『紫陽花亭』
『起きて』
聞き覚えのない声が頭に響く。
妙に心地のいい女性の声だ。
甘美な響きに、自然と脳が溶かされる感覚に陥ってしまう。
『愛してる……愛してる……愛してる……』
しかし、いかに心地のいい声だとしても誰からかも分からぬ愛を囁かれたところで、残る感情は気味の悪さだけだった。
「……さま? 水無月様? 大丈夫ですか?」
「ぁ?」
先ほどとは異なる女性の声。
こちらも優しい声をしているが心地のよさには敵わない。
「大丈夫ですか?」
「ぁえ? 俺、さっきまで……」
水無月は揺さぶられてやっと目を開ける。
目の前には、水無月よりも少しだけ背が高く、口元にホクロをつけた色気のある綺麗な女性がいた。
艶やかな黒髪を後ろでくくり、整った眉をひそめて水無月の両肩に手を置いてある。
「あっ、大丈夫です。すみません、少し混乱していて……」
目が覚めてからずっと心配してくれている女性に、水無月はとりあえず適当な返事を返しておく。
だが混乱しているのは事実だ。
なにせアスファルトしかなかった景色が、目を覚ました時には立派な旅館を背景に、知らない女性に肩を掴まれていたのだから。
立ち上がった記憶もなければ自分の故郷にそのような建物があった記憶もない。
水無月の頭は情報の処理で精一杯だった。
「顔色が悪いですね。長旅のようでしたから先にお部屋にお連れしますね」
「長旅?」
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもないです。自分でも気付かないうちに疲れていたみたいで、そうしていただけると助かります」
「はい、ではお部屋に案内しますね。お荷物は先に運んでいますので」
「そう、ですか」
荷物と言われても水無月が持っていたのは学校指定のカバンと教科書、あとは受験に使う参考書ぐらいだ。
ポケットの中にはハンカチと使いかけのリップクリームが入っていたのだが、手を突っ込んでみてもそれらしい感触はない。
「助けられた? 死んではないみたいだが……」
疑問は多く残るが、水無月は案内されるがままに旅館の中へと入っていった。
連れて行かれたのは三階の隅部屋でなかなかの広さを誇っている。
「後で水無月様専属の仲居が参りますのでそれまではごゆっくりとおくつろぎください」
「専属?」
「この旅館は少し変わっていまして、その辺りも含め仲居から説明があると思います」
「そうですか、何から何まで丁寧にありがとうございます」
「いえいえお気になさらず。何か困りごとがありましたら遠慮なくお申し付けください。わたくしは一階の受付にいますので」
そう言って、女性は鍵を置いて部屋を後にした。
一人になった空間、水無月はふぅっと息を吐き部屋を眺める。
畳の敷かれた部屋の中心には座卓が置かれており、布団が積まれた押し入れもある。
しかし他にあるものといえば照明ぐらいで、それ以外の電化製品はトイレとお風呂ぐらいだろうか。
「こんなに豪華なのにテレビとかはないのか。こんな立派な旅館来たことないけどそういうもんなのか?」
自分の置かれた状況を把握しようとニュースでもみたかったのだが、どうやらそれは叶わないらしい。
「……如月は無事かな。いや、俺が無事なんだからあいつも無事なはずだ。消極的になんじゃねえぞ俺」
彼女のことを思い浮かべながら、水無月は少しだけ気分を落ち込ませる。
だが、頬を叩いてすぐに立ち上がった。
確証もないのに水無月には絶対的な自信があるように見える。
「さて、とりあえずは状況整理だな。旅館内を見てみるにここはお洒落な病院とかではなくて? 窓の外から見えた景色的に自分の故郷とは遠く離れた町であり? この部屋にある俺の荷物というやらには何一つ見覚えがないと……どうなってんだ? 俺は遠いどこかに連行でもされたのか?」
言葉が通じる以上国外に出たということはないだろう。
しかし旅館の内装は見たこともないようなオシャレな家具で装飾されており、旅館の外、遠くに見える景色には時代劇で見るような古き良き木造建築の家々がずらりと並んでいた。
今どきこんな街並みを見ることなんてできるのだろうかと思いながら、水無月は自分が今どこにいるのかなんとなく察しをつける。
「よく知らねえけどだいぶ遠くまで運ばれたっぽいな。早く帰りてえけどここからだと歩いてどんくらい時間かかんだろう」
今すぐにでもここを出て如月の顔を見に行きたい衝動に駆られるがそうはいかない。
いつのまにか知らない土地に運ばれていたのだ。
ここがどこで、自分がなぜここにいるのか。
まずはそれを把握しなければいならない。
「参ったな。そこら辺は仲居さんに聞くしかねえか」
そう思い、水無月は部屋に置かれた自分の荷物とやらに手を伸ばした。
蓋の開いた黒のキャリーケース。
何度見てもやはり見覚えはない。
家にも置いていなかったはずだ。
「これは……制服か?」
ケースの一番上にあったのは青い生地に白のラインが入った服。
これもやはり水無月は見たことがないのだが。
「なにこれ、めっちゃかっこいい」
どうやら水無月の琴線にドンピシャだったようだ。
立ち上がり、全体が見えるように服を伸ばして隅から隅まで余すことなく眺める。
「めっちゃかっこいい。誰の服なんだろ」
そう言って水無月はあたりをキョロキョロと見渡す。
もちろん部屋の中には水無月以外誰もいない。
「着てみてもいいよな。そう、これは気分転換だ。暗いままじゃよくないからな。仲居さんが来るまではここにいるわけだし。この部屋に置かれてたんだし、俺が着ても問題ないはずだ」
少し興奮気味にぺらぺらと言い訳を並べながら、水無月は制服に袖を通した。
「おお! やっぱめっちゃかっけえ! こういう服一度着てみたかったんだよなあ」
不安を吹き飛ばし、残りは自分の足で家に帰るだけとなった水無月は、残った時間を全力で楽しむことにしたようだ。
こんなにも豪華な旅館、人生で一度でも来れたら御の字だろう。
下手に時間を使うよりも、全力で楽しんで心配しているであろう如月に土産話を用意しようじゃないか。
そう思いながら、不自然なほどにぴったりな制服に身を包んで鏡の前に立つ。
「この服何用なんだろ。浴衣とかは置かれてるって聞いたことあるけどこの服もそうなんだろうか」
ふと不思議に思い、ケースの中に他のものが入っていないか確認しようとしたその時。
ドアが2回ノックされた。
「水無月様、お時間よろしいでしょうか」
水無月をここまで案内してくれた女性の声がドア越しに聞こえる。
「はーい、大丈夫です」
水無月は制服を着たまま急いでドアに向かう。
スリッパを履いて鍵の開いたままのドアを開く。
「あら、その服……」
「あっ……勝手に着てしまってごめんなさい。す、すぐ脱いできます」
「いえいえ、そちらの服は水無月様の服ですのでお気になさらず。それよりも、すごくお似合いですよ」
「え〜そうですか? ありがとうございます」
褒められてそこはかとくなく嬉しそうな笑みを浮かべると同時、恥ずかしくもなり俯いて頭をかく。
すると視界の隅、女性の背後に水色の髪がチラリと見えた。
「そちらの人は?」
その質問に答えたのは女性ではなく、背後にいた小さな女の子だった。
「ほ、本日から水無月様専属の仲居として働かせていただくアルマと申します。よろしくお願いします!」
かわいらしい見た目からは想像できないほどしっかしとしたお辞儀を見せるアルマと名乗った少女。
水無月も釣られて頭を下げる。
「えっあっよろしくお願いします」
「ふふっ、水無月様はお客様ですのでそこまでかしこまらなくてもいいのですよ? アルマも初めてだからといってそんなに緊張しなくてもいいんだから」
「待ってくださいお母さん⁉︎ それは言わないって約束したじゃないですか!」
「……お母さん?」
黒髪の女性と水色髪の少女。
髪の色は染めればいくらでも変えられるが顔立ちがそもそも似ていない。
父親譲りなのだろうか。
しかしそれでも、全くといっていいほど共通点は見つからない。
「お気になさらず水無月様。アルマもお客様の前では取り乱さないように」
「うぅ、ごめんな……と、取り乱してしまい申し訳ありません」
気を取り直し、少女は頭を深く下げるが気のせいか耳が赤くなっている気がする。
「先程申したように本日からアルマが水無月様の身の回りのお世話をしますので、必要があれば今後はアルマをお呼びください」
改めて深いお辞儀をして女性はその場から去っていった。
部屋の前で残された水無月とアルマの二人。
聞きたいことは山とあるが相手が6歳ぐらいの小さい女の子だということもあり、なかなか自分から話にいこうという気になれない。
そう思っていた矢先、アルマが小さく咳払いをした。
「旅館の説明をしたいのですが、お部屋の中でいたしますか? 水無月様がよければアル……わたしはこの場でも大丈夫でございます」
「いやいや、肌寒いし中で……しませんか?」
年相応の反応を見てしまったからだろうか。
自分の言葉遣いにもやっとした違和感が残る。
「水無月様は敬語である必要はありませんよ?」
「いや、なんかタメ口で話すにはその、距離感があると言いますか……」
「── それは困ります。お客様にはりらっくすできる環境を、と言われています」
「そ、そうですか」
アルマは何故か拳をぎゅっと握りしめて前のめりになる。
そのやる気が水無月にもひしと伝わってくる。
「どうしたらいいでしょう? 水無月様はどうしたら緊張がほぐれますか?」
「……様呼びがむず痒く感じ、ます」
年端も行かない少女からの様付けはなかなかに恥ずかしい。
そもそもの話、初対面の人とはまずは敬語で話すべきだというのが父親からの教えだった。
長く過ごせば自然と口調もほぐれていくだろうが、水無月には帰る場所がある以上そうはいかない。
アルマとは敬語で話す関係で終わるだろう。
「わかりました。では水無月さんはわたしのことをアルマとお呼びください。その方がおともだち? みたいに感じませんか?」
「えっ……?」
一方的に願いを押し付けることに、少しだけ罪悪感を抱いていた水無月は首をすぐさま横に振らない。
右手で自分の髪を掻き上げながら、ボソリと呟く。
「アルマ……ちゃん、いやなんでもないです。すみません、調子乗りました、ごめんなさい」
自分でも鳥肌が立つほどに気持ち悪いことを口にし、水無月は謝罪の言葉を連ねる。
アルマは気を悪くしていないかと、恐る恐る顔を上げてアルマの顔を覗く。
「……分かりました。本日からよろしくお願いします水無月さん」
一瞬硬直していたように見えたが、存外悪そうには見えなかった。
気に入ったわけではないが受け入れてはくれたらしい。
その優しさにちょっぴり水無月の心も救われる。
「よろしくねアルマちゃん」
□■□■
「今更ですが、当旅館『紫陽花亭』にお越しいただきまことにありがとうございます。これからわたしから当旅館の説明をさせていただきたいと思います」
二人は座卓を挟んで向かい合って座っている。
アルマの背は低く、正座をして座っているのに胡座をかいて座る水無月よりも頭の位置が低い。
そして一つ確定したことがある。
アルマの発言からしてここは本当に旅館のようだ。
病院の可能性、また最悪の可能性として監禁されているのではないかと考えていた水無月にとって朗報であった。
つまり、いつでも外に出られるということだ。
「その前にひとついい?」
直前に今日一日は敬語を禁止する約束を取り付けられた水無月。
しっかりと約束を守ってくれていることにアルマはほんの少し嬉しそうにしている。
「はい、もちろんです!」
「ここが何処なのかを知りたいんだけど……」
「どこ、とはどういうことでしょうか?」
「地理的に何処にあるのか? 土地の名前? みたいなことかな。疲れてたからか記憶が曖昧で、正直自分がなんでここにいるのかもそんなに覚えてない……」
水無月の聞きたいことが伝わったのか、アルマは「ちょっと待ってくださいね」と言ってうんうんと考え始めた。
情報をまとめるのに苦労しているようだ。
水無月がその様子を見守っていると、アルマは自分で納得がいったのか小さな口を開く。
「ここはラーシュア大陸の最東端にある国、『旭昇天』天の区です。当旅館はその天の区の中でも西寄りに存在しています」
「──え? ちょ、ちょっと待ってアルマちゃん。今、なんて言った?」
水無月はこれでも受験生なのだから国名ぐらいはある程度把握しているつもりだ。
しかし、アルマから出てくるのは水無月の聞いたことがない言葉ばかり。
そもそも、ラーシュア大陸という大陸名など、水無月は一度も聞いたことがない。
「で、ですからここはエルアーデに存在する三大陸のうちの一つ、ラーシュア大陸の東端に位置する国、旭昇天です。そして、ここ紫陽花亭は四つの区で分けられたうちの天の区に建てられた古い旅館……す、すみません! そんなことわかっていますよね……」
「……え? いや、ありがとう。すごく助かったよ」
当たり前すぎることなのか、自分が見当違いなことを話しているのではいかと不安そうにするアルマに、水無月は蒼白な顔で感謝を伝える。
「どう……なってんだ」
知らない大陸に知らない国。
水無月はどうか夢であってくれと願うばかりだった。
エルアーデ
ラーシュア大陸、ファリカ大陸、メアウスノーサリカ大陸の三つの大陸がある。