ファントム
漆黒の一面。夜の暗闇に僕らは足が竦む生き物だろう。狂暴な野生動物が襲ってくるかもしれない、凶悪な敵兵が銃を構えてるかもしれない。ヤクザに弄ばれたり、殺人鬼に刺されるかもしれない。あるいは――――誰も知らない化け物が牙を剥くかも。
僕らは恐れているのだ。暗黒という未知を。夜の孤独を。
「あー、疲れた」
塾が終わり、豆腐のように四角く、それよりも堅苦しいビルの小さなドアを開け、僕は一息ついた。暖房の埃の籠った空気を肺から吐き出し、それほど新鮮でもない、冷たさゆえにそう感じる夜の空気を吸い込んで、町明りを頭に照らす車の渦と黒茶の行き交う人混みに潜る。
どうでもいいような群れの一人。僕も右左変わらず、家に帰る。高校二年生。持っている鞄はやけに小さくとも、その身なりはまだ幼くとも、時間の川に流れて帰路を辿るのは同じ。だから疲れてきってどこかうんざりした頭も気づけば立ち疲れる駅のホーム、人に埋もれる電車の角、涼しくも生温かい電車の椅子、一人きりの路地。住宅街の隙間。
「もう十一時か。暗いな」
黒く染まったコンクリートの道路から静かな夜を見上げる。目が悪くて星は映らない。眼鏡をつけていても度は高くない。せいぜい向こうの横断歩道の赤信号がわかればいいくらいだ。
六時くらいに高校から出て、そのまま塾に行ってこの道を戻る。毎日とは退屈なものだ。ヘトヘトになって湧かなくなった気力は焦燥感に、欠伸と混ざり合ってまた涙が出る。今日ももう終わるというのに何か物足りない。そんな感覚でまた僕は明日を迎えるのだろう。きっとこう寂しくなるのも夜の冷たさや儚さのせいだろうか。僕は暗闇にそう問いかけていた。
「まぁそんなの考えてもしょうがないか。早く帰ろう」
感傷に浸っても現実が変わるわけではない。時間を無駄にするのはよして、僕はモタモタと足を動かした。
電灯は一つ、風もないからその光も止まっているよう。住宅街に明かりは無い。漂う冷たい空気を掻き分ける――――トン、トン。足音も一つ。僕のものだ。まるで写真の、止まった時の景色を、僕の足音だけがそうでないと証明する。
電灯は一つ、薄暗く小さな丸を照らす。暗闇のうちに一つだけ明かりがあるのも怖いものだ。またそれが自信のない光だと。空気はもはや固まりのよう、氷砂糖を飲みこむように息を吸う――――トン、トン。足音は一つ。それは静寂に溶け込み消えていく。
電灯は一つ、もはや明かりはほとんどない。かろうじてそこにあるとわかるくらいの明るさだ。僕は足を止め凝視する。役割を失った明かりは何物となるのか、暗闇ゆえにモニュメントにもなれない。じきに時と夜がこの明りを吹き消すだろう。僕の命も同じだろうか。電灯はだんだんと命を失った。ケーキの上の蝋燭にはもう火はつかないだろう――――トントン……トン。足音は一つ。それは僕のものではなかった。
「若いの。迷い込んでしまったようじゃな」
夜闇から姿を現した老人は褪せた白髭をさすり、呆けた目を僕に向ける。身なりはボロボロで浮浪者のようであるが、佇まいは仙人のよう。毅然としていた。老人の言葉が分からない自分が呆けていると錯覚するほど。
「今宵は誰かの夢の中。出るものが出るかもしれぬ。若いの、ついてくるといい」
老人は僕に背を向けるとコトコトとまた暗い路地を歩いていく。不審者であるが、半ば僕は好奇心で言われた通りにする。どこかぼやける頭もあった。何かに浸かったような頭があった。
路地を伝る足音は老人のみ。忍んではない。なぜ僕だけないのか。疑問と言えばそれくらいだ。住宅街はいつも通り、やけに暗く静かな他は、あと寒くない以外は同じだ。
「昔、賢者らは星を読んだ。そこから周期と時を見つけた。今ではそれが針を刻み、様々を計っている。君に夜は見えるか?」
僕は目が悪い。だから夜を見るのも星の為ではなく、暗闇の為だ。真っ黒の一面に自分の不甲斐なさを雲の代わりに浮かべ、それが見えないのをまた満足したいからだ――――老人が今、指を差して夜に僕を導こうとする。僕は少したじろいだ。見えることが怖いのだ。けどほんの少しだけ星の片隅に自分の時を映す。単なる意地としょうがなくなった。
夜は海、星を宝石にして散りばめ、僕に煌めいてみせた。夜闇は暗く彩り始める。僕を半球別世界へ誘った。どこかうつつな頭も海の中、塞がっていた耳もこの夜に染めていく。僕は今宵、息をした。この夜に足を踏み入れた。
「この世で最も暗いのは瞼の裏くらいじゃ。遠い向こうには星が映る。この夢の中、歩みたまえ」
そう言い残し、老人はどこかへ消えていた。僕はまだ星夜の中。巡って町並みは星明りと夜闇を飲みこんで色を変えた。ここがどこなのかよくわからない――――トン、トン。足音は一つだけ。僕は歩く。




