09. 勝ち取りたいもの (カルの視点)
いつもの癖で、ついシアを貪ってしまった。目覚めているシアには、あんなことをしたらマズい。取り返しがつかないことになりかねない。
シアに嫌われたら、俺は生きていけない。
あそこにシアがいる。彼女が俺を見つめている。それだけで、驚くほどに心が浮き立つ。
シアが笑ってくれると、天にも登るような心地になる。まるで、世界中が俺の味方になった気がする。
どんなに遠くからでも、シアの輝くような美しさは、人の目を引き付けてやまない。
その美貌だけじゃなく、聖女としての慈愛も、立ち上る静謐なオーラも。
彼女がいるだけで、灼熱の太陽も月の光のように柔らかく照り、大地は癒されて凪ぐ。
聖女が神に愛された存在だと、誰もが認めずにはいられなくなる。
稀代の聖女と呼ばれ、世界中がシアを手に入れようと躍起になっているのに、本人はそれに気付きもしない。
それどころか、まるで自分が厄介者みたいに、いつも小さくなって、人が嫌がる仕事ばかりを率先してやっている。
シアはそれを、聖女としての経験を積むための偽善だと言うけれど、いつも人のためにギリギリまで力を使い果たし、ボロボロになるまで働いている。
とても、自分のためだけにしているとは思えない。
彼女の力で救われたものは後を絶たず、彼女の信奉者は増え続けている。本人の知らないところで。
そして、そんな彼女の婚約者である俺は、王位継承権第一位に生まれたというだけで、彼女を縛る大悪人だと言われている。
もちろん、世界一幸運な男だという自覚はある。
シアと一緒になるためなら、どんなことをしても王太子になってみせる。
もし俺が王位継承権を失えば、聖女との婚姻は白紙になってしまう。
だから、シアとの婚約に漕ぎ着けてから、立太子に向けて全てに努力を重ねて来た。
誰もシアとの結婚に異議を挟めないように。誰からもシアに相応しいと言われるように。
国技である闘竜もその一つだ。誰にも負けない。
それなのに、去年は側近たちに止められて、競技にエントリーしなかった。
まさか、優勝者にシアがキスをするなんて。そんなことは全く知らなかったから。
あれは、大失敗だった。あの後、俺が暴走したのは大目に見て欲しい。
俺だって、シアからキスされたことなんてなかったんだ。他の男に先を越されて、黙っているなんてできるか!
だから、あれから死ぬほどシアにキスをしている。もちろん、シアにバレないように、寝ているときにこっそりだけど。
「殿下、お手柔らかにお願いしますよ」
「バカ言うな。シアの前で手抜きなんかできるか! お前たちも手加減したら殺す」
「はいはい。期待した僕がバカでしたよ。それにしても、なんでそんなに必死なんです? アリシア様は殿下の婚約者でしょう。そんなに執着しなくても、いずれは手に入るんだから」
「うるさいな。余計なお世話だ」
「まあ、気持ちは分かりますけどね。この世界で、彼女に心を奪われない男はいないでしょう。女だって、みんな彼女のファンだ」
いちいち言われなくても、そんなことは分かってる。
俺が失脚すれば、シアをめぐって殺し合いの争奪戦が起こる。だから、絶対に失敗は許されない。
「シアに、誰よりも俺が一番だと思わせたいんだ。他の男が付け入る隙を与えたくない」
「そこなんですよ。アリシア様が、殿下以外に靡くとは思えないですけどねえ。なんでそんなに拗れてるんですか? 傍から見たら、ただのバカップルですが」
シアは俺を好きだ、とは思う。
実際、寝ぼけているときには、彼女から愛の言葉が聞けるし、俺が何をしても、喜んで受け入れてくれる。拒絶されたことは、ただの一度もない。
それなのに、覚醒しているときのシアは、俺から離れることばかりを望む。婚約解消だったり、正神殿行きだったり。
何が彼女にそうさせているのか、何度聞いても明確な答えはない。特に今年度が始まってからは、顔を合わせる度に別れを懇願される。
その度に思いが募って、俺がどんどんマズい方向に加速していくのは、もうしょうがないと思う。
「あいつは、そんな簡単に手に入る女じゃないんだ。いつ誰にかっ攫われるか。色んな罠が仕掛けられているんだ」
「ああ、お気づきですか。この闘竜でも、何かありそうですね」
「それを明らかにするのも、俺の仕事だ。国家転覆を狙ってる輩は、根絶やしにしないとな」
「うわっ! 恐ろし。殿下を怒らせるとは、賊も愚かですね」
ベンチでそんな話をしている間も、競技者たちは、次々と華麗な技で優雅に獲物を仕留めていく。
俺が射止めなくてはいけないのは、竜ではなくシアだ。あいつに格好いいところを見せたい。
いよいよ、競技の順番が回って来た。思った通り、俺の獲物だけ、何かが仕込まれている。興奮剤か、増強剤か。何らかの薬物だろう。
ゆっくりと慎重に回り込んで、コイツの癖を見極める必要がある。
一直線に突進してくる竜を、ギリギリまで引き付けて躱す。ただ避けるだけでなく、ジャンプや側転、バク転などで技を見せる。
ただ仕留めるだけじゃダメだ。優雅さと余裕を示さなくては勝てない。
シアは力では縛れない。彼女を勝ち取るには、その心をつかむしかない。
そうして、よく観察すればコイツの弱点が分かる。右にわずかに軸がズレるのは、右のどこかに故障があるからだ。そこを攻めればいい。
そう見極めた瞬間、肩に何かが刺さった。吹き矢? 即効性の毒か。毒には耐性があるとはいえ、こんな状況を狙ってくるとは。姑息なことを。
いや、なんの症状も出ない? 毒は塗っていないのか。なぜだ。では、何のために矢を?
そのとき、救護テントから悲鳴が上がった。なんだ、何があった? まさか、シアか?
対戦から気を逸らした、その一瞬の隙を突いて、竜は速度を増して突進してきた。
すんでのところで避けたが、角が頬を掠った。
確かに傷が付いたはずなのに、頬からは血が出るどころか、痛み一つ感じない。
そして、その瞬間、またテントからの叫び声が上がった。
間違いないシアだ。シアに何かあったんだ。
もう勝敗など、どうでもいい!
高く飛び上がって、後頭部の急所を剣で一突きする。竜はそのまま前足を折って、その場にドサッと音を立てて倒れた。
会場からの割れんばかりの拍手と喝采の中、俺は真っ直ぐに救護テントに走った。
シアは、シアは無事なのか。
「殿下! アリシア様が血を吐いて急に倒れてっ! 頬に傷がっ」
「何だって? 毒か? 万能解毒剤を持てっ」
「もう飲ませました! でも効かないんですっ」
どういうことだ。なぜ解毒剤が効かない?
血の海の中で、シアはどんどん冷たくなっていく。彼女を抱き抱えたまま、俺は叫んだ。
「誰かっ! 助けてくれ! シアが死んでしまうっ」
「カルロス! お前が解毒剤を飲めっ。毒は聖女じゃなくて、お前の体にあるっ」
走ってきた養護教諭が投げた小瓶を受け取って、俺はそのまま飲もうとした。
だが、すぐに側近に阻まれた。
「殿下! 成分も確かめもせずに、ものを口にしてはいけませんっ」
「黙れっ。シアのためなら、毒でも食らってやるっ!」
小瓶から液剤を飲むと、体の中に染み込むように広がっていく感覚があった。
同時に、腕の中にいるシアが、ほんの少しだけ動いた。
「カルロス、すぐに診療室に! 聖女には輸血が必要だ。毒は抜けても出血多量で死ぬぞっ! 急げっ」
シアを抱えて、養護教諭の後を走った。シアは絶対に死なせない。俺を置いて逝くのは許さない。
「魔力を少しずつ注入しろ。少しずつだ。一気に入れると、ショック死するぞ。できるか?」
「やる。少しずつだな」
「命を繋ぐだけの、ほんの最小限の量だ。診療室まで持たせてくれ。あそこまで行けば、なんとかなる」
「頼む。シアを助けてくれ」
「言われなくても、死なせる気はない。一時休戦だ。僕を信じてくれ」
今、この場で頼れるのは、医師である彼だけだ。
「俺ができることを教えてくれ。何でもする」
「神に祈るんだな。あとは任せろ。僕はヤブじゃない。こういうときのためにいるんだ」
頼む、持ちこたえてくれ。シア、死ぬな! どうか、こいつを連れて行かないでくれ。俺から取り上げないでくれ。何でもする。お願いだ。
彼女を抱える手から、少しだけの魔力を注入しながら、俺は生まれて初めて、信じたこともなかった神に本気で祈ったのだった。