闇を垣間見たあとでおっぱいについて語るだけの話
学校が終わった俺は、打ち合わせのためにLF文庫の出版社に来ていた。
「原稿の進み具合はどう?」
打ち合わせ用のスペースで対面に座った俺の担当編集の紬が、世間話をするような気軽さで聞いてきた。
「ふっ、問題ない。期待して待っているといい」
その問いかけに対し、俺はにやりと口角を上げ、腕を組んで自身満々に返す。
実際この先何も問題が起きなければ、ラブコメの方は今月中には書きあがる計算だ。七月の刊行には十二分に間に合う。
「そっ。ならいいけど……締め切りを破ったら、分かってるわよね?」
「わ、分かっている!」
目を鋭くし、片手をゴキバキ鳴らす紬は率直に言って怖すぎる。
あまりの迫力に、頬に一つ汗が流れた。
とても彼氏が欲しいと言っている女の顔じゃない。
「あんたは学生だし、当然学校もあるからカンヅメ部屋に入れることにはならないけど……あそこは地獄よ」
「じ、地獄……具体的には……?」
「これを見なさい」
紬が差し出してきたのはタブレットだった。
画面には薄暗い雰囲気の部屋が映し出されている。
「こ、これは……まさか……」
「そうよ。カンヅメ部屋の様子。この動画は締め切りを破った作家がどうなるかを他の作家に見せることで、絶対に締め切りを破らせないようにするためのものなの」
薄暗い部屋の中、隅に置かれた机の上にあるパソコンの光源がやたらと眩しく感じる。部屋の中にあるのは机と椅子とパソコンのみで、あとはトイレと書かれた扉があるぐらい。
その部屋の中で、今正にパソコンに向かってひたすら文字を打ち込み続ける作家が映っていた。
『――帰りたい帰りたい帰りたいかえりたいカエリタイ……』
「ひっ!?」
耳を澄ませば呪詛のように聞こえてくる帰りたいという言葉。
よく見ると、机の周りには空になったエナジードリンクの缶が無数に転がっているし、作家の頬はやつれ、無精ひげは生えまくり、目の下には隈が黒々と浮かんでいた。
「彼はそこで文字通り三日三晩寝ることも許されずにひたすら原稿を書かされているのよ。寝ようとすれば見張りの人が起こしに行くわ」
「み、三日三晩寝ずに、だと……」
思わず喉がごくりと鳴った。
こんな光が届かないような部屋でひたすら原稿を書かされるなんて、絶対に気が狂ってしまう。
『あぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああ――――!!』
画面の中の作家が叫び声を上げたのと同時に、紬がタブレットの電源を落とした。
「ねっ? 地獄でしょ? あんたもこうならないように気をつけなさいよ」
「肝に銘じておく」
カンヅメ部屋にいた作家には悪いが、反面教師にさせてもらおう。
その後、いつもより身を引き締めることが出来た俺は、かなり有意義な打ち合わせを行うことが出来た。
「……夢に出ないといいがな」
打ち合わせを終えて、一階のロビーに降りてきた俺がさっきまでの悪夢のような光景を思い出してぶるりと身震いをしていると、
「おっ、アサヒも打ち合わせだったのか?」
俺が出てきたのとは別のエレベーターから学校の制服を着た創太が出てきた。
創太はあくびをしながら、俺の横に並ぶ。
「どうした? なんか顔色悪くねえ?」
「いや、なんでもない。ちょっとこの世の地獄を垣間見ただけだ」
首を傾げる創太に気にするなと付け加えておく。
あの地獄のことについては人に話す気にはならないからな……。
「まあいいや。打ち合わせ終わったんなら飯でも行こうぜ」
「別にいいが、ちょっと待て。神奈に連絡入れておくから」
スマホをポケットから取り出し、晩飯が必要ないという旨を伝えると、すぐに返信が来た。
どうやら今からちょうど料理をしようとしていたらしい。作っている途中じゃなくてよかったな。
「待たせたな」
「おう、その詫びに死んでくれや」
「何故そうなる」
「目の前で女子とカップルみたいなやり取りされたら男なら誰でもこうなる」
誰でもはならんだろ。
メンチを切るようにして睨んでくる創太を無視し、俺は歩き出した。
「食いたいものの候補はあるか?」
「ねえな。いつも通りファミレスでいいだろ。好きなもん頼めるし」
「それもそうだな」
手早く近場のファミレスに入ると、ウェイトレスの案内で空いている席に通された。
今日はドリアの気分だな。
注文は決まっているのに、なんとなくメニューを眺めていると、
「なあ、ちょっと相談があるんだ」
妙に真剣な声が聞こえて、顔を上げると、声通りの真剣な表情をした創太と目が合った。
こいつまさか……。
「財布持ってきてないから奢れとかじゃないだろうな」
「違えよ! 飯誘ったのオレなのに誘った側が財布持ってねえとかクズすぎんだろ!」
なんだ、違うのか。
「金も貸さんぞ」
「だから違えって! お前の中のオレどんだけ金関連でトラブル起こしてんだよ!」
これも違ったか。
おっ、この限定メニューのピザ美味そう。これもついでに頼んでおくか。
「オレ、創作のことで悩んでるんだよ」
「……ほう」
思った以上に真剣な話っぽいな。役に立つかは分からんが、創作のことならちゃんと聞いてやるか。
机に備え付けられた店員を呼ぶボタンを押して、改めて創太へと顔を向けた。
「――どうやったら合法的に女子のおっぱいを揉めると思う?」
……。
…………。
………………は?
「すまん、なんだって?」
「だからぁ……どうやったら合法的に女子のおっぱいを揉めると思うかって聞いてんだよ」
悲しすぎることに聞き間違いではなかったようだ。
近くを通りかかったウェイトレスが顔を引きつらせて足早に去っていったのが今の発言が聞き間違いじゃない証拠。
食事代とは別に金を払うからこいつと一括りにするのはやめていただきたい。
というか今のが注文取りに来たウェイトレスだったのでは? まあ、あとでもう一度呼び直そう。
「それと創作に一体なんの関係があるんだ」
「いやほら、オレラブコメ書いてるじゃん。それでラッキースケベるシーンを書かないといけないわけじゃん」
じゃんじゃんうるさいなこいつ。
創太の書いてるものに限らずに、確かにラブコメではそういうラッキーハプニングは必要不可欠だと言ってしまっても過言ではないだろう。
とりあえず顎を軽くしゃくり、続きを促す。
「で、実際そういうシーンを書くのにリアリティって大事だろ? 知識だけなら当然知ってるけど、自分で経験したわけじゃないからどうしても嘘臭さが混じるんだよ」
「ああ、なるほど。理解した」
描写のリアリティに関しては俺たちのみならず、作家の永遠の課題みたいなところがある。
知識や経験が増えれば増えるほど、描写に深みが増すのは間違いないし。
「とはいえ、表現力が売りになってくる青春群像劇じゃあるまいし、ラブコメのハプニングの描写にそこまでリアリティを求めてる読者なんて少数だろ。そんなに気にすることか?」
「いや……創作のためみたいな言い方したが、単純に創作欲だけじゃなくて性欲でも合法的におっぱい触りたいと思ってる」
ダメだこいつ。
いくら澄んだ目をしてカッコよさげに言っても、内容がおっぱい触りたいな時点で台無しにもほどがある。
もっとその真剣さを他に向けてほしい。
「聞いておいて悪いが、合法的におっぱい触るための手段を俺が知っていると思うか?」
「一人で悩むよりも二人で悩んだ方がいいアイディアが出るかもしれないだろ? 頼む、オレと一緒に悩んでくれ、大親友」
「一人で地獄に落ちろ」
まさかこんなことで大親友呼ばわりされるなんて微塵も思わなかった。
「お前だって好きだろ、おっぱい。それとも嫌いなのかよ」
「ふざけるな。おっぱいが嫌いな男なんているわけないだろ」
「じゃあいいだろ! なにが不満なんだよ!」
「時と場所だよ! お前周りを見てみろ!」
創太が首を動かして周りを見る。
その視界にはこっちを見て遠巻きにひそひそする女子高生たちの姿が映っていることだろう。
俺たちと目が合った女子高生たちが気まずそうに立ち上がり、会計へ向かっていったのがとても心にくる。
「……おし、邪魔者は消えたな。で、合法的におっぱいを触る方法なんだけど」
「続ける気か!?」
メンタルが屈強すぎる! よくこの状況で話を続行しようとするな!
「だってお前も乗り気だっただろ。嫌なら嘘でもおっぱい嫌いと言っておけばよかったんだ」
「ふん。自分を偽ってまで好きなものを嫌いなんて言うわけないだろ」
「男前だなー。お前のそういうとこほんっと好きだわー」
別にこいつに好かれたいわけじゃないんだがな。
俺は唇を湿らせるために、お冷に口を付ける。
「現実的に考えて、彼女を作るかその手の店に行くかしかなくないか?」
「それが出来てれば野郎二人で顔付き合わせてファミレスでおっぱいを揉む方法を模索してねえんだよ!」
だったらやらなければいいだけだろうが……。
言葉にしたらあまりにも虚しすぎるぞ。
「じゃあ作品のためだとか言って担当編集にでも頼め。君島さんだろ、お前の担当編集」
確か紬と同い年で、気弱そうなおっとりした感じの人だった記憶がある。
軽い会話ぐらいしかした覚えはないが、胸は結構あったような……。
「それはもう頼んで断られたんだわ」
「既に実践済みだと!?」
冗談のつもりだったのに、予想の斜め上を行きやがった! こいつどんだけ乳揉みたいんだよ!
「正確には紬姉さんに殺されそうになったから諦めたんだけどな」
「ああ。君島さんには強力なガーディアンがいるからな」
紬曰く、飲み会とかでもお酒を飲まされすぎないようにしていたりだとか、人が良すぎて騙されないようにしていたりだとか、とにかく守っているらしい。彼氏かよ。
自分自身に彼氏が出来ないのはそういうとこだぞ。
「……なあ、コハクちゃんに頼むってのは」
「やってみたらどうだ? その場合呼び方が神からゴミになるだけだろうがな」
とんでもないクラスチェンジをしたくなければやめておいた方が賢明だ。
「い、いなりは……」
「神からゴミになるどころか口すら利いてもらえなくなるぞ」
「だよなあ、ちくしょう!」
そもそも顔見知りにおっぱい触らせろなんて言って人間関係にひびを入れるのなら、そこら辺を歩いている知り合いじゃない女に言った方がいい。
その場合は警察を呼ばれてジ・エンドだろうがな。
「考えていても仕方がないし、いい加減注文するぞ。腹が減った」
「そうだな。一応話を聞いてもらった立場だし、今日はオレの奢りでいいぞ」
「ならデザートも頼むか」
「ちょっとは遠慮する素振りを見せろよ」
お前俺より稼いでるんだからこのぐらいはいいだろ。
苦笑する創太をよそに、俺は店員を呼ぶべく再びボタンを押した。
「なんかおっぱいの話してたせいかこのボタンがおっぱいに見えてきたんだが」
「お前さすがにそれはやば……マジだ」
作家という職業にこそ就いてはいるが、俺たちはやはりどこまでも正しく男子高校生なんだと実感した瞬間だった。