37. 婚約破棄イベント (カルの視点)
会場中が、まるで水を打ったかのように静まり返っていた。シアは被っていたフードを脱いで、深く頭を垂れた。
「承知しました。カル…ロス殿下、どうかお元気で。お二人の幸せをお祈りします」
「聖女じゃないお前の祈りは、もはや呪いでしかない。罪を重ねる前に消えるんだ」
早く、早くこの場から立ち去ってくれ。でないと、俺の決心が揺らいでしまう。
頼むから、俺を憎んでくれ。そして、一刻も早くここから、この国から逃げてくれ。
何も言わずに、まっすぐに前を向いて退場するシアを、会場中が見つめていた。ここにいる全員が、シアを守ると誓いを立てた同志たちだった。
養護教諭がシアの後を追って出ていった。おそらく馬車まで安全にシアを誘導してくれる気だろう。
もしものときは、盾となって共に逃げてくれるはずだ。先生はシアを愛している。
「みな、ご苦労だった。協力に感謝する。パーティーに戻ってくれ」
本物のハロウィン・パーティーは、別会場で開催されていた。中止することはできない。こちらが変わった動きをすれば、敵方に情報漏洩が気付かれてしまう。
みなが無言で退出していく中、ニナがこちらに近づいてきた。会場にいたほとんどの女子は泣いていた。もちろん、ニナも。
「殿下、これで本当によかったんですか?シアに何も知らせずに」
ニナには、一番つらい思いをさせたかもしれない。この日が来るまで、ずっと側でシアを欺かせ続けたのだ。
最初からこの計画に加担しながら、何も知らないフリをして、今日までシアを見守ってくれた。
「ニナ、すまなかった」
「シアはぼんやりしているけれど、バカな子じゃありません。きちんと話せば、分かってくれました。それを……」
「ほんの少しでも、シアに迷いが出てはダメなんだ。事情を知れば、あいつは死んでも俺を守ろうとする。俺の言うことなんて聞かないんだよ」
「それは、シアが殿下を愛しているからです。彼女はきっと気が付きますよ。殿下がシアのために……。そのときのショックを思うと、シアがかわいそうで」
声を上げて泣き出したニナを、オーランド嬢が抱きしめた。この計画で、彼女は自ら泥をかぶってくれた。シアの身代わりになるために。
「ニナ先輩。ニコライ様は信頼できる方です。必ずシア様を守ってくれますよ。すべてが終わったら、きっとシア様を無事にここへ送り届けてくださいます」
ニコライ皇帝陛下には、詳細を知らせることなくシアを託した。彼の希望通りに婚約を破棄するから、秘密裏に迎えに来てほしいとだけ連絡した。
新皇帝を陥れる罠である可能性も捨てきれないはずなのに、彼は俺の呼び出しに応じて、指定通りの時間に、指定した場所に現れた。ほんの僅かな供を連れて。
「事情を聞く気はない。言い訳もだ。私は一度は身を引いた。だから、もう二度と譲るつもりはない。お前がアリシアの手を離すのなら、私がその手を取る。妻として、国に連れて帰る。それでもいいのか」
陛下は俺にそう問うた。
当然だろう。こんな危ない橋を渡るのは、彼がシアを誰よりも愛しているからだ。その最愛の女性を捨てるという男に、義理を立てる必要などない。
「陛下には、合わせる顔もありません。それでも、恥を忍んでこうしてお願いにあがりました。アリシアをよろしくお願いします」
そうして、頭を下げる俺に、陛下は何も言わずにその場を去った。どんな理由であっても、俺はシアを傷つけた。それは彼にとって、許しがたい行為だったのだろう。
すべての計画手順は、セバスチャン経由で伝えた。陛下は何の異議も唱えず、こちらが望むように動いてくれたそうだ。
生徒会のメンバーとニナだけが残っていた会場に、養護教諭が戻ってきた。シアは無事にセバスチャンと出立したのだ。
気を利かせたのか、彼以外は会場を出ていった。
「カルロス。お前は本当にバカだな。あんな体の聖女さんを、他の男のところへ行かせるなんて。酔狂にもほどがある」
「ニコライ陛下なら大丈夫です。シアもお腹の子も慈しんでくれる」
シアの妊娠が発覚したのは、彼女が倒れたあの夜だった。
駆けつけた先生は、彼女の情緒不安や食欲不振、その他の情報を加味して、血液検査を勧めてきた。
本人が気がついていないならごく初期だけれど、着床しているなら胎盤からはすでに血液が胎児へと流れているからと。
「おめでとう。聖女さんご懐妊だ。出産は六月だな。いい時期じゃないか」
先生が持ってきた検査結果に、俺がどれほど嬉しかったか。俺たちにようやく、絶対に切れない絆ができた。シアと俺は宝物を、家族を授かった!
アリシアが目覚めたら、すぐにこのことを伝えて、二人で……。
そう浮かれたのも、ほんの束の間だった。
今この時期にシアが身籠ったことが知れれば、母子ともにその身が危ない。誰にも知られないうちに、シアを隠さなくては。
何回かの暗殺未遂や襲撃で、世情の不穏な空気は感じていた。夏の視察で各地の情報を収集し、これまで秘密裏に調査を続けてきた。
そして、ほんの数日前、大きな情報を掴んだのだ。それは、オーランド嬢が知り合いの弁護士から得たものだった。
地下で進んでいた民衆のための革命計画。それに裏があることを掴み、彼はそれを独自に調査していたらしい。一人で調べるのに限界が来たところで、オーランド嬢のツテを頼って、俺に報告を上げてきた。
現王族を皆殺しにして覇権を奪うだけではなく、大聖女を捕らえて軍事利用するための陰謀。
決行は十一月一日。『諸聖人の日』の墓参公式行事に、彼らに焚き付けられた民衆がなだれ込む。そして、その隙きに乗じて王族を殺し、聖女を奪うという筋書きだ。
「先生、シアはいつ頃、妊娠に気付きますか?」
「そうだな、つわりが始まるのは二ヶ月目だとしても、十月中旬か。その前に、月のものが遅れれば、さすがに気が付くものじゃないかな」
ギリギリだ。十一月まで隠し通せるだろうか。それまでに、シアの安全を確保する策を練らなくてはいけない。時間がない。
「シアには、黙っていてもらえませんか?その、もし相談されたら、ストレスで遅れているだけだとか、そんな感じで誤魔化して欲しいんです」
「一体、どういうことなんだ?きちんと、説明してもらおうか」
そうして、先生は俺たちの陣営に入った。シアと子供の命と安全を守るための秘密結社に。
妊娠の体調不良でたびたび診療室を訪れるシアに、先生は精神的なものだと診断し、精神安定剤と偽って栄養剤を処方していた。
そして、いつもそれに付き添うニナも、話をうまく合わせてくれた。体調のことをシアが口にするたび、彼女は巧みに別の話題にすり替えてくれていたのだ。
「シアは……、泣いていましたか?」
「いや。きちんと前を向いて立派なものだった。メソメソしているのは、お前だろうが」
もっと早くこうするべきだったのに、どうしても踏み切れなかった。
オーランド嬢から、婚約破棄をすればシアは必ず従うと言われた。ニナも同意見だった。シアはずっと、そうなると予想していたらしいと。
だが、どうやって愛するシアにそんなことができる。しかも、彼女は俺の子を宿しているというのに!
身を裂かれるような苦しみに耐えられず、今日までシアとまともに話すこともできなかった。自分が取り乱さずに、シアと一緒にいられる自信がなかった。
「すみません。少しだけ見逃してください」
「致し方ないだろうね。聖女さんのほうが、まだ苦しみは少ないかもしれない。だが、希望を捨てる必要はないよ。聖女さんは僕の求愛をきっぱりと断った。お前を思い続ける気かもしれない」
「俺のことはいいんです。シアが無事なら、それでいい」
シアは必ず生き抜いてくれる。互いに互いを生かすために生き抜くと誓った。シアがあの約束を覚えているなら、もしまだ俺を愛してくれているなら、きっと無事に逃げてくれる。
そして、立派に俺たちの子供を育ててくれる。
「先生も逃げてください。明日、王族に何かあれば、彼女の子がこの国の正当な後継者。先生には、それを証明してもらわなくてはいけない」
「その件については、すでに手は打ってある。僕は残るよ。すべてを見届けると、聖女さんに誓った。約束を違えることはできない」
父上も母上も、逃げずに民衆と話し合うという道を選んだ。不審な指導者の口車に乗って暴徒と化すには、それなりの理由があるはずだと。それは治世の失敗であるから、その責任を取ると。
ノブリス・オブリージュ。この国の王家は独裁者ではなく、統治者であるという誇りを持ち、民衆のために死ぬことを惜しまないと。
「分かりました。では、学園内に残っている者たちの監督をお願いします。明日は学園を出ないようにと。王家に近づかなければ、とばっちりを受けることもない」
「承知した。しかし、カルロスの指示を受けることになるとはな。お前も父親になって、少しは王族の自覚が出たのか。聖女さんの尻ばかり追いかけていたが、成長したものだ」
シアの尻か。そうだったな。俺はいつも、彼女の後ろ姿ばかりを追いかけてきた。
今、目の前のその先には、もう彼女の姿はない。俺は一人で道を切り拓くしかない。
「先生、今日のことはシアには黙っていてください。一生知らせなくていいことだから。彼女の幸せを邪魔する気はない」
「……お前たちは、本当にバカだな」
先生はそう言い残して、会場から出ていった。
やがて、時計が夜中の十二時を指し、運命の日が明けたのだった。




