鯉竜―スミゾメニシキ―
「来ませんね……」
「そうだねぇ……」
湖のほとりにテントを張り、夜明け前から水面を睨み続けること六時間が経過していた。
「お、ブルーギル」
師匠はウキの沈むタイミングに合わせて竿を一思いにしならせて、魚を釣り上げる。
リールも無しに器用なものだ。
師匠はそのまま、針から外した魚を背後の水の入ったバケツに入れ、餌を付け直して再度水面に投擲する。
「魚は、結構釣れるんですね」
「私もちょっと楽しくなってきたよ」
もちろん、今日の目的は魚釣りではなく、竜だ。というか、釣りは暇つぶしでしかない。
「弟子くんは何やってんの?」
「風景のスケッチを」
ちょうど湖の水面と、その奥に聳える雪被りの山がいい塩梅の絵になりそうだったので、練習がてらずっと鉛筆をスケッチブックで滑らせていた。
その結果、手はもう真っ黒だ。
「あとで見せてね」
「……あんまり見せたくないです」
竜の絵と違い、こっちは研究とは全く関係の無い、いわば俺の最近の趣味みたいなものなので、恥ずかしさもひとしおに増す。
「ああ、そういえばさ、鯉のぼり飾るの、忘れてたね」
「鯉のぼりって……あの家、あったんですか?」
「小さいのだけどねー」
まあ、もう端午の節句はもう終わってるけど。
そんな会話に触発されて毎年、爺ちゃんが立派な黒い鯉のぼりを庭先に吊るしていたことを思い出す。今のご時世珍しいってことで近所の子供がよく見に来ていた。
「そう言えば、鯉の滝登りって逸話ありますよね」
「ああ、登竜門ってやつ?」
「あれって、もしかして本当だったりします?」
竜学者に弟子入りして色々と学ぶ中で、神話や民間伝承の中のいくつかは竜が関与する真実だったりしたことがあった。ツチノコの実物とか、巨大蟹の神話とか。
鯉の滝登りと言えば、直接竜に関する逸話だ、その可能性は高いとおもったのだが。
「アレはデマだよ」
あっさりと否定された。
「竜の成長は数年単位で緩やかだし、竜じゃないものが竜になるってことも無いからね」
「ちょっと残念です」
「はははっ、仮にただの鯉が本当に竜になったら私の研究全部一からやり直しだよ」
それはそれで面白そうだけど。と師匠は付け加える。
「ちなみに鯉竜って滝、上ります?」
「……登るのかな?」
どうやら師匠も知らないらしい。
「今度魚竜の専門家にちょっと色々聞いてみようかな……でも淡水に住んでる子は多くないから、環境的に実現できそうなのは……」
好奇心の扉を開いてしまったらしい。
ぶつぶつと小声で今後の計画をまとめているらしい師匠の手元の釣り竿がピクピクと震えている。
「師匠、かかってますよ?」
「過去の論文にもしかしたら同じようなことを考えてる人がいるかも……となるとアジア圏、中国か日本の竜学者か」
「ししょー?」
ダメだ。全く反応しない。
このままだと竿を持っていかれかねない。というわけで自信は無いが師匠の力の抜けた両手から竿を抜き取って握りしめる。
「せーのっ!」
と見様見真似で竿をしならせて勢いよく振ってみる。が一向に魚は上がってこない。
「失敗したかな? もう一回!」
と声を出してみるが結果は変わらず。
というか、さっきより重くなっている気がするし、糸もピンと張ったまま動かない。魚が食ってるならもっと左右に振られるものなのでは無いだろうか。
「根がかりしてるんじゃ……っ!」
一旦糸を緩めようと竿先を下ろした瞬間、竿ごと全身を湖に引き摺り込まれた
「あっ! ぐっ…っ?!」
「弟子くん!!」
水面に頭に先が沈む直前に師匠の悲痛な声が聞こえた。
まずいな、今日はライフジャケットも着て無いし、そもそも着衣で泳ぐのも俺は出来ない。
いきなりのことだったので肺の中の空気の蓄えも不十分だ。
『焦らない、慌てないこれから危ない目にあった時はこれを思い出して』
これは師匠と共に初めて竜の調査に行った時の教え。
『まずは諦めずに、自分が助かるために必要なことを考えて』
必要なのは酸素だ。となればまず一度水面に顔を出す。そのためには水面の向きをはっきりとさせないと。
目が沁みる事も覚悟の上でゆっくりと目を水中で開き、ぼやけた視界で光を探す。
うん、水面の位置はわかった。
竿は既に手放しているから後はそっちに向かうだけ。
『あとは……』
だが、水を吸った服が重く、少し手を掻いた程度では沈むスピードの方が上回る。
それでも少しでもその場にとどまれるように必死に手足をバタつかせる。
『私を信じて。ちゃんと守ってあげるから』
曇りガラス越しに見るように水の中はボヤけてよく見えないけど。
俺に向かって手を伸ばしている人がいることは、よくわかった。
その手を掴み。少し気が抜けて、顔を下すと、水底に黒い暗闇よりも黒い姿が見えた。胸ビレ、足ヒレ、そして短い尾。ワニのように大きな口をガバッと開けたそいつ。
「墨染めの錦……か」
視界がぼやけているからか、その姿は水に漂う墨汁のように見えた。
「はぁ……はぁ……」
「弟子くん、大丈夫? 水飲んでたらたちゃんと吐き出してね」
「大丈夫です……」
引き上げられた俺は湖畔の砂利の上で横たわっていた。まずは酸素を肺いっぱいに取り込んで少しだけ咳き込む。
「でも……」
「体、どこかおかしい?」
「すこしだけ、疲れました」
俺は全身の力を抜いて、目を閉じる。水中で目を開けたせいでまだ少し痛い。
「……何してるんですか」
「膝枕」
師匠は俺の水気を絞るように俺の髪に指を通す。
恥ずかしい、けど。反発する体力は無いし、助けられたのも事実だ。
「ごめんね、私がぼーっとしちゃって」
「勝手に師匠の竿掴んだのは俺ですよ?」
「保護者責任ってやつ。だから、弟子くんは悪く無いよ」
保護者、か。間違ってはいない。いないんだけど、その言葉が何と無く嫌な気分になるのは、俺がお子様って事だろう。
「あ、そうだ。鯉竜、見ました」
「どんな風に、見えた?」
「そうですね……」
妙に頭にこびりついたその姿が俺に与えた印象を漫然と言葉に変える。
「スケッチ、しやすそうな色でした」