01. 婚約破棄イベント
「シア、お前との婚約を破棄する!」
カルロス第一王子殿下の言葉に、全身が凍りついた。なぜ今、婚約破棄のイベントが?すべてのフラグは折れたはずなのに。
「明日の『諸聖人の日』には、王家の墓所に穢れなき乙女、サラ・オーランドを伴う」
それはつまり、王族の一員として彼女を公式行事に参加させるということ。私ではなく、彼女を未来の妃として、内外に披露するという意味だ。
勝ち誇ったような笑みを浮かべたヒロインが、こう言った。
「シア様。私と殿下は愛し合っておりますの」
ストロベリー・ブロンドの美少女。平民出身首席入学。
あなたは彼に興味なんてなかった。ましてや、彼を愛していたはずはない。なのに、どうしてこんな発言をするの?
「お前には、今すぐに国外追放を命じる。とっとと立ち去れ!」
私が何をした? 断罪される覚えなんてない。このイベントを避けるために、もう何年も準備してきた。そして、やっと回避できたと思っていたのに。
「お前の罪は、聖女でありながら戒律を破って俺に懸想し、堕落させようとしたことだ」
聖職者は恋愛禁止。それなのに、彼を深く愛してしまったことは事実だ。
でも、もうすぐ聖女を辞して、私たちは結婚する予定だった。二人でずっと、この国を守っていくはずだったのに。
「神殿からも、破門が言い渡されている。お前は罪人だ。死にたくなければ去れ!」
破門。この国だけでなく、宗派が及ぶ全ての国で生きる道が絶たれたということ。そこまで手が及んでいたんだ。
この断罪は気まぐれや、戯れじゃない。私を追いやるために、周到に仕組まれたもの。もう誰にも、覆すことなんてできない。
「薄汚れた売女が! 堕落した魂に相応しい魔女の姿で、この国から出ていけ」
明日は『諸聖人の日』で、その前夜はハロウィン。私たちが通う学園のイベントで、私も魔女に仮装していた。
被っていた魔女のフードを脱ぎ、私は膝を深く折って、王族への最敬礼を表すお辞儀をした。
「承知しました。カル…ロス殿下、どうかお元気で。お二人の幸せをお祈りします」
会場は静まり返り、言葉を発する者はいない。つまり、これが学園の総意なんだ。
「聖女じゃないお前の祈りは、もはや呪いでしかない。罪を重ねる前に消えるんだ」
もう聖女でも、貴族でも、彼の婚約者でもない。私はただの悪役令嬢。ヒロインの邪魔者。この国に仇をなす悪女で、神殿から追放された罪人。
何も言わずに、私は会場を立ち去った。それでも、絶対に泣かない。泣いてはいけない。
「聖女さん……いや、アリシア。大丈夫か」
若い養護教諭保健医が、会場から私を追ってきた。その美貌から、学園にはファンクラブができるような色男だ。ここのところ体調を崩していた私を、とても気にかけてくれていた。
「先生は、こうなることをご存知だったんですね?だから、私のことを心配して……」
「君を愛していると言ったのは、同情や憐憫じゃない。この手を取ってくれるなら、このまま君を連れて、どこまでも逃げる。決して一人にはしない」
「無理ですわ。そんなことをしたら、先生の人生がめちゃめちゃになります」
「君がそばにいるなら、その人生が僕にとっては最上だ。愛は求めない。そばにいてくれるだけでいい」
「先生のお気持ち、嬉しかったです。どこにいても、先生の幸福をお祈りします」
こんなことに巻き込んではいけない。私は先生を愛してはいない。この優しい人には、愛し愛されて満たされる、幸せな人生がふさわしい。
私の心を読んだのか、先生はそのまま黙って学園の出口まで付き添ってくれた。正直、先生が一緒にいてくれて、とても心強かった。
「アリシア、聖女さん……。君の意志を尊重しますよ。僕はここに留まって、事の成り行きを見届けます。でも、気が変わったらいつでも連絡してください。僕はいつでも、君の味方です。この気持ちは、生涯変わりませんから」
学園の正門に馬車が停まっているのを確認すると、先生は私の手の甲に口づけて、別れの言葉を言った。私はそれに軽く会釈を返してから、馬車へと歩き出した。
先生は玄関から、黙って私を見送ってくれた。
質素な馬車の前に控えているのは、顔見知りの初老の男性。婚約者であった王子の側近だった。
「アリシア様。国境までは、私がお供いたします」
「ありがとう、セバスチャン。私は、どこに行くのでしょうか」
「国境に、ニコライ皇帝陛下がお待ちです」
「お兄様が?」
「お急ぎを。今は逃げるのです。この国では、お命の保証はできません」
そんなに状況が悪いなんて。私は今まで何をしてきたんだろう。いえ、正確には、何も出来なかったということだ。
このバッドエンドを回避しようと、ずっと頑張ってきたのに。私はやはり排除されるべき人間なんだ。
私を乗せた馬車は、禁忌の森の中を、疾風のごとく駆け抜けた。この闇をこの速度で走るには、この森に詳しいセバスチャンでも難しいはず。
たぶん、道案内がいる。それは、口には出さなくても私の気持ちを分かってくれる、大切な友。彼が私を、導いてくれているんだ。
森を抜けた先は国境の街だった。宿で私を待っていたのは、ニコライ皇帝陛下。私の母方の従兄だ。
輝く金髪と煌めく碧眼を持つ、北の大帝国の皇帝。若くしてその地位についた美貌の貴公子は、まさにおとぎ話の中の王子様という風采だった。
「アリシア! 無事でよかった。顔を見るまで、生きた心地がしなかったよ」
「ニコ兄……様、ご心配をおかけしました。でも、どうしてここに?」
私に駆け寄って、優しく抱きしめてくれる腕に、私はほんの少しだけ安らぎを得た。
少なくとも、ここには私の居場所がある。愛する人に拒絶された私を、やさしく受けとめてくれるお兄様がいる。
「詳しい話は後だ。明朝には国に向けて出発する。その前に式を挙げよう」
「何の……式ですか?」
何もかもが、急過ぎる。まるでジェットコースター・ドラマのような展開だ。こんなことが、本当にあるんだろうか。まだ夢を見ているみたいだ。
だから、きちんと説明してほしい。一体、何が起こっているのか。どうして、自国にいるはずのお兄様が、ここで私を待っていたのか。
「お前は今宵、私の花嫁となる」
「まさか。私は皇妹です。妹を妻にはできないでしょう」
「実際は従妹だ。しかも、私は、お前の伯父とは血が繋がらない。遠縁からの養子だ」
「そんなこと。血筋に疑いが出れば、皇帝の地位が危ないんですよ」
「言ったろう?地位も権力も、お前を得るための手段だ。いつ手放しても惜しくない」
どうして?なぜ今になって、私を花嫁になんて言い出すの?
お兄様からの求婚は、すでに断っている。私にその気がないことは、知っているはずなのに。
それなのになぜ、こんな危険を侵してまで、私を助けに?
「私のために、これ以上の無理はしないでください」
「言ったはずだよ。お前のためなら命をかけて、どんな奇跡でも起こしてみせると」
「私にはお返しできるものがないんです。お兄様とは結婚できません」
「こんなことになっても、まだカルロスを愛しているのか?」
どうして、こんなことになってしまったんだろう。何もかもが、予想と違ってしまった。
それでも、私は彼を恨んでいないし、今も変わらず愛している。
愛されたから愛し返したんじゃない。愛はずっと私の中にあった。だから、彼の愛を失っても、私の愛は消えない。
「私が愛するのは、彼だけです」
「愚かなことを、あいつはお前を捨てたんだぞ」
「分かっています」
「私の庇護がなければ、お前の命が危険なんだ」
「それでもです」
「私を拒めば、死ぬのはお前だけじゃないとしたら?」
「それは……どういう意味ですか?」
その質問には答えずに、お兄様は私の顎に指をかけて、顔を近づけた。
こんなに間近で見ても、この人の美貌は損なわれることがない。思わず見惚れてしまうほど美しい。
「それ以上は、近づかないでください。噛みつきますよ」
「できるものなら、やってごらん」
お兄様はそう言うと、そのまま私に口づけた。それは、息もつけないような激しいキスだった。
「…っ」
痛みで怯んだ瞬間を狙って、私はお兄様を突き飛ばした。握った手の甲で、お兄様は唇を押さえた。舌と唇を容赦なく噛んだのだから、かなり出血しているだろう。
「言ったでしょう。私は本気です。聞き入れてくれないなら、聖女の力を使います」
その言葉に反応して、お兄様は動きを止めた。聖女の力は強大だ。間違って使えば、多くの命を奪い、国を滅ぼす。
「お前はもう、聖女じゃないだろう」
「神殿に破門されても、能力は健在です」
この力はチートだ。強すぎる能力は、この世界のギフトじゃない。こんな無双みたいな能力、転生チート以外にはありえない。
壁際に追い詰められた私は、星のように煌めく彼の瞳を、キッと睨みつけた。
「後悔しますよ」
「しないよ。私は後悔しないために、ここに来たんだから」
お兄様は私の腕を掴んで強く引いた。不意の出来事だったので、私はその力に逆らうことができずに、反動で部屋の中央にあるベッドへと、倒れ込んでしまった。
「何をするんです!」
私を組み敷いたお兄様は、また私に口づけた。今度のキスは、かすかに血の味がした。
そして、お兄様は、辛そうに顔を歪めてこう言った。
「あいつを思って、一生苦しめばいい。……私の腕の中で」
晩秋の暗い夜に、窓からぼんやりと月明かりが入る。明日は諸聖人の日。今夜はその前夜。死者たちの夜。
そして、学園のハロウィン・パーティーで、私は婚約破棄を言い渡された。
幼い頃からの婚約者だった第一王子カルロスは、恋人らしい平民出身ヒロインのサラ・オーランドを伴っていた。
こんなことになったのは、私が乙女ゲームの悪役令嬢に転生したから。
逃れられない運命とゲームの強制力。それは私が思っていた以上に、強い縛りだったのだ。
イラスト:一本梅のの様