蜻蛉竜―ドラグネウラ―
「弟子くん! 頑張って走れ! でないと死ぬよ!」
「はぁ、はぁ」
今の俺には師匠の言葉に答える余裕は全くない。背後から響いてくる耳鳴りがしそうな高音の風切り音は一向に遠のかず、振り向けないからこそ恐怖心だけはどんどんと膨れ上がっていく。
だから俺は、もう何も考えずに目の前を俺よりも多くの荷物を背負って走る師匠の背中だけを見つめることにした。
脳みそを空っぽにして走って走って走って、その結果――転けた。
あ、これは死んだかもしれない。
「弟子くん!」
師匠もそんな声でるんだなぁ。
そんな間抜けな感想を抱いていると、胸や顔が地面にぶつかるよりも先に師匠に正面から抱きとめられて。
「頭は守ってね!」
投げられた。なんかプロレスみたいに派手で、それでいて綺麗に投げられた。
「いったぁ……」
土の上なので大怪我には至らなかったが、膝や肘が擦れて血が滲んでいた。
「っセーフッ!!」
と師匠もすぐにスライディングして俺が投げ込まれた場所。切り立った崖と崖の間、幅1mも無いような細い隙間道に飛び込んだ。
そしてその隙間から巨大な丸い複眼が俺達をじっと見つめていた。
ヘリコプターのような音を立てて透明な翅を高速で震わせて滞空し鋭い顎をガチガチと鳴らす
「ガガガガッ」
という威嚇の声を発してそいつ、蜻蛉竜は自身が入れない隙間から俺達が出てくるのをじっと待っている。
「あっちゃぁ……これじゃしばらく出られないねぇ」
と師匠は困ったようにボヤいた。
「弟子くん、大丈夫?」
「はぁはぁ、あ、ハイ。何とか生きてます」
全身ボロボロだが、それでも生きている。それがわかって一気に全身の力が抜けた。
「あ、弟子くん!?」
普段なら師匠に抱きしめられるのも恥ずかしいが、今はそんな余裕もなかった。
「蜻蛉竜は縄張り意識がすごく強い子だけど……まさかここにいるとはね」
と師匠は俺の手足の傷の手当をしながら珍しく予想外だと言う言い回しをした。
俺達は本当ならミシガン州の竜研究施設に行く予定だったのだが、その道中蜻蛉竜に襲われたのだった。
「前まではいなかったんですか?」
「んー、多分いたけど気づかなかった。って言うべきかなぁ。湖の中にいたんだよ、きっと」
「……ヤゴってことですか」
蜻蛉の竜、と言うことは幼体はヤゴだったと言うことだろうか。
「弟子くんはいい読みをしているね」
と師匠はぴったり歪みなく絆創膏を貼りながら、隙間の外で対空して待つ蜻蛉竜を一瞥する。
「多分今年くらいに成虫ならぬ成竜になったんだろうね。若い子って元気というか荒っぽいことが多いから」
「それで、どうするんですか?」
「どうしよっか?」
「えぇ……」
あっけカランというものだから、ちょっとビビる。
師匠が笑ってる背後ではやはりまだ蜻蛉竜がホバリングで俺たちを狙っているわけで。
「んー、ま、あの子が飽きるまでのんびり待とうか」
と伸びをして、バッグからブルーシートを取り出して地面に広げた。
あ、この人寝る気だ。
「約束はいいんですか?」
「大丈夫大丈夫、遅刻やブッチは今に始まったことじゃないし」
それはする側が言うセリフじゃないと思います。
「この状況でよく寝られるな……」
流石に師匠のように豪胆にはなれない俺はシートに座ったまま蜻蛉竜を眺めていた。
よく見ると、小さな鼻腔があったり、6本の足のうちの2本は蟲竜の特徴である簡素な作りの副脚で、メインの四肢にはちゃんと指があったり、実際のトンボとは違うところがいくつか見つかった。それでもやっぱりおおよそのシルエットはトンボで不思議な感覚になる
「翅は……よく見えないな」
あまりにも高速で羽ばたいているものだから詳細な形はわからないがとりあえず透明だと言うことはなんとなくわかる。
「地面に降りてくれたらよく見えるのに」
「それはちょっと根気がいるかなぁ」
と俺の呟きに隣で横になっている師匠が答えた。
「起きてたんですね」
独り言が聞かれたと思うとちょっと恥ずかしい。
「根気がいるってどう言う意味ですか?」
「蜻蛉竜は成竜になると起きている間の9割を飛びながら過ごすから」
「……まじですか」
「マジマジ」
たしかにトンボは昆虫の中でも飛ぶのが得意なイメージだがそれが竜になるとそこまでになるのか
「師匠は……見たことあるんですか?」
「なにを?」
「蜻蛉竜の羽が止まってるところ。です」
「……生はそういやないなぁ」
師匠が竜のことで知らないことがあるなんて思わなかった。
知らないこと、とは少し違うかもしれないけど、それでもやはり、本気で驚いた。
「私も、まだまだ新参者なのよ」
たしかに、師匠は今まであった竜研究者の人達と比べても若い方だ。
まあ、むしろ見た目若いせいでなんか仙人みたいなイメージ持ってたわけだけど
「蜻蛉竜の研究についてはアメリカの研究チームが強いから今度色々教えてもらいな」
「アメリカに多いんですか? 蜻蛉竜」
「んーにゃ、そこまで」
「じゃあなんで?」
「蜻蛉ってさ、英語でなんていうか知ってる?」
と師匠が含み笑いをしながら問いかけてきた。
「ドラゴンフライ、ですよね」
「そうそう。だからね、大昔に英語圏の人は蜻蛉竜を探すのに躍起だったらしいんだよ。ドラゴンだからって特別視して」
「そんな理由……ですか?」
「私も初めて聞いた時笑っちゃってさー。その頃の影響で蜻蛉竜専門の研究チームがまだ残ってるらしいんだよ」
なんというか、説明されなきゃ全く理解できない理由。というものもあるものだな。
「……弟子くんは、蜻蛉竜、怖い?」
「ちょっと、怖くなくなりました」
「そっか」
畏れを捨ててはいけないんだろうけど、無闇に怯える必要も無い。か。
「ふわぁ」
そう思うと、急に眠気が襲ってきた。そういえば今日は日が昇る前から行動していたんだった。
「師匠の隣、空いてるよ?」
「……じゃあ、お邪魔します」
「いらっしゃい」
折り畳んだ上着を枕にしてシートの上に横たわる
虫の羽音が耳元で飛ぶのは気が散るが、流石にここまで巨体の音だと逆に開き直れた。
うるさいのはうるさいけど。
そして、目が覚めて夕方になった頃には蜻蛉竜はどこかに行っていた。
「あぁ! 嘘でしょ!? 弟子くんこれ見てよ! 見逃したぁ!」
と師匠は割れ目を出てすぐの場所の地面を指さす。
そこには六つの小さな足跡があった。