硫黄竜―アズロサルファ―
「コラ、大人しく洗われろ」
「がるぅ!」
タライに張ったお湯の中で暴れるガルを左手で抑え付け、もう一方の手で握ったブラシで背中を擦っていく。
そして水もブラシもみるみるうちに黒く染まっていき、それとは相反するようにガルの体は黒から薄い赤みがかった色に変わっていく。
「……あぁ、疲れた」
「がるるる」
「だってお前の脱皮跡のせいで部屋中煤だらけなんだよ……」
まあ火竜であるこいつが水を嫌がるのは自然な気もするが、それはそれ、これはこれだ。できれば慣れて欲しい。
「大きくなったらどうするんだよ……」
「おーい弟子くん! って、派手に暴れたねぇ……」
風呂場に俺を探しに来たらしい師匠は黒くなった水があたり一面に飛び散る惨状を見て笑う。
「夜までには片付けはちゃんとしておきます」
「あー、大丈夫大丈夫、昼から出かけるからそのままにして準備して」
「了解です……今日はどこに?」
師匠が急に言うのはもう慣れた。
「んー、そうだね。ちょうどいいから、水着も用意しておいで」
「海か川ですか」
「ううん、ついでに温泉に行こう!」
温泉に竜がいるのか……?
言われた通りの準備を終えて、家から出ると、ちょうどそこには一匹の竜がいた。
鮮やかな黄色の結晶で作られた甲羅を持ち、おっとりとした顔つきの四足の竜。全身からも黄色い粉を吹いており、自然界ではよく目立ちそうな見た目をしている。
「琥珀……とかトパーズですか?」
何と無くだが元素竜であることは察しがつくが黄色い鉱物はあまりイメージが湧かない。
「硫黄だよ」
「硫黄……って卵の腐った匂いってやつですか?」
「アレは正確には硫黄じゃなくて硫化水素の匂いらしいけど、ま、その硫黄。硫黄竜」
硫黄といえば温泉のイメージではあるが……家の前に既に竜がいるのはどう言うことだろう。
そう思っていると風を切るプロペラの音が聞こえた。
「……え?」
上を見上げれば、そこには巨大なコンテナを釣るした2枚羽の輸送ヘリ。自衛隊のニュース映像でたまに見るやつがいた。
「し、師匠! なんですかあのヘリ!?」
「今日はね、この子の里帰りなの!」
ヘリで里帰りとは……竜のスケールはデカい……。
硫黄竜は驚くほど大人しくコンテナの中に自ら入っていき、続いて俺と師匠もヘリの中に乗り込んだ。
「あ、アンドレさん。お久しぶりです」
「……オイ、愛弟子に今回の輸送の説明をしたのはいつだ?」
「今朝だけど」
「……少年、こいつの弟子は辞めてうちのゼミに来ないか?」
結構マジで心配そうに言われた。
「あの硫黄竜は元はイタリアの鉱山に住んでいたんだが、人間の硫黄採掘の流れそこにまで及んだ結果、この保護区へと移住させられてたんだ」
さすがにアンドレさんもヘリは運転できないそうで、一緒に後部座席に座る彼から今回の説明を受ける
「それで、この度閉山した山の権利をなんとかウチの研究機関が買い取れてね、数十年ぶりの里帰りというわけさ」
「なるほど……大体わかりました」
「顔が真っ青だが、大丈夫かい?」
「いえ、乗り物酔いはいつものことなので……」
リュックには常にエチケット袋と酔い止め薬を常備するようになった。
「で、そっちはいつまで拗ねているんだい?」
「男の子どーしで仲良くどーぞー」
アンドレさんが言うように一目で拗ねているとわかる態度で窓から外を眺めている師匠。
「俺は別に師匠の弟子辞める気は……っむ」
「じゃあそうさせてもらおう」
言いかけた口を遮られ、アンドレさんが小さく耳打ちする
「あまり甘やかさない方がいいよ。昔から厳しくするとちゃんと改善するタイプだからね」
「アンドレさんと師匠ってどういう関係なんですか?」
特に他意は無いつもりだったが、少しストレート過ぎたかなと口に出した後に後悔したが、帰ってきた答えは思ったよりあっさりしていた。
「学生時代の腐れ縁」
目的地につき、すぐにでも外の空気を吸って酔いを醒したかったのだが、師匠にポイと見覚えのあるガスマスクを手渡された。
「硫化水素が濃いからね。ちゃんとつけて出るんだよ」
「了解です……」
新鮮な空気を吸えるのはしばらく先の事らしい。
「少年、その年で随分と手際が良いね」
「結構着ける機会あったので」
「……んー、まあ良し悪しは僕が口を出す事じゃ無いかぁ」
「?」
アンドレさんが何を言いたいのか気にはなったが、乗り物酔いの気持ち悪さが勝り浅い呼吸を繰り返して吐き気を抑えることに集中した。
「ヨシヨシ。ほんと君は良い子だねぇ」
師匠はそう言いながら硫黄竜の頭を撫でてコンテナの外に誘導する。亀に似た外見同様のそのそとした歩みの彼は大きく深呼吸をした。
人間にとっては毒になり得る硫化水素も硫黄の竜には何よりも美味しい故郷の空気。と言うことか。
「じゃ、最後にちょっとだけ失礼しますね」
と師匠は小さなナイフで硫黄竜の背中の黄色い甲羅を削り小瓶に収めた。
「あと何年くらいかな?」
アンドレさんはビンを軽く振ってその中の黄色い欠片を見つめる師匠に問いかけた。
「んー、私達の代は大丈夫そう。かな?」
「そうか、それは良かった」
その質問と答えの意味は俺にはよく分からなかった。
きっと聞けばどちらも答えてくれるだろう。だけど、今それを聞くのはなんとなく、嫌だった
「んー、さってと。弟子くんせっかくのイタリアだし温泉入って行こうね! 混浴だから一緒に入ろっか」
「ああ、だから水着を容易させたんですね」
「……赤くなるとか恥ずかしがるとかそう言うの無いのー? 弟子くん可愛く無いぞー」
いや、師匠はもう半分くらい保護者とか姉の枠なので。
「じゃあ僕も一緒に行こうかな。君達の国には『裸の付き合い』と言う言葉があると聞いたしね」
「弟子くんに変なことしないでよねぇ」
「君が言うな」
腐れ縁かぁ……そういえば、俺と同じくらいの歳の竜学者見習いって、他にもいるのだろうか。
そんなことをなんとなく思った。