20. 大地へ還る(カルの視点)
シアが、俺を愛していると……。愛していると、言った!
天にも昇る心地だ。やっぱりここに連れてきて正解だった!
俺はシアに愛されているんだ。そう叫び出したい気持ちだった。
ここは俺の母のお気に入りの街だ。幼い頃は何度となく、一緒に訪れた。
たぶん、父と喧嘩をしたときに、母が好んで引きこもる場所。そして、たいていは数日後に、母の機嫌が直った頃を見計らって、父が自ら迎えに来ていた。
朝早くに目を覚ますと、父が来ていて、母とテラスでのんびりと語り合っていた。その光景を見ると、幼い俺は安心して、またベッドに戻ったものだった。
ここには、いい思い出しかない。微笑み合う両親に慈しまれた記憶だ。
シアがクローゼットから選んで身につけ、そして俺に脱がされている服は、すべて母のものだった。
でも、それは秘密にしておこう。知ったらシアは恐縮してしまうだろうし、汚してしまったと気に病むかもしれないから。
「この景色を見ると、誰でもつい素直になってしまうのよ。だから、カルに好きな子ができたら、ここに連れてきてあげなさい。きっと、本当の気持ちが聞けるから」
母は幼い息子の俺を抱き上げて、よくそう言ったものだった。
それが本当なら、あれはシアの本心だ。言葉で伝えてもらえることが、これほど嬉しいとは思わなかった。
もっと早くに連れてくればよかったのだけど、どうしても泊まりになるし、関係が進まないうちは踏み切れなかった。思い余ってシアを襲ってしまったら、一生後悔すると思ったから。
彼女に嫌われたら、生きていけない。
「素敵な街ね。とても静かで」
「この暑さだ。みんな昼寝中だろ」
「そっか、どの窓の戸も閉めっきり。中は涼しいの?」
「湿気がないから、日光が当たらなければ過ごしやすいだろ」
石畳の道に沿って、白い壁の家々が立ち並ぶ。この白壁は、暑さよけだ。そして、どの窓も緑の扉で固く閉じられている。
この町並みの美しさは、ただの観賞用ではない。熱い国に住む庶民の生活の知恵が生み出したものだ。
こうして暑さをしのぎ、生き抜いていくための。
それでも、こういう街は女子に人気らしい。高い壁に挟まれた迷路のような路地を、ただ馬に乗って散策しているだけなのに、シアはものすごく嬉しそうだ。
「私、この国が好きだわ。初めて来たときにも感動したの」
「へえ、どこが?」
「大地よ。空からみると赤いでしょ?だから驚いたの」
「空から?飛んできたみたいな感想だな」
「えっ!あ、ううん。違うの。そうじゃなくて、えっと、丘の上から見たって意味ね」
一瞬、シアが空から降り立ったような錯覚をした。空を飛べるのは鳥くらいだけれど、シアが天使で羽があったとしても、さほど驚かなかったと思う。
「痩せた土地なんだ。オリーブくらいしか育たないところも多い」
「うん。でもそのオリーブの色も素敵だと思ったの。空の青に映えるでしょ」
「緑なのにくすんでいるだろ。汚れているように見えないか?」
「あれは灰緑色って言うんですって。葉の裏側が白っぽいから、混ざってそう見えるの」
「へえ、あんまり気にしたことなかったな。そこら中にあるから」
「私の国には、この灰緑はなかったわ。緑はもっと深くて濃くて重いの。土も黒くて。だから、この国に来たとき、なんて言うのかな、異国情緒?それをすごく感じたの。浪漫だなって」
「8歳の子供が、いろいろ考えてるもんだな」
「えっ。あ、まあね。うん、思慮深い子供だったのよ」
「そうか?どっちかというと、ぼんやりした子供に見えたけど」
「……なんか言った?」
「いや、別に」
シアはおっとりした子どもだった。その異質な見た目のせいか、ずいぶんと人見知りで、俺と屋敷が隣同士だったニナくらいしか、友達はいなかった。
だから、頻繁に王宮に遊びに来ていたし、いつでもどこでも俺の後をついてきて、俺が大好きだと言っていた。ものすごく可愛かった。
そんなシアが急に大人びたのは、10歳頃になって聖女の力が宿ってからだった。それを機に、なぜか急によそよそしくなってしまったのだ。かなり寂しかった。
そして、13歳で彼女が大聖女になったと同時に、慣例として第一王子である俺の婚約者になった。
将来、確実にシアと結婚できることが決まり、俺は嬉しくて有頂天だった。また、シアと仲良くできると思っていた。
なのに、シアは大聖女の修行に没頭するようになってしまい、逆に会える時間も激減してしまった。
だから、俺も持て余した時間を魔法の修業と勉学に費やした。頑張っているシアに、すごいと思ってもらいたかった。ただ、そのためだけに。
おかげで、立太子できるだけの実力をつけられたと思う。
今となっては他に候補はいないけれど、他の王族が王太子に選ばれれば、そいつがシアの伴侶になる。
それを避けるために俺が必死で努力したことを、シアは知らない。
「ねえ、カル。私、この国の赤い土になりたい。死んだら、ひまわり畑に灰を撒いてほしいの。私、聖女の仕事、もっともっと頑張るから。だから、この国にいていい?」
「なんだよ、それ。死んだらとか、不吉なこと言うなよ。それに、シアは何もしなくても、この国の人間だ。俺の妻になるんだから」
「……そうだけど。でも、約束してほしいの。たとえ、いつどこで死んでも、ひまわり畑に戻ってきたい。ねえ、いいよね?」
「やめろよ。死ぬとか言うなら、ひまわり畑のことなんか、絶対に許可しないからな」
そう言うと、シアは黙って静かに微笑んだだけだった。その顔が、あまりに悲しそうで儚げで、俺は自分が何か大きな間違いをしたみたいな気がした。
それでも、シアが死んだら……なんて話は聞きたくない。
「そろそろ、戻ろう。日差しが強すぎる。いくら色素を変えていても、お前にはきついだろ。カフェで少し休んでから、今日は離宮まで駆けるぞ」
「うん。夕方までに着けるね」
「ああ。暗くなると危険だから、早めに出よう」
この時間でも開いていたカフェで休憩してから、王都へと続く丘陵を駆け抜けることにした。
隣町にある王城に泊まってもいいが、これ以上連れ回すのはシアの疲れが心配だった。
昨夜も、俺のせいではあるのだけれど、あまり寝ていない。魔力で回復させているとはいえ、慣れた場所でゆっくり休ませたい。
街を見下ろせる丘に登ると、シアが楽しそうにこう言った。
「嬉しいな。こうやって丘を馬で駆けるの、私の夢だったの。なんか、すごくカッコいいでしょ。カルのおかげで、一生の思い出がいっぱいできちゃった」
「だから、大げさだって。何度だって連れてきてやるよ。この隣街にも王城があるんだ。離宮に似ているけど、また違った趣がある。今度の休みはそこにしよう」
「次って、夏休みだね」
「そう、その前に試験だ。落第するなよ。お前には卒業してもらわないと困る」
「帰ったら勉強するわよ!赤点なんて取らないもんっ」
シアは数学がすこぶる苦手だ。帰ったら一緒に勉強しよう。無事に卒業させて、シアは俺の花嫁になるんだ。留年なんかさせるか。
「行くぞ、しっかり掴まってろよ」
「うん。大丈夫!」
俺は愛馬にちょっとだけ魔法をかけて、速駆の負担を軽くした。そして、一気に丘陵の荒野を駆けた。
速度を上げると、俺の胸にぎゅっとしがみついてくるシアが愛しかった。
彼女をひまわり畑に還すのは俺じゃなく、俺たちの子供や孫の役目だ。
一日だけでもいい、シアには俺より長く生きてほしい。彼女がいない世界に、俺は一日だって生きていられないから。
シアは必ず、俺が守ってみせる。この世界では、どんな危険も退けてやる。俺が側にいるかぎり、シアは絶対に死なない。
そう誓うそばから、何故か意識の底から不安が湧き上がってくる。それはどうしても晴れることなく、心の片隅で燻ったままだった。
そして、その消えない不安は、すぐに現実となった。
丘陵をしばらく駆けた頃、不穏な影を感じるようになった。後を付けられているような気がする。
見晴らしのいい丘陵では、いざというときに逃げ道がない。森に入ったほうが、地の利がある。
「シア、近道していいか?森に入る」
「いいけど、どうして?」
「この先の森は、離宮に続いてるんだ。お前の友達に会えるかもしれない」
「え、あの黒毛の子?わ、それは嬉しいな」
シアに何かあれば、あいつは必ず助けにくる。俺の手で守りたいけれど、そんなエゴでシアを失うわけにはいかない。万一のときには聖獣がシアを逃してくれるなら、俺が敵を引き留めるのみだ。
そう思って、森の方向に手綱を引いた。そして、俺たちは、深い森の中に分け入っていったのだった。