座らせた。
「飲み物は何がいいかな?」
椅子に座るとシルビアちゃんが答えた。
「あれがいいです、えーと、イチゴミルク!」
ほんとに甘い物が好きなんだな。
口元が緩みそうだよ。
「了解、待っててね」
「はい!」
俺はバックルームに入った。
材料を準備する。
イチゴは今日の朝のスーパーでの買い出しで買っておいた。
他にも食材をいくつも。
今は詳細は省く。
さて、イチゴの蔕を取り、グラスの中でイチゴを潰してミルクを入れる。
そして砂糖を加えて、少し掻き混ぜる。
実に簡単な作業だ。
俺はいつもの如くコーヒーを準備する。
今日の気分はコロンビア産の豆だ。
苦みがあって濃い味だ。
昨日はそれなりに飲みに付き合ったからな。
頭をすっきりとしたい。
にしても・・・マリオさんは相当浮かれていたな。
何でだろう?
シルビアちゃんが俺の店に勤める事がそんなに嬉しい事なのだろうか?
家は零細企業ですよ。
父親として娘が目指す目標が出来た事が嬉しいのだろうな。
気持ちは分からんでもない。
カウンターに腰かけて、イチゴミルクをシルビアちゃんに手渡す。
シルビアちゃんは嬉しそうにイチゴミルクを受け取っていた。
俺はコーヒーを一口啜る。
うん、濃い味だ。
苦みが口の中に広がる。
はあ・・・頭がすっきりしそうだ。
「さて、今日からシルビアちゃんは『アンジェリ』の従業員となる。そこで雇用条件などを話し合っておきたい」
「はい!よろしくお願いします」
イチゴミルクに目尻を緩めながらもシルビアちゃんは頷いた。
「最初に、7日を1週間として、週に2日は定休日とする」
「はい」
頷くシルビアちゃん。
「1ヶ月、要は30日を1ヶ月として考えて、毎月の基本的な月収は金貨15枚とするつもりだ、いいかな?」
「それは・・・本当によろしいのでしょうか?」
計算に戸惑いのないシルビアちゃんは天晴だ。
数字の話となると飲み込みが早い。
「実際の処、厳しいのは事実だ、というのもシャンプーやカットなど現場に入れない者にお金を払うのは負担となる。要はシルビアちゃんの作業は利益を直接得られないからね」
「ですよね・・・」
下を向いたシルビアちゃん。
罪悪感があるのだろう。
「でも、美容院の運営は現場が全てではない」
顔を上げるシルビアちゃん。
「はい、それはこの数週間で学びました」
ならばよし。
後方系の業務がなければ美容院は立ち行かない。
「受付業務、お客の誘導、お茶出し、おしぼりの提供、掃除、会計業務など現場作業以外の業務も多岐渡っている」
「・・・」
無言で頷くシルビアちゃん。
「それは労働以外の何物でもない、そしてありがたい事にシルビアちゃんは、その業務のほとんどを既に習得済みだ」
再度シルビアちゃんが頷く。
真剣な表情そのものだ。
「その為、先行投資という側面もありつつも、お店にとっては無くてはならない従業員だから給料をもらう事を、悪い事だと考えては欲しくないんだ」
「はい・・・」
神妙に頷くシルビアちゃん。
「そしてお店の営業時間は朝10時から夜の7時までだ、でも営業状況によっては夜の7時を超えることもある。夜の7時以降は残業となる為、ここの部分に関しては時間給で計算して25%益しとする」
「そんなにも・・・」
「これは労働者としての当然の権利だ」
「権利ですか?」
シルビアちゃんはいまいちよく分かっていないみたいだ。
「権利だ、ここは公平を規したい。その為このタイムカードという魔道具を使って貰うことにする」
権利について話し出すと長くなるから割愛だ。
これにこの世界での作業者や従業員の労働権利がどんな物なのかを俺は知らない。
余計な話はしない方がいい。
魔道具というワードにシルビアちゃんが反応する。
「タイムカードですか?」
興味が顔に張り付いていた。
「ああ、ちょっと来てくれるかい?」
「畏まりました」
シルビアちゃんを伴ってバックルームに入った。
俺はタイムカードについてシルビアちゃんに説明した。
既に日本の数字を理解しているシルビアちゃんにとってはお手の物だ。
あっさりとタイムカードの使用方法を理解していた。
なんとも心強い。
「こんな魔道具もあるのですね・・・」
シルビアちゃんは機械その物に興味を示していた。
流石は商売人の娘だ。
商売人根性が半端ない。
興味深々の処すまんが次に移ろうか。
まだまだ雇用条件について話をしないといけないからね。
「給料は毎月月末締めの10日後払いとします。でも10日後がお店の定休日に重なってしまった時は、定休日の前の営業日に給料は支払います」
「はい」
「そして休憩時間だが、一日の就業時間の中で上手に一時間取る様にして欲しい」
「上手にですか?」
申し訳ないがそうしてくれ。
美容院は固定した休憩時間なんて設けれないからね。
どうしてもお客さん都合で休憩時間は変わってしまう。
俺なんかはほとんど休憩時間なんて取れていない。
余りに腹が空いた時に、こっそりとおにぎりを貪るなんてもうなれっこだよ。
早食いが当たり前になってしまった。
というか、身に付いてしまった。
身体には良くないんだろうけどさ。
「そうだ・・・ここは心苦しいところになるのだが、ここからここまでと決めることは難しいんだ。というのもお客さんにとってはこちらの休憩時間なんてあって無い物なんだからさ」
「確かに・・・」
顎に手を当ててシルビアちゃんが考え込んでいた。
この数週間のボランティアでよく理解できているのだろう。
シルビアちゃんもこれまでに真面な休憩時間なんて取れていなかったからね。
本当に申し訳ない。
ボランティアに頼り切ってしまった俺が悪いのだが・・・
「だからその日のお客さんの状況に応じて、上手く休憩時間を取って欲しいんだよ。なんなら数回に分けて取って貰ってもいい」
「はい、どうにかします」
心強いな。
助かるよ。
「そしてシルビアちゃんはこれから美容師を目指すことになる」
「・・・」
シルビアちゃんの緊張度が増した。
これまでに無い堅い表情でこちらを見ている。
まあそう緊張しなさんなって。
「これはお店にとってはある意味負担になる」
「負担ですか?」
「そうだ、でもそこはあまり気にしないで欲しい」
「どういうことでしょうか?」
「せっかくだ、はっきり言おうか」
「お願いします!」
緊張で顔が引き攣っている。
「やはり美容師はお客を取って一人前だ。その為の修業を行わなければならない」
「はい」
シルビアちゃんは身構えている。
「要は今のシルビアちゃんは売上を作れる人材ではないということなんだよ」
そうかと改めての発言にシルビアちゃんは項垂れている。
「確かに・・・」
何度も頷いていた。
「売上を取れる人材になる為の、その修業は数日でどうにかなるものではないんだ」
「・・・」
「先ずはシルビアちゃんにはシャンプーマンを目指して貰う。いきなりハサミを持たせる事はあり得ない」
先ずはここからなんだよな。
「それは・・・分かっています・・・」
「じゃあ、そのシャンプーの修業はどうすると?」
「それは・・・」
シルビアちゃんは分かり易く戸惑っている。
「そこなんだよ、もし美容院『アンジェリ』の現状に余裕があったら、営業時間内でも実技を行ったり、俺が教えたりできるのだが、今は予約でいっぱいの状況だ。オープンして間もない『アンジェリ』としてはこれを逃す訳にはいかない」
「そうですよね・・・」
「じゃあそのシャンプーマンとしての勉強をいつシルビアちゃんはするんだい?」
「それは・・・」
どうしましょうと俺を見つめている。
「こうなると、営業時間前後にするしかないよね?一日中働きづめた上での修行となる。本当にそれだけの事をするつもりはあるのかい?体力的に追い込まれるよ?」
「それは・・・願ったりかなったりです!」
おお!気合入っていますね。
好きですよ俺は、少々昭和じみてはいるが、これが現実。
こちらとしても思わず肩を回したくなるってなもんでしょうが。
「そうか・・・分かった」
「はい!全力で頑張ります!」
瞳が輝くシルビアちゃん。
気合満々だ。
「ここで一つアドバイスだ」
俺の発言に身構えるシルビアちゃん。
「それは・・・」
「たくさんのモニターを準備しておくといい」
これが意外に難しいんだよね。
なかなか集まってくれないんだよ。
シャンプーはウィッグで練習とはいかないからね。
「モニターですか?」
「そうだ、シルビアちゃんはオゾンシャンプーのモニターを経験しているだろう?」
「はい」
「これからはシルビアちゃんが行うシャンプーの練習台、即ちモニターが必要ということなんだよ」
「なるほど・・・それは・・・余りに簡単過ぎます・・・」
シルビアちゃんの眼が輝く。
はい?簡単?
何でだ?
「モニターのメンバー集めは自信があります!」
そうなのか?
どうして?
「頑張ります!」
「・・・」
まあいいだろう。
ちょっと分からんが、本人が簡単だと言うからには任せよう。
「シャンプーの練習は早速明日から行うよ、いいね?」
「はい!」
「そして福利厚生として昼御飯と晩御飯を無料で提供しよう、要は賄いだな」
「賄いですか?」
首を傾げるシルビアちゃん。
「そうだ、よく食堂なんかで働いていると無料で御飯を食べさせて貰えるだろう?」
「・・・聞いたことがあります」
「それと同じさ、『アンジェリ』では無料で飲み物を提供しているだろう?」
「はい」
「余裕が出来たら簡単な軽食を提供しようと実は思っているんだよ、こちらは有料だけどね」
「そうなんですね、それは良いアイデアです!」
「だろう?」
これは日本ではちょっと難しいお店の形態だ。
中にはそれを行っているお店があるのは知っている。
でもいざ行ってみるとなると何かとハードルが高いのが現実。
というのも、先ず美容院を開業するには保健所に届出なければならない。
そして保健所の立ち合い検査が必要となる。
その立ち合い検査はそれなりにシビアだ。
例えばこのお店にもあるキッズルームだが、カットスペースからの髪が入らない構造にしなければならない。
ある程度カットスペースと分離しなければならないということだ。
保健所の職員に言わせると大事な要素らしい。
俺にはいまいちその理由がよく分からなかったが。
そして櫛やハサミを殺菌する為の、専用の紫外線の器具等の設置も必須なのだ。
昔ながらの銭湯に行くと、たまに見かけるあの紫色に発光している機械のことだ。
他にもいくつかの条件があり、飲食を伴うとなると相当ハードルが上がる。
おそらく食事をするスペースはしっかりと区切る様に言われてしまうだろう。
どうしておそらくかと言うと、市町村の保健所によって多少考え方に違いがあるからだ。
この匙加減の違いははっきり言ってムカつく。
統一した見解を教えて欲しいものだよ。
地域によって違うはこちらにとっては負担でしかない。
これをどうにかするという国会議員がいたら、俺は迷わず一票を入れる。
それぐらい何とかして欲しいと思う。
市議会議員でもいいよ。
どうにかしてくれ。
ふう・・・小言は止めておこうか。
でもここは異世界、保健所の立ち合い検査なんて必要ない。
髪が飲食物に混入しない様にするなんて、こういっては何だが朝飯前だ。
こちらはプロなんでね。
舐めないで欲しい。
衛生管理なんてお手の物なんだからさ。
そこら中に次亜塩素酸水が置いてあるしね。
パーマやカラーの放置時間に飲み物を飲むだけではなく、軽食を楽しんで欲しい。
そんなお店があってもいいのでは?
俺はそう考えている。
食事をしながらのんびりと、和気あいあいと会話を楽しむ。
悪くないと思うのだが、どうだろうか?
因みに食事目的のみのお客は今の処認めないつもりだ。
もっと余裕が生れたら、庭先のみで行っても良いとは考えてはいるが、なによりも今は人手が足りなさ過ぎる。
これをしようと思うと、とてもでは無いがシルビアちゃんと二人でとはいかない。
場合によってはそれ専用のコックを雇い入れる必要があるだろう。
それぐらい人材が足りていない。
俺の理想を叶えるには何よりも人手が足りていないのだよ。
本音を言えば、今は客よりスタッフが欲しい。
欲張っちゃあいけないけどね。
募集すればそれなりに人は集まってくるだろうが、ここは異世界。
まだまだ俺はこの世界とこの世界の人々を知らなさ過ぎる。
そしてしつこいようだが俺は美容師なんでね。
料理は趣味でしかない。
出来上がった食事を日本で仕入れて提供する。
又はデリバリーで頼むという裏技もある。
でもそれでは面白くないだろう。
手抜きは好きだが商売となると話が変わる。
多少は手間暇を掛けなければと思ってしまう。
不要な拘りだと笑ってくださいな。
だってせっかく厨房があるのだから。
とは言っても俺がそうしたのだけどね。
趣味が過ぎたのか?
「と言う事で、この国の人達の口に合う料理を考えるという側面もあるから遠慮なく賄いを受け入れて欲しい」
「そんな・・・私・・・泣きそうです・・・だって、毎日美味しいお食事や甘味が食べられるんですよね?」
おいおい、こんなことで泣かないでくれよ・・・
そうだった、シルビアちゃんは甘味中毒だった。
ハハハ・・・
沢山甘味を準備させて貰うよ。
甘味を楽しんで下さいな。
「だね・・・」
「私、死ぬ気で頑張ります!絶対美容師になってみせます!」
死なれては困るな。
シャンプーやり過ぎ死亡事件てな。
やる気スイッチを更に押してしまったかな?
ニュアンスが間違っているな。
間違いなく。
シルビアちゃんの特訓の前に、折角なのでシャンプーの基本をお披露目しよう。
少々照れるが付き合って貰おうか。
先に大事なのは基本姿勢だ。
無防備に姿勢を考えずに中腰で行っていると、早々に腰を痛めてしまう。
これは良くない。
素人がやりがちなミスだ。
実際に腰を痛めてしまい、美容師になることを諦めてしまった美容師見習いも結構いるのだ。
若さに任せて無茶をするとこうなる。
ちょっとは考えて欲しい。
見習いといってもプロでしょうに。
というよりそういった指導を出来ていない洗堀者達にも問題がある。
これぐらいにしておこうか。
両足は左右では無く、前後に開く事。
身体を動かす際の体重移動は膝を使う事が重要になる。
どんなスポーツや身体を使う業務も似た様なものだと俺は考えるのだが、膝を使う事が腰に負担を掛けない事になる。
体重移動のコツは膝なのである。
次に極力前かがみにならない様に注意する。
それは中腰を避ける事だけではなく、視線を頭の一点では無く全体を見る様にする為でもある。
視線は重要だ。
特に美容師にとっては髪を見ている様で、頭全体を見れる視線を培わなければいけない。
視線、視野、視覚、俯瞰。
目線は広く持つ必要がある。
分かって貰えるだろうか?
常に髪全体を把握するということだ。
泡立ては水とシャンプーと空気のバランスだ。
ここは表現に困る所ではあるのだが、この3つのバランスで泡は立ち上がる。
シャンプー液を沢山使えばいいという訳では無い。
とは言っても余りに油ギッシュな髪には、たくさんのシャンプーが必要だけどね。
余談になってしまうのだが、1ヶ月髪を洗っていないというお婆さんをかつて担当した事があった。
髪を後ろでお団子に纏めた髪形で、お団子を解く事すら難しかった。
なんで来店したの?
と、問いかけたくなったぐらいだ。
そこで本人の了承を得て、お団子をぶった切ったことがある。
そして俺は見てはならない物を見てしまった。
なんとお団子の中身はカビだらけだったのである。
今思い出してもゾゾ毛が走ってしまう。
当然自分のハサミなんて使っていない。
使える訳がないでしょうが!
愛用のハサミが一発で死ぬぞ!
工作用のハサミを使わせていただきましたよ。
その時のシャンプーは、シャンプーと言う名の食器用洗剤を使わせて頂きましたけどね。
それでも3回ほど洗い流しましたけど・・・
手触りはキュッキュとしておりましたよ。
もう二度とやりたくは無い。
終わった時には手がカサカサになった。
ハンドクリームを大目に塗布しておきました。
気分の悪い余談で申し訳ない。
話を戻そうか。
泡をしっかりとお湯で流す事で、汚れが8割方落ちる。
その為、全体を万遍なくしっかりとお湯で流す必要がある。
泡立てる時の指使いは、顔周りは弱く。
そしてだんだんと強くして、ゴールデンポイントと呼ばれる頭頂部へと向かう。
要は顔の周りから頭頂部に向かって力を込めていくということだ。
そして単一の方向だけではなく、様々な方向から頭頂部に向かって泡立てていく。
これがシャンプーの基本となる。
分かって貰えたかな?
参考程度にどうぞ。