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桜の季節

作者: 河野 童子

 風が吹いた。開け放った事務所の窓から、ひとひらの花びらが、ひらり、ひらりと舞い込んできた。淡く、ぼんやりとした紅色をした、丸くて、とても小さな桜の花びらが。それは、ゆっくりと回転しながら、俺の目の前まで吹かれ、俺の書類で埋め尽くされた机の上に落ちた。見れば、表通りの並木に咲いた桜が、枝を風にもてあそばれ、淡い花吹雪を散らしている。ここ数日、仕事に追われて日付すら気にしていなかったが、暦の上ではもう春だ。

 書類の上に舞い降りた花びらを、つまみ上げる。それは、とても薄く、とても儚く、いとも簡単に壊れてしまいそうだ。まるで俺の中に眠る、想い出のように。毎年、この季節になるたびに、思い出す。この花の咲く、この季節になるたびに。

 桜と共に、俺の前に現れ、そして桜と共に、俺の前から消えていった、あの人のことを。

 故郷に咲くあの桜の木は、今年も花を咲かせたろうか。

 都会の雑踏に紛れて咲き誇る並木の桜に、生まれ育った田舎町の情景を重ね、思いを馳せた。

 そうだ。俺の想い出は、いつだって桜吹雪の中にある。


 遠い昔の日、引っ越したばかりの俺に、新天地での最初の友達ができた場所。その友達の存在が、いつの日かかけがえの無いものに変わっていった場所。愛の気持ちを、遂に打ち明けた場所。愛という言葉の意味を、互いに分かち合った場所。そして、愛する者を永遠に失った場所。


 あれから永い年月が流れていった。何度となく春が訪れ、走り去っていき、桜を散らしていった。どれ程の歳月が経とうと、どれ程の季節が巡ろうと、俺の心だけは、あの年の春のまま、凍り付いて、季節に置き去りにされて、忘れ去られていた。けれど、それに気付かぬ振りをして、俺は、時の流れに身を任せるように見せかけ、時の流れを必死に追いかけ続けていた。

 学校を出て都会で就職した俺は、全てを忘れるために仕事に没頭した。けれどそれは、偽りでしかなかった。ただ生活をするだけ。朝起きて、満員電車に揺られ出勤し、定められたノルマをこなし、終電間際まで残業をし、家に帰り、風呂に入り、ビールを飲んで寝る。そんな日々の繰り返し。

 何の変哲も無い、日常だった。それが当たり前のことで、他の誰もが、俺と同じような生活を、今も送っているんだと思う。でも、その当たり前の生活が、俺には耐えられなかった。毎晩毎晩、カレンダーの日付を塗り潰す度に、俺の心はすり潰されるように風化して、胸の奥が締め付けられる気がした。

 何か、満たされない。そう感じていた。俺の生活に、何が足りなくて、どう満たされないのか、俺は心の奥では分かっていた。でも、考えたくなかった。そんな事は、もう何年も昔に置いて来たはずだった。

 あの街にも帰らず、両親の顔もここ数年見ていない。恋人もいない。できなかったわけではない。つくらなかった。あの人の事が忘れられなかったから。あの人の事を、まだ愛しているから。そしてあの人も、きっと俺の事を愛しているだろうから。


 そんなある日、上司から突如言い渡された出張先は、俺が青春を過ごしたあの街だった。

 懐かしい駅の改札を抜けると、街はすっかり春の香りに包まれ、街中の桜の花はそのつぼみを存分に開闢させていた。

 俺が幾度と過ごした、あの春と何も変わってはいない。太陽が暖かく、風が強く、鳥が歌い、そして桜が咲き誇る。街並みや、行き交う人々はすっかり変わってしまったけれど、間違いなく、これは俺の想い出の春だ。


 俺は年老いた両親の待つ実家や、新しい勤務地へ挨拶挨拶するよりも先に、行っておきたい場所があった。

 何よりも先に、想い出の桜の木を、見たかった。


 人がいる。俺が通った県立高校の制服を纏っていた。桜の木の下で二人、何か話している。二人とも顔を赤らめている。

「あのさ、智子」

「何よ、裕君。改まって」

「あのさ……」

「うん……」

「智子、俺、お前のことが好きだ。その、付き合ってくれないか?」

 刹那、一陣の風が通り抜けた。その風は桜の花弁を舞い踊らせ、二人を包んだ。

 それはまるで、あの人が二人を祝福しているようだった。


 これは某所にて投稿した文章の加筆版です。

 約一千文字にて、お題に添った内容の文章を執筆し、創作の修行とする、という内容でした。これがたまたま、当時書いていた長編小説のプロローグ、エピローグに大体合致する、という事で、加筆や添削を行い、再構築したものを、そちらに投稿しました。

 そして、さらに加筆を行い、文章としてより完成形に近づけたものが、本作品です。

 できることであれば、いつの日にか、本編のほうもご紹介させていただきたいと思っております。

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