蜘蛛竜―アラクネリア―
素肌の手先がネバネバを実感して気持ち悪い。
それ以外は服越しの感触のみでどういう状況かは見えないが、あまり想像したくない。
昔テレビで「トリモチ」と言うものを見たことがあるが、多分アレに近いものだろう。それが自身の背面にびっしりこびりついていると思う。
「失敗したな」
師匠の指示を無視して、はぐれてもじっとしなかった結果がこれだ。
樹海の窪地に蹴躓き、枯れ葉の山に倒れこんだと思ったら、そこに隠されていた粘性の罠に引っかかってしまった。仰向けに張り付け状態で捕らえられ、身動きが全く取れない。
間違いなく竜種の仕業だろう。
今更とは思いながらも、じっとして体力の温存に努めて早三十分。窪地の外から何かの気配が迫ってきた。
カサカサと枯れ葉同士が擦れ合う音が少しずつ近づき、苔むした倒木から覗き込むように見下ろす赤い左右四つずつ、合計八つの紅玉と目があった。
赤いそれは竜の目だった。
クカカカカカカッ
という喉で空気を破裂させたような鳴き声と共に、白い体毛に覆われたソレが身動きの取れない俺に大口を開けてにじり寄る。
前脚、後脚の間にある蟲竜特有の副脚を合わせた六脚に加えて、鋭い爪先を持つ二本の尾の合計八肢。
これが師匠の言っていた「蜘蛛竜」か。
蜘蛛竜は顔の大きさだけで2mはゆうにある巨体にも関わらず、足音を立てずに木の葉の山の上を歩き、俺を捕らえた粘液を意にも介した様子もなく俺の眼前に来て、大きな口を開けて――
「……ヤバっ」
――俺を丸呑みにした。
周囲の粘液や枯れ葉ごと頬張られ、蜘蛛竜の口内を転がされる状況。完全に光の無いそこでは、全身の感覚だけが頼りだった。
圧迫感はなく、歯らしき硬いものの感触も感じない。
恐らく唾液らしいヌメヌメの液体と、手で押すと沈み込むような口内の肉の感触。
「これって食われてるのかな」
それにしては飲み込まれる気配もなく、イメージで言うと飴を舐めているような感覚なのかもしれない。
その飴は今の俺であり、飴はそのうち溶けるものだが。
どっちにしろ、流石に命の保証はないな、と覚悟を決めた時に、柔らかい地面(恐らく舌)が顫動して蜘蛛竜の口内から外に放り出された。
「うばぅ!」
自分でも酷い奇声を上げたものだと思う。
「弟子くん、生きてる?」
半ば地面に叩きつけられた痛みと、数刻ぶりの太陽光を全身で感じつつ、地面に寝転んだまま、その声の主を見上げる。
「食い殺されるかと思いました」
「この子が空腹じゃなくて助かったね」
「あと全身がベタベタします」
「蜘蛛竜の糸が唾液で溶けてるからね」
乾燥すればまた粘着力が復活するらしいので、師匠に手渡されたタオルで全身を拭く。
「お前……師匠と一緒にいたのか」
「がるる?」
粘液で使い物にならなくなったタオルを燃やして遊んでいる火竜の雛は、不思議そうに首を傾げる
俺のそばで鼻を数度すんすんと鳴らすと、ふらっと師匠の頭の上に飛んでいった。
俺も同じように自分の服の匂いを嗅ぎ、しばらく口呼吸に専念する事を決める。
「ありがとね、うちの弟子くん連れてきてくれて」
蜘蛛竜の毛並みを整えるように優しく前脚を撫でる師匠。それがどうも気持ちいいらしく、蜘蛛竜は
クカカカカカカッ
というさっきも聞いた破裂音を発しながら、大人しく撫でられている。
「……喜んでるんですか?」
「うん、笑ってるね」
笑っている……俺を食った時も笑っていたのかコイツ。
まぶたも瞳孔もない八つの真紅の眼は真っ直ぐ前を向いていて、表情というものを読み取ることは俺には全くできない。
「この子はね、罠で他の動物を捕まえて遊ぶのが好きなの」
「遊び、なんですか?」
本来の蜘蛛の罠は捕食のための行為のはずだが、コイツにとってはそうではないらしい。
実際に、俺は食われずにいるのがその証拠だろう。
「そ、遊び。捕まえて逃して、また巧妙な罠を作る」
「人間のバスフィッシングみたいな話ですね」
「言い得て妙ね。たまーに運の悪い子が食べられる所とかそっくり」
やっぱり、たまに食べられているのか……。
「そのかわりと言っちゃなんだけど、この森の動物は人間の罠には全く掛からない、猟師泣かせで有名なんだって」
「蜘蛛竜の罠で勉強してるってことですか」
「そうかもね……ごめんね、ちょっとだけだから」
師匠は持ち込んだバッグから取り出したハサミで蜘蛛竜の体毛を切り取り、小さなガラスビンに入れて蓋をした。
「弟子くん。ほら、君は唾液を採集して」
そう言って師匠が放り投げてきた空のビンを両手で受け取る。
「唾液……」
「がる?」
その唾液まみれだった体を拭いたタオルは、既に足元の仔竜によって消し炭にされていた。
「ガル……タオルを燃やして遊ぶ癖は治そうな」
「がるる」
そっぽを向かれた。
「はぁ……」
一度大きくため息をつき、俺も蜘蛛竜の元、その顔の前に近づく。
観察してみるが、しっかりと閉じている口の周りには唾液は垂れたりはしていない。
「悪いんだけどさー、口開けてくれないか?」
クククク
と喉を鳴らしながら蜘蛛竜の首が微かにうつむき、俺を八つ目の正面に捉える。
改めて見ると、それらはルビーの宝石が埋め込まれているようで、樹海の木々の隙間から漏れる微かな光を受けて美しく輝いていた。
クカカカカカカ
蜘蛛竜は笑って大口を開けた。
そしてまた、俺を口の中に丸呑みにした。
「なんでだよ……」
今度はすぐにその場で吐き出され、お陰で唾液はビンたっぷりに詰め込んだのだが、俺の全身はまたベタベタにされた。