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飯の種

作者: Coke!


 忘れたものたくさんあるんだ。今となっては記憶のカケラだけで、とにかく、もう、僕は過去の僕じゃない。古い映写機みたいなものでくるくる回せたら良かったのに。

 僕は宙を浮かんでいた。端的に言えば跳ね飛ばされていた。黒のフォルクスワーゲン。ナンバーは品川。それだけわかっていたら充分なものだ。あとは運転手の助けが来るのを待つだけだ。

 黒のフォルクスワーゲンは一度止まって、また進んでしまった。ウソだろ。僕は立ち上がろうとする。優しい看護婦に、包帯でぐるぐる巻きにさせられるのすら許されないのか。

背骨が軋む。激痛、吐き気が押し寄せる。県道の脇道、人は人っ子一人通らぬ宵闇時。田園を飛び回るカラスが森へと帰ろうとする間。「おーい」田園の中、僕の小さい声。

 涙がでる。痛みもそうだし、こんな所に野ざらしになっている自分の惨めさに。携帯は持ち合わせていない。たまにはジョギングもいいものかと走り始めたのが良くなかったかな。けど、どうして人は助けてくれない。僕を見捨てた運転手、僕はあなたのことをこんなにも必要としているのに。僕をこんなにして素知らぬふりを決め込む。

 数分後に一台の真っ青なプリウスが止まる。血の気が失せた色だ。「おーい」、今度血生臭い息を吐いたとき、車のライトが切り替わった。

 運転席が開く。するとトレンチコートを着た女性が降りた。コツコツ、鶏みたいな早足。ハイヒールで車を運転していたのは許すことにしよう。女は言う。

「死に損ないじゃない」

 決して言いたい。僕は死にたがりではない。

「助けてくれませんか?」

 血でにちゃにちゃする口で僕は答えを求める。まるで地獄の底に垂れ下がった一本の糸。結末は考えないようにする。

「いいわよ。ちょっと待っててね」

 そう言う女性は片手に持ったブランデーを煽りながら、トランクの方へ行った。

 戻ってきた時にはガソリンタンクを持ってライターを手にしていた。

「今、楽にしてあげる」

 短い切り込みを入れた女性の笑みはスタイリッシュで、月夜の明るみに映えて美しかった。群れから逸れた狼が低く微笑っていた。妖艶な笑みだ。はっきり言って一目惚れだった。

「いや、救急車を呼んで欲しい」

 すると女性の顔が難しい顔をした。そしてブランデーを掲げる。ちゃぷんと音を立てていたが残りの残量は半分を切っていただろう。

「飲酒運転がバレるからヤダ」

「そっちの問題か」

 声を絞るようにして喋ったときアスファルトに着いた指先に力が入れる。立ち上がろとするが頭が酩酊してるような状態だった。

 このままではトドメを刺される。

「どうしてガソリンタンクなんか持って」

ガソリンスタンドがない僻地を回るわけでもないだろうに。

 女はメビウスの極細タイプの一本に火をつける。タバコの煙がハイビームに照らされて露わになる。女の顔は悲しみに立ち消えてしまいそうだった。手を伸ばせていたら思わず頬を撫でていただろう。

「これから再婚した元旦那の家に行って、みんなでまとめて焼身自殺しようと思って」

「自殺の定義分かってます? あんたのしようとしていることは他殺だよ」

 家族の群れから追い出された雌狼は、短く舌打ちして唸っていたが、途端に顔を明るくさせる。

「包丁に変えるか。持ってきてて良かった」

「死因の違いではないよ」

 意識が薄らいでいくのは出血か、突飛な意見を聞いたせいか。

「じゃあどうしろって? 老衰になるまで待てと」

 雌狼はギロリと僕を睨む。

「方法はあるじゃないか、復讐ってわけじゃないけど、君にとっての安らぎは君が幸せになることなんじゃないか」

「はん!? 幸せって何よ。あったけど失ったからこうして絶望してるんじゃないの」

 怒りの言葉をウイスキーを喉に流し込んで雌狼はゲップした。

「何があったかは知らないけど俺なら君を手放さない」

「ははあん、さてはあんた助かりたくて必死だね」

 雌狼が激しく瓶を振るったせいで、瓶の中は大ウネリしていた。

「トドメを刺すのに、じゃあ、二度轢きしていくか。晴れて明日はニュースでコメンテーターがこのおぞましさを語る訳だ。元旦那家族を巻き込んで焼身自殺に飽き足らず水知らぬの男性を轢き逃げ。人生に荒れ狂った女の末路、その荒れ果てた生活とは」

「なら結婚を前提に付き合ってほしい。もし信用できないなら明日にでも婚姻届を持って行ってもいい」

 髪の毛を撫でながら雌狼は瓶の口先に唇を当てる。呑みこむべきか迷っているようだった。

「嘘だ。まあ、あんたのことよく知らないし。はっきり言ってどっちにしろ私にとっちゃどうでもいい。むしろ、こうなったら一人でも巻き添えよ。車の中の遺書にはあんたのことも書き足してあげるわ」

 雌狼が「ドは土葬のド〜♪」などと口ずさみながら車に向かうと、警察のパトカーの音がけたたましくこちらに向かってきていた。

 雌狼は慌てて車を動かそうとするがエンジンがかからない。そうこうする間に警察官が到着してしまった。

「大丈夫ですか。さきほどこちらでひき逃げしてしまったと通報があって」

「早く、救急車を」

 僕はすがりつくように右手を上げるが警察官の制服は掴めず空を切った。

「すぐに来ます。あなた、運転席に座ってますが、あなたが彼を轢いたのか? 運転席から降りてきなさい。早く」

 雌狼は一度深くため息をついて、それからゆっくりと降りてくる。酒瓶を持っていなかったが彼女の顔は赤ら顔だった。そしてツカツカと歩いてくる。

「お前飲んでるな? 酒気帯び運転か。逮捕する」

 雌狼の顔が一気に素面にもどった。これから車の中を検査すれば遺書やガソリンタンク、刃物が見つかることだろう。これでニュース番組は飯の種を一つ潰されたことになるだろう。

「だから、なん」

「違うんです。お巡りさん。この人は彼女でさっきまで僕を介抱してくれていたんです。運転は僕がしてたんです。空気が吸いたくて外に出たら」

「そっそんなわけは」

 警察官だってそんなことは信じようとはしてなかったが僕の状態が最優先だった。

 そして救急車の音がして、程なく僕は担架に乗せられる。そこで僕は目配せで彼女に乗れと合図する。

 雌狼は呆気に取られた表情をして乗り込んだ。

「本当だったろ。あとは上手く合わせろよ」

 僕はぎこちなく雌狼に微笑む。

「バカみたいだ。あんた頭打ちすぎ」

 そう言って彼女は僕の手を握る。冷たくなった手には心地よかった。

 それから病院にいる意識の端々には彼女がいた。だが完全に意識が戻った時には居なくなっていた。花瓶には花が差してあり、退院するまで彼女を待ったがついに現れることはなかった。

 でも、僕の日課は少し変わり朝のニュース番組をしっかりと観るようになった。今日も一家を巻き添えにした焼身自殺はない。

 彼女は今、幸せだろうか。例えそうでなかったとしても僕は嬉しい。






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