14. 二人だけの秘密
「もう少し飲みたいから、付き合ってよ」
タブラオだけでは飲みたりなかったらしく、カルはもう一軒、ハシゴしようといった。
「じゃあ、普段は行けないような、下町のお店がいいな!」
「よしっ!じゃ、バルに行こう。いい店があるだ」
「えー、ちょっとカル、どんだけお忍びで遊んでんの?」
「いや、違うよ。さっきの店の常連たちに連れ回されたんだって」
ああ、それで毎晩、お酒臭かったんだ。
あれでよく学校で寝なかったな。カルってなかなかお酒に強い?いやいや、間違えて私のベッドに入ってくるようじゃ、飲んだんじゃなくて、飲まれたというほうが正しいか。
「ほら、ここだよ。床が紙だらけで汚いだろ。これが人気の店の見分けかたなんだ」
そうだった。マドリードのバルも、こんな感じで床がゴミだらけだった。
あぶらとり紙くらいの小さな紙ナプキン。タパスをつまんだ指をそれで拭いて、そのまま床に落とす。その紙くずの数が、すなわち入店者の数ということ。だから、人気の証拠らしい。
「へー、面白い。カル、すごく社会勉強したんだね!私のおかげ?」
「ばーか、調子に乗ってんなよ。興味あったんだよ、旧市街に。あんま来ないだろ」
「うん。治安がいまいちだからね。目立つ格好では、確かに来れないよね」
ここに王子と聖女がいると知ったら、この店のお客もどれだけ驚くだろう。
見た感じそんなに悪そうな人はいないけど、特権階級に対して誰がどんな感情を持っているかは分からない。
「ね、私もちょっと飲んでみたいなー」
ビールを頼んだカルのそばで、私はちょっと甘えた声を出してみた。
「お子様はダメ。シアは水ね」
み、水って!ちえっ、やっぱダメか。けちー。
私はガス入りの水をちびちび飲みながら、ほうれん草が入った卵焼きをつついた。
そのとき、向かいのカウンターに座っていたおじさんの声が耳に入った。
「いやー、聖女様の美しさと言ったら。ありゃ、もう神様だね」
「あー、俺もそう思ったわ。人間じゃないな。月の女神さんだ」
「ありがてえよな。うちの母ちゃんも、聖女様の癒やしで良くなったし」
「ああいうお方は、神殿の深くに祀られてるのになあ、普通は」
「なんでも、第一王子が離さないらしいぞ。噂じゃ、すでにモノにしてるとか」
「王子も男か。にしても、聖女と寝るとか、並の人間にはできねえだろ」
「だから、王子さんだからできるんだろ。いい男だしなあ」
うわっ!何の話をしてるんだ、この人たちはっ!
私が慌ててカルを見ると、しーっと人差し指を唇の前に立てて、黙って聞くように合図された。いたたまれない。
「しかし、聖女様には外国からも山のように縁談がきているらしいぞ。正神殿も狙っているとか。王子さんも大変だよな。あれほど美人じゃなくても、そこそこ可愛い子で、面倒なことがない女のほうが、男には楽なのにな」
「そりゃそうだ。母ちゃんがあんな美人だったら、俺ゃ気が休まらねえな」
「ま、いずれは壊れるだろ。聖女が俗世に染まるわけがねえ」
「そのうち、神さまのお呼びがかかるってことか。まあ、長生きしそうにないよな」
ひどいこと言うなあ。なんで私が短命なんだよ。
そう思ってふと見ると、カルが拳をぎゅっと握っていた。あ、ダメダメ。カル、こんな軽口、気にしちゃだめだよ。
「ね、もう出よう。中、見せてくれるんでしょ」
「ああ、うん。そうだな」
カルは少しだけ残っていたビールをぐっと飲み干すと、私の手を取って店の外にでた。
そして、開口一番に私に謝ってきた。
「ごめんな、不快だったろ」
「いいよいいよ。私、そんなにか弱く見えるのかねえ。色素が薄いからかな。見た目騙しだよね」
私はわざと、明るく言った。
特に病弱なわけじゃないけれど、この体はこの国の気候に合わせて作られたものじゃない。完全に見た目重視。
若くして亡くなった母は、極寒の北の大国から嫁いだ人だった。私も体質的には、暑いのは苦手だし、食も細いかもしれない。
「シア、具合はどうなんだ?きつくないか。もう帰って休もうか」
「えー。やだ。今日は不良の設定だよ。なんでこんな早くに帰るのよ」
「いや、やっぱり心配だ。お前、あんまり食べてないし」
「はあ?絶対やだ。じゃ、カルだけ先に帰れば?私はもうちょっと遊んでいく!」
「バカ、お前一人残していけるわけないんだろっ!分かったよ。じゃ、離宮だけな」
「わーい。ありがと!よしっ!行こう!」
私はカルの腕に自分の腕をぐいっと組ませて、「おー」ともう片方の腕を天に突き上げた。
カルのため息には、思いっきり気が付かないふりをして。
離宮の門につくと、番兵は顔パスで私たちを通してくれた。ただ、カルのことは承知していても、私は誰なのか分かっていないようだった。
聖女のときには、王宮警備の人たちは私のほうを見たりせず、ひたすら目線を下げている。
それなのに、今夜はあからさまにジロジロと見られる。
は、はーん。私をカルの情婦だと思っているんだな。なーるほど、いかにもカルメンっぽいわ。王子をたぶらかす悪い魔女?魔性の女!
「何、ニヤニヤしてんだよ。変なやつだな」
「ふふっ!だって、目と髪と肌の色が違うだけで、悪女みたいな見えるんだよ。面白くない?明日には、国中に噂が広まるよ。王子様が魔女にたぶらかされたって」
「それ、面白くもなんともないから。なんなら、もう色、戻すか?」
「やだー。まだ不良してたい!朝まで時間あるし、今日はこのままがいい」
「朝まで遊ぶ気かよ?なんだよ、今日はめちゃくちゃ我儘だな」
「だって、彼カノだもん。甘えたっていいじゃん」
「別に、いつもだって甘えてくれていいんだけど」
カルの言葉は、聞かなかったことにした。
婚約者というのは、その先に結婚がある契約者だ。お互いの未来に対して、それなりの責任がある。
でも、彼カノっていうのは、今、このときだけ好き合っていればいい。コミットがない恋愛は、私にとってはありがたい。ただ、カルを今好きでいればいいだけだから。
「きれいね。海の底の世界にいるみたい」
門から宮殿の入り口までは石畳になっていて、その両側の植え込みから柔らかいオレンジの光でライトアップされている。
宮殿の入り口にいる兵も、殿下にドアを開けながら、興味津々で私を見ていた。
こりゃ、本当に、明日は噂が駆け巡りそうだ。
宮殿の中は、本当に美しかった。壁や天井にはアラベスクと呼ばれる幾何学模様の装飾が施され、モザイクが光に反射してキラキラと輝いている。
夜なのに、カルが来ているせいなのか、中庭の噴水が水路を潤し、まるで砂漠の中のオアシスに来たようだ。ところどころにあるアーチの透かし彫りも見事だ。
「素敵な宮殿だね。本当に夢の中にいるみたい」
「うん。ここは俺も気に入ってる。異教徒の王が建てた宮殿だけれど、優れた統治者だったんだと思う。征服地にこれだけの建造物を作るなんて、只者じゃないよ」
「そうね、本当に。人が作ったものだと思えないくらい、きれいだね」
「そうだね」
そう言ったカルは、建物じゃなくて、私を見ていた。
何なの、もうっ!恥ずかしいから、そういうベタなことはやめてよねっ!
「もう、帰ろうか。馬車を呼ぶよ」
「えっ!なんで?まだそんなに遅くないよ?」
「こんな雰囲気ある場所で二人っきりとか、お前、危ないと思わないの?」
「え、なにそれ。なんか、危険なの?」
周囲を見回した私の腕を、カルがそっと引き寄せた。きつく抱きしめられると、カルがいつも使っているコロンのいい匂いがした。
あれ、すごくドキドキしている。これは、私の心臓の音だよね?それともカルの?
「危ないのは俺。ここには、衛兵以外には誰もいない。お前が叫んでも、助けはこないぞ」
「カルが私を襲うってこと?ないでしょ。だって、学園の部屋だって密室じゃない」
私がそう言うと、カルは深いため息をついた。
「……もういいよ。さあ、帰ろう。今日は楽しかったよ」
カルは私から離れて、出口のほうに歩き出した。
これでもう、彼カノは終了?私はまた、あの『理想の聖女像』を演じる、邪魔者の婚約者に戻らなくちゃいけないの?
そう思ったときには、私はもう、カルに後ろから抱きついていた。
「おい、そういうのやめろよ。こっちはギリギリ我慢してるんだから」
「やだ。まだ今日は終わってないもん。悪女の魔法は解けてない」
「シア。ふざけるのもいいかげんに……」
「いいの!今は不良なんだから、ふざけまくろう!」
訝しげに振り返ったカルの首に、私は腕を回した。
悪女の魔法が解けないうちに、今しか言えないことを、今しかできないことをしたい。
私たちが彼カノであるうちに。
「今夜は不良らしく、親に言えないような悪いことしよう!明日になったら、夢みたいに消えちゃう魔法なんだから、今夜だけは特別だよ」
私はそのまま目を閉じて、カルからのキスを待った。
そして、カルからの激しい口づけを受けながら、時計塔が深夜十二時を告げる音を聞いていた。
悪女の魔法は解けた。この先は、魔女の仕業じゃなくて、私の責任。
私は、自分の意志で今ここにいて、そして今カルを愛している。
深夜と共に離宮のライトアップが落ちて、闇が私たちを包んでいった。それは、誰も知ることのない、二人だけの秘密の夜の始まりの合図だった。