2誰でもよかったんでしょ
まず第一に、映画館は本当に、映画を観るための場所なのでしょうか?
映画館は初デートと夏休みの思い出のためと空いた時間をつぶすためと大勢で集まる口実を作るための場所だとしたら、もはや上映される映画自体にはほとんど意味がないのではないか……。
この事実を受け入れるにはなかなかつらいものがあります。これではぼっちの私には本当に映画館に行く意味がなくなってしまいます。一つ前の投稿でちょっと見栄をはって「友人知人たちは…」とか書いたりしましたが本当は友人とかいません。
しかし、希望を捨ててはなりません。なぜなら映画館が、リア充のための娯楽施設であり、同時に映画好きのための娯楽施設であることは可能なんですから。この二つは矛盾しません。矛盾しないということは、ぼっちが映画館に行くことの意味を見出すことも不可能ではないということです!
では、人間関係を築くための娯楽施設であるということ以外に(泣)、映画館にはどんな存在意義があるのでしょうか?
「この映画はテレビ放送で観れば充分」「この映画は絶対に映画館で観たい!」
こんな感じで一本の映画を映画館で観るか観ないかを決めると思うんですが、この判断基準って何なんでしょうね。
原作が好きだから、監督のファンだから、好きな俳優が出ているから、話題になっているから、映画館で観たい。
予告編がいまいちだったから、話題になっているけどあらすじが全く琴線に触れないから、原作を読んだことがあるけど好きではなかったから、この監督とは相性が悪いから、映画館で観るほどではない。
こんなところでしょうか。
極端に言えば映画館に行くか行かないかの判断って、その映画に関わる人や事柄に対して思い入れがあるかどうかで決まると思うんですが。
でもどうして思い入れがあったら映画館の方がいいの?まぁ画面も音も小さいよりかは大きい方が良いような気がするけど、でも何で大きい方がいいの?
そもそも何で私たちは映画を観るの?
映画って何なの?
その謎を解明するため、我々調査隊はアマゾンの奥地へと向かった――。
私の貧弱な調査によると、映画が誕生したのは1895年の12月28日らしいですよ。この日、リュミエール兄弟がパリで「シネマトグラフ」という装置を使い世界初の映画を上映したとネットに書いてありました。『エジソンズ・ゲーム』という映画ではエジソンが開発したと言ってましたけど。エジソンが開発したのはキネトスコープという装置です。キネトスコープが映画フィルムの仕組みを開発し、シネマトグラフはこれに映写機能を追加したもののようです。
一方で、スクリーン・プラクティスという考え方があります。これはアメリカの映画史家であるチャールズ・マッサーの提唱した概念で、スクリーンに投影される映像を観客が観るという文化的慣習のことです。彼の考えでは、動く写真の投影という発明は、例えば太陽観測、魔術的見世物、影絵など、紀元前から知られていた投影技術が商業化したものに過ぎない。つまり映画の誕生がいつなのかははっきり断定できないという考え方です。
諸説ありすぎますね。
私は学者ではないですが、独断と偏見で結論を出すなら、映画とは舞台演劇の一種ではないかと考えています。
なぜかというと、私は映画の起源については、チャールズ・マッサーの説が結構好きなんですよ。影絵とか投影技術を利用したイリュージョンも映画の歴史の一部だと思えるんです。
影絵とかイリュージョンって、芸術として見るならどのカテゴリーに入ると思いますか?
絵画? 音楽? 小説? 舞踏? 写真? それとも映画?
私は舞台演劇に振り分けられると思います。
まず、芸術の定義とは、個人が頭に思い描くストーリーを、何らかの方法を使って自分以外のものに語らせることではないかと思います(私が勝手にそう思っているだけです)。その手段が、絵か、音か、写真か、文章かといった違いはありますが、自分の人生に対する考え方を、自分以外の何かに代弁させていることは変わりません。
伝える手段が絵であれば絵画、音であれば音楽、体であれば舞踏というようにカテゴリー分け出来るわけですが、舞台って、手段がたくさんありますよね。音、言葉、体、色、何でもありです。この手段の多さが、映画と同じじゃん、と思うわけですよ。現に舞台と映画の親和性は高いです。映画を舞台にしたり舞台を映画にしたりするのは意外な発想ではないし。さらに劇場と映画館は英語ではどちらもシアターだったり。
そして舞台の起原も紀元前であり、映画よりも現代の公演形態に到達するのが早く、上演方法のレパートリーも多い。映画は舞台を追いかけるように発展しているので、私は映画は舞台演劇が枝分かれし独自に発展したものなのではないかと、考えているわけです。