表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

絶望の街

作者: 自己満足

 冷たい風が吹いて乾いた砂が宙に舞い汚い視界をさらに汚す。西の空は太陽が沈んだばかりでまだ明るい。なのにそこから真上を通って東を見るとグラデーションがかって暗くなっていく。不気味で嫌な時間だ。紅くなった葉も散りかかるこんな時期、太陽が沈むと、ここはとたんに寒くなる。ひび割れた地面も、窓ガラスの欠けた高いだけのビルとおんぼろな小屋が混在するでこぼこな通りも、意味もなく生えている雑草も、腐りかけのパンが並ぶ商店に機械みたいに立つ人も、ここにあるものには温度がない。

 ここは、この街はそういう場所だ。ここは捨てられた街。必要のなくなったものが集まる街だ。そんな街に住む私もまた捨てられた人間。普通なら女子高生くらいの年齢だったはずだが、どういうわけだか、まだここで死んだみたいに生きている。それもきっと私が、何かに捨てられたからなんだろう。

 私の、ここの人の一日はプログラムみたいに単調だ。朝、陽が昇る頃に起きて、生きるのに必要な食物を探しに歩きまわって、陽が沈んだら自分の寝床に戻って寝る。私たちに自由なんてなくて、ほんの一粒の楽しみも与えられず、ここから逃げ出すことも許されず、何かに縛られて生きている。

 そんななかで、今日は比較的に良い日だった。早々に食べ物を見つけ、最近集めている毛布も拾うことができた。

 冷たい風が首をかすめた。気づくと西の空も暗くなっている。今年の冬も集めた毛布で越せるだろうか。少し不安だが、祈ることしか私にはできない。とにかく、早く帰りたい。この毛布を隠しておかないと、ここにいる他の人も寒くなってきてこれを欲しがる頃だろう。ここの人たちも危機が迫ると対処をする。その程度の考えは持っているのだろう。

 春に数人の人がきて、でも、冬は寒くなるから……というような思考をする力は夏を過ぎる頃にはなくなってしまい大抵の人は歳を越せずに、死んでしまう。そして、私だけがまた新しいゴミに出会う。まるでゴミが焼却場で燃やされるまでの順番を待つ時間みたいな一年がここではずっと流れている。そんなところで生き続けている私は……

 歩くのを早めながら、生きながらえることを考えながら、ふと思う。いや、たいしたことじゃあないな。こんな考えはきっと誰もが思うありふれたことで私が特別なんかじゃない。

 口に出かかった陳腐な疑問を飲み込み、代わりにフランスの哲学者の言葉を口にする。

  

 「コギトエルゴスム」


 ここの人はみんな機械みたいで明日のことなんて、いや、もしかしたら今日のことすら考えていない。彼は「思う」→「在る」としたらしいが、その裏も成り立つのだろうか。しかし、現にここの人は明日寒くなることを考えてそれに備えることができていないし……いや、そんな物理的なことが良いたいのではなくて、考えもない人間に生きる資格はないということだろうか。なら私にはその資格があるのだろうか。そんな邪魔でしかない資格が……

 はやくこんなくだらない体と世界から抜け出して、どこかへ行きたいのだけれど……

 そうこうしていると、住処の近くの交差点に差し掛かる。風は止んだけど、崩れそうなビルや電球の切れた信号機にカラスが群がっている。早く行こうと足をあげたそのとき、荒々しいブレーキの音をたてて、目の前に、黒く、この街には不釣り合いな高級車が止まった。美しいはずの光沢はずいぶん攻撃的で、忘れたかった忌々しい記憶を再び意識させ、私は無意識に逆の方向へ走っていた。毛布は手から落ちていた。

 「おい、まてや!」

 助手席から飛び出した黒いスーツを着たがたいの大きい男が追ってくる。まずいまずいまずい。こんなのすぐに捕まってしまう。

 手足をでたらめにふって、あがってくる息も無視して走っていると割れたアスファルトに足をとられてころんでしまう。だが、痛がっている暇はないすぐにいかないと。それでも、やっぱり元々の体力が違いすぎるのか、立ち上がってすぐに捕まってしまった。

 「手間かけさせんなや」

 言うやいなや、大男は振り上げた右手を左の頬に振り下ろした。あまりの衝撃に立っていられず崩れ落ちる。顔に触れるアスファルトは、ああ、やはり冷たい。それでもここで捕まるわけにはいかないと立ち上がり逃げようとする。

 「だから逃げんなって」

 しかし、すぐに腕を掴まれる。

 「いや離して」

 精一杯振りほどこうとするが腕を固く握る手はビクともしない。その後も抵抗を続けるがあっさりと車まで連れてこられ後部座席に放り込まれる。そこには大男とは違う男がいて素早く私の手足を縛ってしまった。そうなるともう逃げる気力もなくなって、もたれかかるようにして窓の外を見る。スピードを上げる車はいとも簡単にこの街から脱出して、街がみるみるうちに小さくなる。あんな嫌いな街をなんだか愛おしく思う。だってこれから行く場所はあそこよりも地獄なのだから。


 連れてこられたのは少し広いホテルの一室のような場所。複数人の男たち。テンション高く音頭をとるお調子者。ああ、この前と同じだ。私はまたここで…… 

 それから、一体どれくらいの時間がたっただろうか。私はひたすらに甚振られた。ほんの少しの自由もなくただただ男たちの思うままに、おもちゃにされて、使われた。

 こんなになっても私は正気を捨てることなく、痛さとか嫌悪とか屈辱をいちいち感じてしまうのが腹立たしい。こんなだったらいっその事狂ってしまったほうがどんなに楽か…… 

 

 来た時と同じ車に乗せられ、また、あの街に戻ってきた。車が止まると後部座席から勢いよく押し出される。バランスが取れず、尻もちをつくが思っていた痛みはない。どうやらその車は来た時と寸分違わず同じところに停車したようでそこには私が持ってきていた毛布が落ちていた。

 「ほら、また、今度来るからそれまでも生きておけよな。」

 大男がそんなことを吐き捨てて数枚の紙幣といくつかの小銭を投げつけた。助手席の窓が閉められると車は勢いよく走り出し私の視界から消えた。

 車が去ると、まるでさっきまでの地獄は幻だったと宣告されたみたいに、ここには何も残らない。暗く静かで冷たいだけの街が広がっている。もちろん、私のすでにばらばらな心がもう一度叩き壊されたのにはなんの疑いもないけれど、私が少し傷ついたことなんて世界いや、この街にとって取るに足らないのだろうか。

 起き上がる力はなくて、そのまま仰向けになる。するとこの街の冷気が容赦なく私を襲う。ああ、私はこの街に受け入れられているんだと思っていたのに。ここで唯一生きていけて入られて、それになんか安心して怠惰な安らぎを感じていた。けれど、違った、やっぱり特別なんかじゃない。私には結局、少しの自由もないのだ。飢餓を凌ぐだけの食べ物を得る自由も、この街から出る自由も、正気をなくす自由も、そして、この命を投げ捨てる自由も。

 お金を拾わなきゃ、毛布を持たないと、家に帰らないと、あと……溢れる思考がもう面倒になってもうお金も拾わないで目を閉じた。その直前の一瞬だけ真っ黒な夜空の真ん中にそれはそれは美しい新月が見えた。

 私は考えるのをやめた。

  

 コツコツと革靴が頭の方から近く音で目がさめた。逃げた方がいいのかもしれないけれど、重い体は動かない。なんとか開いた目にはほんの少しだけ傾いた満月が映る。

 「なんだ。全然寝れてない」

 視線を音の方に向けると灰色のスーツを着た男が歩いている。深くかぶった帽子で顔はよくわからない。歳はいくつくらいだろうか。四十、いやまだ二十代かも、でももしかしたら六十を越えているかもしれない。そんなよく分からない人だ。でも、その歩き方の落ち着いた所作を見るにどこかの貴族の人のような気がした。

 「君はどうしてまだ生きているのかね」

  紳士は歩くことをやめてそんな安っぽい残酷な問いを落ち着いた低い声で発する。私はまだ怠い体を無理に動かして、上半身を起こして、でも、何も言わずその紳士を見つめた。しっかりと視界に収めてもやはり、よく分からない人だ。

 「すまない。くだらないことを聞いた。こんな境遇にある者がどうしてここまでして生きようとしているのか気になってしまった。」

 「私が生きようとしているように見えたのですか。」

 紳士の言葉に苛立って言い返してしまう。

 「ああ、そうだ。毎日、毎日必死に歩いていた。少なくとも僕にはそう見えた。違うのかね。」

 「ええ、違いますよ。私がそうしているのは何かにそうさせられているから。死ぬことは許されず、ただ何かのために生かされている。いいえ、これも違う。ここで私は生きているのではなくて、ただ、生と死の間に吊るされて、保留されている。それだけ」

 「なら、君自身に願いはないのかね」

 「願い……なら、もう保留は嫌。生きるのか死ぬのかどちらかにしたい。もう疲れたから……」

 紳士は一度頷いてから提案をした。

 「なら、僕についてくるといい。君を殺してあげることはできないが、ちゃんと生かしてあげることはできる。どうかね」 

 「きっとあなたはずっと裕福に生きてきたのね。だからそんなひどい提案ができるのよ。その両腕で少し私の首に力をかければ、それで終われるのに。それでこの身体から抜け出せるのに。」

 「それは勝手過ぎるだろう。それに私は君を生かすと言っている。普通の人にはない幸せを与えると言っている。こき使ってやるとは言ってないんだ。死ぬよりはるかにいいだろう。」

 「人は人を無自覚に傷つける。それは一人一人境遇が違うから。あなたと私では本当にそれが違い過ぎる。私には生きて幸せになれるなんて思考はもうどこにもないのよ」

 「ならば、ついてこないのか。ここで願いを果たすことなく、ずっと吊らされたままか。君の意識はずっとその身体に縛られ、その身体はこの街に縛られ続ける」

 イラついたように言う紳士とは別に、私は冷静だ。

 私は少しの間、考えるふりをして、そして、あっさりと大いにわざとらしく首を振る

 「それは嫌です。ついて行かせてください」

 妙に素直になった私に疑問をいだきながらも紳士は分かったと言うと私を起き上がらせて、車に案内した。

 なに、おかしなことはなにもない、初めからついていくつもりだったというだけだ。 

 逆のドアから紳士が乗り込み座ると、運転席には誰かがいるのだろうか、勝手に車は動き出した。スピードを上げる車はいとも簡単にこの街から脱出して、街がみるみるうちに小さくなる。

 「あんなにも嫌いな街なのに、もう戻らないと思うとやっぱり、寂しいのね」

 紳士は何も応えなかった。



 数十分は車に乗っていた。着いたのは白が基調のお城みたいな豪邸だった。車が近づくと閉まっていた門は静かに開く。敷地内を徐行する車から見えるのはガーデニングの行き届いた見事なお庭とそれを優しく照らす照明。

 大きく立派な扉のある、おそらく玄関にたどり着き、紳士は黙って車を降りる。私もそれに倣い彼のあとにつく。玄関からは一人のメイドが出てきていた。

 「おかえりなさいませ。遅くまでどちらに」

 「やあ、すまない。こんな時間まで働かせてしまって、明日は休みにしてもかまわないよ」

 「それはなりません。わたくしにはお仕事がたくさんございますので。それで、そちらの方はどちら様でしょうか」

 メイドは私に目をやり尋ねた。その視線に紳士もつられ、こちらを見て、少し困った様にしてメイドに言う

 「まあ。拾い物だよ。僕の客として、扱ってくれ」

 「左様ですか。ではまず、お風呂に案内しましょうか。お食事は明日でも構いませんか」

 「そうだね。もう遅いし、いいかな」

 「……ええ、もちろん」

 そう答えると、メイドはお風呂まで案内してくれた。紳士は先に部屋に戻るという。

 「こちらです。わたくしはお着替えをお持ちしますので、どうかごゆっくり」

 そう言い残して脱衣所から出て行った。

 暖かいお風呂というのに期待して、素早く服を脱ぐ。そして、風呂場に向かった。

 お風呂、遠い昔だが、入ったことがないわけではないのを覚えている。あれはあの街じゃなかった。けれど、そのときの風呂はこんな一度に何人も入れて大理石で華麗に飾られたものではなかったはずだ。

 ずっと寒いところにいたせいか。この暖かいお湯に違和感がある。気味の悪い罪悪感のような……それを取り払おうとお湯に浸かっているとメイドが風呂場のドアを叩いた

 「お客様、お着替えをお持ちしました。お使いください」

 「はい、ありがとうございます」

 しかし、メイドは出て行くつもりはないようでドア越しに声をかけられる

 「お客様は、どうしてこちらにいらしたんですか」

 「それは、紳士さんに声をかけていただいたからで……」

 「では、もう戻らないのですか、あちらに。」

 「あの街に戻れと言うのですか。それはひどいじゃないですか。どうして、誰があんなところに」

 「でも、本当にいいのですか。ここに居続けることはお客様はお客様自身を捨てることになるのですよ」

 「一体何を言っているのですか。私はここで幸せになるのです」

 メイドの言うことに少し声を荒げてしまった。

 「わかりました。でも、そのつもりなら覚悟はしてください。嘘を突き通す覚悟」

 「嘘……それってどういう」

 「それと最後に……」

メイドは私の言葉に重ねて宣言をする

 「ご主人様を愛するのは私でご主人様が愛するのは私です」

 何をいうべきか悩んでいるうちにメイドは立ち去っていた

 

 気がついくともう朝だった。窓から入る朝日がまぶしい。風呂から出て着替えたところまでは覚えているのだけど、そこからはすっぽりと記憶がない。

 少しするとドアがノックされる。それに応えると失礼しますと、あのメイドが入ってきた。

 「朝食の準備ができました。こちらにおいでください」

 メイドのあとについていくとダイニングが見えた。紳士はすでに座っている。昨日のこともあるし、何か話すべきかと思っていると寒気がした。

 「こちらにおかけください」

 紳士の向かいの席をひいてそう言う

 「やあ、おはよう。よく眠れたかな」

 「はい。おかげさまで。こんなによく眠れたのは初めてです。」

 「そうかい。それは良かった」

 それからメイドの運んでくれる料理を二人で食べた。とても美味しいはずだ。食べ物に関しては食べられるか、そうでないかしか考えたことのない私には残念ながらよく味は分からなかった。けれど紳士と話すのはとてもたのしかった。

 その日は一日中、紳士といた。彼の趣味だという園芸に付き合ったり、本を読ませてもらったり、音楽を聞いた。たくさんのお話をした。こんなに人と話したのは初めてのことだ。その中で気になったのはあのメイドのことだ

「えーっと、あのメイドさんともあの街で出会ったということですか」

「いいや、あそこではないが、まあ似たような場所だ。もう何年になるかな。たしか彼女はまだ十歳くらいだったと思うよ。いやそうだ。ちょうど十歳の誕生日と言っていた」

なら、もしかすれば私と同じくらいの年齢なのかもしれない

「彼女以外にもそういう人はいたのですか」

「ああ、僕はあの場所にたまに行くんだ。そして、生きることに困っている人をここに連れてくる。君のようなね」

「どうしてそんなことを」

「人はどうして、ここまでして生きようとするのか。それは僕の人生の哲学なんだ。君と会った時にも言わなかったかな」

「はい、そうでしたね」

そして、紳士は小声で言った。

「人は苦しんでまで生きる必要はないんだ。そう苦しいならここに逃げることだってできるんだ」

大きな新月を背景にして考え込む紳士のことを眺めていると、メイドが夕食の時間だと告げにきた。その表情と身振りは品のあるもので、とてもあの街に住んでいた人とは思えなかった。


 夕食後、入浴を済ませて、自室のベットで一人今日のことを回想する。あまりにも今までと違いすぎて、どこか落ち着かない。綺麗な家に美味しい食事、そしてこの暖かいふとん。この暖かさにはまだ慣れないけれど、それでもあの寒さよりはましだ。

お手洗いを借りようとベットから立ち上がると、不意にベットから薄汚れた毛布が落ちた。なんでこんなものがという疑問と同時にとてつもない不安に襲われた。自分はこのままではここに居させてもらえないのではないかという不安だ。だって本当になにもできていない。紳士は言った、あの街から何人もの人を拾ったと、でもここに残っているのはあのメイドだけ。それは要するに他の人間は使いものにならなかったということではないか。だとすれば私も……

またあそこに捨てられるかもしれないという不安に駆られ部屋を飛び出した。そして、急いで紳士の部屋に向かった。

長い長い廊下をただ、紳士のところへ向かい走った。どこがそこなのかは分からない。けれど、この先に彼の部屋があるとなぜか知っている。そして、廊下の果て、名札などなくても分かる紳士の部屋にたどり着いた。ノックをしようとした時、声をかけられた。坪の描かれた絵画がかけられている廊下の突き当たりに、糸で吊るされたみたいに垂直に立つあのメイドに。

「ご主人様に何かご用でしょうか」

「メイドさん、どうしてあなたがここに」

「メイドですから。それよりもわたくしの質問に答えて頂けますか。お客様はなぜここに」

「それは……えっと、紳士さんに今日のお礼をそして何かお返しが出来ればと思いまして。とても楽しかったですから」

「その必要はありません。ご主人様はそんなこと望んでおられません。お引き取りを」

メイドの私に対する排斥は攻撃的に感じられた。彼女の独占欲故のことだろうか。ならここで引き下がれない

「どうしてあなたにそんなこと分かるのですか。」

「それは……わたくしもそう言われたからです」

「えっ」

「お客様ももう知っているのでしょう。わたくしもご主人様に拾われたということを」

少し悲しげな表情なのはあの街でのことを思い出してのことだろうか。いやあの街に居たんじゃなかったと聞いた。彼女は普通の街で生きていたのだろうか

「はい、今日紳士さんから聞きました」

でも、だったとしても

「それはメイドさんの時のことでしょう。私とは関係ない。あなたは私と紳士さんを近づけることが嫌なだけじゃ……」

「そんなくだらない理由じゃない。私はそんなこといってない」

メイドのあげた声は今までの品のある落ち着いた声とは違って、乱暴で怒りのこもったものに変わっていた。そして、さらに続ける

「わたくしとご主人様の愛はそう簡単になくなるものではありません。これは……そうあなた、お客様のためなんです。わたくしはここに来て昨日でちょうど十年です。今のように安定するのに三年はかかりました。今のあなたがご主人様とこれ以上関わっても参ってしまうだけです。ご主人様の優しさに。」

「私にはまだ早いということですか」

「そうです。もう少しゆっくりと、時間をかけて、そうすればきっとここに馴染めます」

「そんなこと言って、あなたが追い出してしまうんですよね。ここには私とあなた以外にも何人も人が来ているって。でも、その人たちはどこにもいない。それはつまりそういうことなんじゃないですか」

「違います。わたくしはそんなことしません。それはいつもあなたが……」

「私が、何ですか」

「なんでもありません。そんなことより本当にここに居たいならどうか自室にお戻りください」

「嫌です。何度もいいますが、あなたと私は違います。それならこのあとどうなるかは分からないはずです」

「いいえ、同じ人間であることには変わりありません。わたくしはずっとあなたを見てきましたけれど、本質的には何も変わっていません。もちろんここで停滞した毎日を過ごしているわたくしもこの口調以外は何も変わっていませんが」

このメイドは一体何を言っているのか。しかし、

「もういいです。ここでこれ以上話すとあなたのペースに乗せられそうです」

「これだけ引き留めても、お考えは変わらないのですね」

「ええ」

「本当に変わらないのですね。ではもう止めません。お気を付けて、ご主人様の優しさは残酷ですよ」

メイドの最後の忠告は半ば無視して、ノックもせず、ドアを開ける。

 「これで三十四回目」

メイドの呟いた数字の意味が分からず、目だけでそちらを伺うと左の口角をあげて不気味に微笑んでいる様に見えた。

そういえばあのメイドはあれだけ私を止めようとしていたけれど、最後まで私を押さえつけにこないで壁に突っ立っていた。もしかしたら本当に糸かなにかに結ばれていたのかもしれない。いいや、まさか。そうではないと今なら分かる。彼女はこうすれば勝手に私がいなくなると……

 

 私が勢いよく部屋に入ると紳士は一人がけのソファーに深く座り本を読んでいた。側の机には紅茶が置かれている。

 「いきなりでごめんなさい。でも、どうしてもお会いしたくて」

 紳士は本を閉じて机において、私を見る。そして、私の無礼に一言の咎めもなく言う

 「なんだ。やはり、君がきたのか。全く彼女には困ったものだな」

 「どういうことですか。私を引き留めるように言ったのは紳士さんなんですか」

 「如何にも」

 「どうして」

 「簡単だ。僕は君からのお礼も恩返しも必要ないからだ」

 あっさりとメイドの言うとおりになってしまったことに戸惑いつつも私は引くことができない。

「どうしてですか。今日のことは本当に楽しくてそのお礼がしたい。それだけです。それに、これからもここに置いていただくなら、何かしらの恩を返さなくてはいけない。私は未熟で、あのメイドさんのようにはできなくても……」

 一度息継ぎをして、覚悟を言う

 「私も女なんです。あなたのお望みならいつだって……」

 「そんなこと」

 紳士は出会ってから初めて大声を出して私の言葉を制した。

 「そんなことまだ二十やそこらの子どもが言うことじゃない」

 この人はどうして私も正確に知らない私の歳を……

 「君はここでただ楽しんでいればいい。そして、僕の答えに確信をくれればいい」

この人は、そうか、もう考えがまとまっているのか。でも、それでは私は

 「やはり、あなたとは価値観が違うんですね。それでは私は幸せにはなれません」

 「どうしてだ。君はあの状況から脱したいと願い、それを僕が叶えた。そして、これからも満たされた生活を送らせてやる。それは今日で分かっただろう」

 「ええ、もちろん。ですが、それだけでは駄目なのです。それはたしかに幸せかもしれません。でも、人は……人って幸せのためだけに生きてるんじゃないでしょう。もしそうなら、こんなに生きるのが苦しいはずない。あなただって、ここにある幸せだけで満足してない。自らの問に自らの答えを見つけるために生きてるじゃないですか」

 「……なら君は何が……何を欲するのだ」

 一呼吸置いて、私は言う。

「私は何かを望むような贅沢はもうしません。ただ、初めに願ったこと、はっきりしたい。ここで生きるならちゃんと生きたい。あなたに擁護されて、ここに居るだけでは生きているとは言い難い」

紳士は目を下に逸らして、少し間をおいて、ため息をつく。

「分かった。僕の負けだ」

 「だったら、私と……」

「好きにしろ。……ベットはそこにある」

「はい……」

言われた通り、そこにある、用意された自室のベットよりも一回り大きいベットに潜り込む。相変わらず、私を包み込むようで、その実私を締め付け苦しめるふとんの感触に耐えながら紳士を待つ。ああ、自分からの申し出ではあるがやっぱり嫌だなあ。しかし、それを表にはできない。

紳士が椅子から立ち上がる音が聞こえて、顔あげる。彼の目は吸い込まれるくらいに綺麗だ。ああ、そういえば、初めて紳士の顔を見た気がする。何をかんがえているかは分からないが、思っていたよりは若いようだ。

「君は、いつまでも考えることを止めないんだね。ならそれでいい。本来はそうあるべきなのだから」

「紳士さん、何を」

「悪いが、君を抱いてあげることはできない。それは、君にも僕にも向いていない」

どうして、なんで……

「お休み、良い朝を」

紳士はそう言って、私の頭を撫でた。そしてもう部屋にはいなかった


……ああ、どうして、なんで、なんであんなに優しくて気持ち悪いのか。このままではここで生きれないではないか。いいやそんなこと正直どうでもいい。だって、だって、ああ本当に気持ちが悪い。残酷?違和感?いやいや、そんなものとうに越えている。吐き気のする気持ちの悪さだ。

私はベットでもがく

こんな優しさ嘘だ。少なくとも私の世界には、あるはずない。それなのに、それなのに……あんな気持ち悪い紳士を妄想する私が本当に気持ち悪い

私はベットで暴れる

身の丈に合わないふとんを放り投げて何かを求めて手を伸ばす。掴んだのは手触りも悪ければ、絶対零度にまで冷えきったあの毛布だった。しかし、それは確かに本当だった


頭に痛みが走って目が覚める

「起きろ、こんなところで寝てると死ぬぞ」

そこには、汚れて、所々穴の空いた服をきた男がいる。どうやら彼が起こしてくれたようだ。なんて優しい人だろう?いやそんなわけはない。彼のポケットはおそらく昨晩大男が投げつけたお金でいっぱいになっている。そうだここに優しい人なんていない

 「ありがとう」

 一言だけ言って私は歩き出す。手にしっかりと毛布を握って。


 もう何度目か。私はずっと妄想を続けている。こんなところから居なくなりたくて、でも、いつも正気に戻ってしまう。この前は初めて拐われた時、その前は、なんだっただろう。他の人は向こうに行ってしまってるんだろうか。それなのに私はいつまでこんな不毛なことを続けるのか。ああでも、今回は一つだけ分かったことがある。

「私、昨日で二十歳になったんだ」


なんでこんなに苦しいのに、必死で生きてるんだろう

そんな中学生が考えそうなことをずっと考えている

でも、それはきっと幸せを求めてというよりはそう

何かを見つけるために

その時まで考えるのを止めない。否、止められない




コギトエルゴスム







読んでいただきありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ