21. 魔女の対価
何かがおかしい。こんな入り組んだ森の中で、こんなに馬を飛ばすなんて。時間が押しているわけでもないのに。
「カル、何かあるの?」
私がそう聞くと、カルは前方から目をそらさずに、こう言った。
「シア、落ち着いて聞けよ。俺たちを付けてくるやつらがいる。もう少し行くと泉があるから、そこで止まっておびき寄せる」
「え、大丈夫なの?」
「魔法で救援要請は発信した。離宮から一時間以内に迎えがくる。だが、それまで逃げ続けるのは無理そうだ。相手の出方が分からない以上、時間を稼いだほうがいい」
「分かったわ。私はどうすればいい?」
「何があっても俺の指示に従ってくれ。どんな指示でもだ」
「それって……」
「やばいときには一人で逃げるんだ。俺が囮になる」
「ダメだよ。私も一緒に残る」
「お前がいたら足手まといなんだよ。俺を殺す気?」
「言い方!」
分かってる。カルは私をかばおうとしているんだ。いつものように、自分はどうでもいいから、私を助けようって。
分かっているんだけれど、でも、できれば離れたくない。聖女の力は戦力にはならないけれど、癒やしは防御になる。
「いいな?危ないときには逃げろよ」
「……うん」
本当に危ないときだけ。そのときだけは、ちゃんと逃げる。でも、それはカルのためだから。絶対に助けを連れてくるから!
カルが言う通り、少し先に行くと開けた空間に出た。泉を中心にして、その周りが広場のようになっている。
自然にできたものだとは思うけれど、とてもきれいな場所だ。きっと、森の動物たちの水飲み場なんだろう。透き通る湧き水が、とても冷たそうだ。
「シア、絶対に手綱を離すなよ」
カルはそう言うと、私を馬に乗せたままで自分は鞍から降りた。
そして、さりげなく泉に近づき、馬にその水を飲ませた。速駆で喉が乾いていたのか、カルの馬は美味しそうに水を飲んでいた。
「カルロス王子だな」
森の中から、数人の男たちが出てきた。平民のなりをしているけれど、身のこなしは兵士のように訓練された人間のものだ。
単なる物盗りではない。カルも当然それに気がついて、腰の短剣に手をかけている。
「何が目的だ。金か、命か」
「生憎だが、どちらも不要だ。その身柄を拘束する。おとなしく我らに従えば、手荒な真似はしない」
「……人質か。この身と引き換えに何を要求する気だ」
「そんなことより、自分の心配をするんだな。取引に使えないなら、お前に用はない」
カルは私のほうをちらっと見てから、落ち着いた声でこう言った。
「こいつは関係ない。家に帰していいだろう?」
「この期に及んで交渉か。まあ、いいだろう。大聖女じゃなければ、お前の女に価値はない」
「……狙いはそれか」
「さあな。だが、そんな女にうつつを抜かすようなお前に、大聖女は無用の長物だろう」
大聖女。この男たちの目的は私?私のせいで、カルがこんな得体のしれない輩の人質に。
どうしよう。でも、ここで私が名乗りをあげれば、逆にカルはもう不要だと殺されてしまうかもしれない。
「そういうことなら、無駄足だったな。大聖女はこの国の宝だ。俺の命ごときと、引き換えになるものじゃない」
「やってみないと分からないだろう。大聖女はこんなお前でも、たいそう愛しているそうじゃないか。他の女と情を交わすような男の身代わりに、自ら毒まで食らってな。危うく殺すところだった」
「なんだと!じゃあ、あれもお前たちの仕業か?」
「答える必要はない。さあ、おとなしく投降しろ」
「……シアを傷つけたやつは、絶対に許さない!」
カルは右手で短剣を抜くとほぼ同時に、左手で馬に鞭を当てた。
「離宮まで駆け抜けろ!彼女を落とすな」
カルの命令を合図に、賢い馬は私を乗せたまま全速力で走り出した。
手綱を手にして振り返ると、カルと数人の男たちが剣を交えている。魔法があるとは言え、相手は素人じゃない。多勢に無勢だ。
「カルっ!ダメよ、止まって。お願いだから!カルがっ」
馬は主人であるカルの命令を忠実に守る。私の懇願になど耳を貸さずに、どんどん速度を上げていく。
どうしよう!このままじゃ、援護が到着するまでに、カルが殺されてしまう。
ううん。そうじゃない。私を取引の場に立たせないように、カルは自ら死を選んでしまうかもしれない!
彼ならそうする。だって、私だったらそうするから。
「お願い、誰かっ!誰か、助けてっ。カルが危ないの!お願い」
声にならないような叫びを上げたとき、別の馬の蹄の音が聞こえた。
もしや、追手が迫っているのかと、恐る恐る音の方向を確かめると、それはあの子だった。離宮で会った黒毛の馬。
え、どうして。私の声が聞こえたの?
そのうちに、私たちを野生の馬の集団が取り囲んだ。そうして、徐々に速度を落とし、私たちを誘導するかように、ゆるやかに方向転換をした。
カルの馬も、群れの流れには逆らわなかった。
「助けてくれるの?カルを、助けに行ってくれるの?」
私に伴走をしていた黒毛の子が、濡れたような瞳をこちらに向けた。
どうしてかは分からないけれど、この子は私の言っていることが分かるんだ。そして、私もこの子の気持ちが分かる。
私たちはカルを助けに向かっている。助けてくれるんだ!
「ありがとう!お願い、カルを助けて。私の命よりも大事な人なの」
その代わり、あなたの仲間は絶対に傷つけたりさせないから。
振り落とされないように、私は手綱を握りしめて、祈りに集中した。
大丈夫、どんな状況であっても、加護の力を得ることはできる。ただし、条件つきで。
命を守るためには、命の代償が必要だ。聖女の力は万能じゃなく、契約の対価でしかない。
一般的に聖女の引退が18歳なのは、それ以上だと寿命を削るからだろう。
私はイメージの中で、この野性馬の一団を光の珠で包んだ。
私の力が尽きない限り、誰も死なない。もし誰かが死ぬとしたら、それは命の加護を受けない私。それが契約だ。
暗い森の先に光が差してくる。泉の広場はもうすぐだ。どうか、どうか、間に合って!
私達が到着したとき、カルは泉の縁まで下がって、数人の男たちと対峙していた。
野生馬の一団が泉の周りを走りながら彼らを取り囲むと、男のうちの誰かが私を指さして叫んだ。
「魔女だ!」
魔女。本当にそうだ。祈りは呪いで、力は諸刃の剣。使いようによっては、世界を滅ぼすかもしれない。
だから、私が狙われているんだ。そして、そのせいで、婚約者のカルに危険が及んでいるんだ。
男たちがなんとか逃げようと、野生馬の暴走の輪を通り抜けようとしているときに、私はやっとカルの側に馬を寄せられた。カルは無傷だった。
馬から飛び降りてカルのほうへ駆け寄ると、カルは両手を広げて私を受けとめてくれた。
カルの体温を全身で感じて、私はやっと彼が生きていることを実感できた。
「シア!なんで戻ってきたんだ!こんな危ないことを」
「カル。よかった、無事で」
野生馬は男たちの周囲を取り囲むように、ぐるぐると走り込んでいる。男たちは行き場をなくして固まっていた。
もうすぐ離宮から応援が来る。きっと彼らは捕らえられて、この事件は解決する。
そう思って安心した途端に、急に目の前が暗くなった。あ、やばい。立ちくらみだ。
体中の力が吸い取られるようだ。私はカルの腕の中に崩れ落ちた。
「シアっ!これ以上、力を使うな!」
それはダメなの。これは契約だから。
あの子の仲間全員が無事にここから離れるまで、私の力は流れ続ける。それこそ、この命が尽きるまで、止めることはできない。
うっすらと目を開けると、私はカルに抱きかかえられていた。そして、群れから抜けた黒毛の子が、私の頬にやさしく鼻面を寄せた。
「お前、なんでシアを連れてきたんだ!なんで逃さなかったんだよっ!なんでこんなっ」
黒毛の子に向かって、そう怒鳴るカルの唇に、私は力を振り絞って、手を当てた。
だめよ、それ以上は言ったらだめ。
「……その子は悪くないの。私のお願いを聞いてくれたのよ。だから、怒らないで」
カルは私を抱きかかえたまま泣いていた。
ごめん、また心配させてるんだね。でも、これでいいんだよ。契約はきちんと履行される。それが私の望みだから。
もう力を入れることができなくて、カルの口をおさえていた私の手は、ぽたりと脇に落ちた。
不思議だ。まるで体が自分のものじゃないみたい。
「シア、待ってくれっ!今、魔力を入れる」
無理よ。それは契約にないから。だから効果はないよ。でも、カルがキスをしてくれるのは、とても嬉しい。
ねえ、カル。私、なんだかすごく眠いの。このまま眠ってもいいよね。
温かいカルの腕の中で、私は深い眠りに落ちた。このまま二度と目覚めることがないとしても、それはとても幸せなことだろうと、そのときの私は本当にそう思っていた。