蟹竜―カルキノス―
「…………」
「…………」
プクプクと口の周りに細かい泡沫を付けているその姿は、サンタクロースのコスプレを彷彿とさせる。
今まで出会ってきた竜と比べても特に平面の顔をしているから余計に。
俺は砂浜に腹這いに寝ている蟹竜と見つめ合っていた。
肌質は俺の知る蟹の硬質な外骨格とほとんど一緒だ。だが、その全体像はかなり変わっている。
全体のシルエットを一言で言うなら、カマキリが一番近い、カマの代わりにハサミがあるのだが。
腹に当たる部分からは四つの脚が地面に伸び、そこから胴と頭が一体化したような寸詰まりの体から巨大なハサミ
「……師匠ー!」
俺はそんな蟹竜の頭の上にデッキブラシを片手に乗っている師匠に声をかける。
「なにー?」
「蟹竜って、もしかして。蟲竜ですか?」
「あー? うん、そだよー副脚あるでしょ?」
竜の分類ってたまにちょっと大雑把過ぎないか、と思う時がある。脚が6本超えると問答無用で蟲なのだ。
「蛸竜とかどうなってるんだろ……」
「さー、それは見つけてみてのお楽しみだねぇ」
俺の呟きが聞こえていたらしい師匠が蟹竜の頭の上からぴょんと飛び降りた。砂浜が数センチ師匠の素足を飲み込んで衝撃を和らげている。
「ところで、なにやってたんですか?」
「共同研究だよ」
そう言ってデッキブラシを肩に担いだ師匠のもう一方の手には小さなビデオカメラが収まっていた。
「弟子くんってさ。神話に詳しかったりする?」
蟹竜が寝そべっている砂浜を離れ、車の一切通る気配の無い海沿いの車道を歩きながら、師匠はそんな質問をしてきた。
「最近、ちょっと勉強してます」
「ほうほう、そりゃまたなんで?」
「竜の名前って神話から取ってるの、結構あるじゃ無いですか? 知っておいた方がいい気がしたんです」
あと、師匠からお下がりで貰った大量の本の中に神話関係の書籍が結構あったからでもある。
「うんうん。自主的に学んでて感心感心」
師匠は得意げに頷く。
「弟子くんの言う通り、竜の名前を神話からつける人は結構多いね。例えば、さっきの蟹竜の名前、『カルキノス』も神話から取られているんだ」
「カルキノス……それはまだ知らない名前です」
「ふふっ、そっか。じゃあちょうどいい。色々教えてもらうか」
「誰にです?」
「その名前をつけた人に」
師匠に連れられて訪れた小さな一軒家、師匠が乱暴に鍵の掛かっていない扉を押し開けた。
「やっほー、元気?」
玄関を開けるとすぐに大量の書物や紙が散らばったリビングがありその奥のベッドには上半身を起こしている白髪の老人がいた
「騒がしい……もっと静かに入れないのか」
「お小言を言えるくらいには元気そうで安心した。いつものヤツ持ってきたよ」
師匠は老人の返事を得るより先にリビングに土足で上がり、自身のバッグから取り出した機械を部屋の壁にかかったモニターに繋げていく。
「いつのまに子守まで始めたのやら」
「その子は私の弟子だから虐めたら怒るよ?」
「お前に弟子? なんの冗談だか……」
老人は不機嫌そうに師匠と話している。俺はその輪には入れそうになかったのでなんとなく足元の資料や壁にかかった額縁などに目を向けることにした。
「蟹竜のスケッチ……だけど……」
先程実際に見た姿と少し違う。
なんていうか……チグハグだ。あるスケッチでは顔はそっくりなのだが脚の形が蜘蛛竜のようだし、あるスケッチではハサミが小さかったり、エビに似たシルエットになっていたり。
「まるで、想像だけで描いたみたいな……」
「ふんっ。目ざといガキだな」
「あ、ごめんなさい。勝手に見て」
老人の視線がいつのまにか俺に向いていることに気づき、頭を下げた。
老人はそれで一応納得してくれたのか、またふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「接続終わったよ。椅子借りるねー」
「勝手にしろ」
そして師匠は壁際で資料置き場になっている椅子を二脚動かしてモニターの前に並べた。
しかし画面はまだ薄暗く、スピーカーからもゴボゴボとノイズのような音が聞こえるだけ。
「んー、今回もハズレかな?」
「いや。止めろ」
老人が顎に片手を置いて真剣な表情で画面を指差し、師匠は言われた通りに映像を一時停止する。
「明度をあげろ」
「さっすがまだまだ老眼じゃ無いねぇ」
画面が少し白み、画面の下半分に特徴的な見覚えのある模様が映った。
「これ、蟹竜の外殻ですよね」
「そそっ、頭の上に取り付けてたカメラの映像」
「なるほど。さっきはソレを取り外してたんですね」
じゃあ師匠の用事は録画されていた映像のデータをこの老人に届けることだったわけだ。
「っち、全体像は見えないか……」
「でも、確かに……いるね」
二人が視線を向ける画面の中心。そこには巨大な触手の先のようなものがかろうじて見えた。
「アレって……竜ですか?」
「そっ。ヒュドラ。だよね、お爺ちゃん?」
「まだ、違うだろう?」
まだ? とはどういう意味だろう?
老人の家から出て、また海岸に寝そべる蟹竜の頭部に今度は俺も一緒に登ってカメラを取り付けるのを手伝っていた。
「弟子くんはヒュドラのお話って知ってる?」
「ヘラクレスに負けた怪物ですよね」
「じゃあ、かに座のお話は?」
「確か……ヒュドラ退治の時にヘラクレスに踏み潰された?」
「その大蟹の名前がカルキノス。親友のヒュドラを守ろうとした優しい怪物で、蟹竜の学名」
師匠は防水カメラを蟹竜の頭に取り付ける。
「ヒュドラ……ギリシャ神話が本当の話だった?」
「あのお爺ちゃんはそう考えてる。だから『ヒュドラ』を探してる」
「なるほど……」
アレ?
「でも見つけた竜がヒュドラって名前とは限りませんよね?」
「竜の名前はね。発見者が勝手に付けていいって決まりなの」
やっぱり竜学者は大雑把すぎると思う。
「竜学者の夢と目標の一つだね。名前をつけるっていうのはさ」
「師匠は付けたこと、あるんですか?」
師匠はニヤリと笑う
「うん、あるよ。一種類……と言うか一匹だけだけど。いつか、君に改めて紹介しないとね」
師匠が名付けた竜にいつか会ってみたいと思った。