舳先の虜囚
船が空を飛ぶ。
単純な四角いだけの帆は研究が進んで様々、三角に縦に斜めに張られたように、盾板は鉄板の鎧を船も着るよう変わりゆく時代。舵輪なるものがテコで舵を動かして、外を見ながら船長が船を動かせた。人間は変わっていく流れにも、変わる人間は変わるし、変われない人間は変われないなりに生きてゆく。
小早船、関船、安宅船。軍船もまた多くが名を継いでいても、その形はやはり、時代とともに流れた御姿であり、面影はあまりにも薄くある。
めまぐるしい流れは、荒れる季節の嵐のごとくであり、種もまた何が残るかは、ときに完全な盲の中で探るしかないものである。誰の先も時を知らないだろう。
さて、犬っころの小僧は、今日も今日とて、時代の先端である飛び船の上で反骨を見せていた。だが水夫らにとっては、この手に終えない小僧のささやかな騒ぎもまた、日常に組み込まれ、笑い「まだやっておる、元気じゃ、元気じゃ」程度へとなっていた。で、小僧はどうしたかと言えばである。
一藤左衛門によって、舳先の厠へ閉じ込められた。罪状は一藤左衛門の握り飯を半分食ったことである。鼠みたいな罪と言えるだろう。
「少々子供ったらしく、ありませんかい、一藤左衛門殿。飯炊きも帆の連中も、人手が減ったと吐いていますがね」
苦笑する水夫の頭が言うように、一藤左衛門が基本的に小憎たらしいと考える小僧は意外にも好かれていた。犬猫の類に対する愛情ではあるが、言葉が通じないならば仕方がないと、逆に愛嬌になる。小僧が知れば憤慨する理由ではあろうが……。
「許してやればよろしいのでは」と問われることに、一藤左衛門の口はへの字に固く結ばれる。大変にご立腹であり、何故ならば小僧が盗んだ握り飯のタネは、一藤左衛門の好物である干し鮭の擂り身と醤油であったからだ。
水夫らは知るがゆえに、小僧に冷たすぎると口を開いていた。猫が主人の飯を盗んだからと、これを鞭打ち手打ちとすれば眉もしかめよう。
「小僧を、小僧を」との陳情に、一藤左衛門は遂に口だけでなく、へそまで曲げて種子島の手入れに入る。男が没頭するとき、これはもう引き篭もると同義なのである。水夫らは呆れながらも、各々の持ち場へと帰った。
実はのところ。
一藤左衛門も、俺はやりすぎたのではと気にかけていたりする。だが散々に言われれば、意固地にもなる。片目で、舳先の厠の扉を打つ釘を見ながら、もう片目で種子島の螺子を抜いた。外れた銃身、鉄の筒を歪めぬよう丁重に扱う。
小僧は厠に閉じ込めてからと言うもの、叫びも何もなく静かにあった。一藤左衛門は頭を振り乱し、軟弱な思考を放り投げた。一瞬でも、可哀想なことをしたか、と迷った。迷いを捨てたのだ。
施を切った鉄の筒に目を入れれば、煤の一つもない畝が螺旋を描き、反対側の丸い空が見えた。飛び船のない空は、まるで自身が翼で飛んでいるかのような浮遊感を錯覚させた。
戦でふと、全てを忘れたときに見上げた、血風から目を逸らしたときの空と同じ色をしていた。瞳が青く染まったかのように、しかし何度見ても手鏡の目は黒かった。だが、確かに一藤左衛門の目は空色に染まった。飛び船を遂には買わせ、空へと足の一歩を踏み出すことを見れば、並々ならぬ覚悟の染まりっぷり。
何故ならば。
空色の夢とは、一藤左衛門が初めて抱いた先であった。死よりも恐ろしい現実から逃れんとするために戦場で奮迅の働きを見せた。それは、あらゆる醜さの満ちた世界よりも多少はマシであると確かに感触していたからだ。
だが、初めてである。
空を見たとき、それが夢であると成って、一藤左衛門の瞳を青く、青く、澄ませて染めあげた。
「はぁ……」
大陸は海の彼方である。出兵で渡るまでは、一藤左衛門の世界は日本でしかなかった。野武士を返り討ちに殺し、農民から、さも武勇ありげな浪人として雑兵へ。そして俸禄を頂戴して食い扶持と名誉を築き、朝鮮で異人と戦えば土地が爆ぜた。種子島の士筒が、いかにそれを知らない者へ強くあるかを改めて認知した。高く面倒が数多いが、職人も随分と育ち、火薬も大増産で安くなった。今では、狩人でさえ持つに至る。大陸大名の藩が新たに開いているのは、火力の戦いと言えただろう。弱点であった、大筒でさえその数を増していると、一藤左衛門は思い出す。
時代とは、変わるものである。
大災害。
大地が空へ爆ぜて漂う世界が見えようと、されども一藤左衛門は、その光景が目に焼き付いている。あまりにも恐ろしいと思う一方では、空への道が開かれたと、空色の瞳が輝きを見つめていた。今も、まだ。
「右舷注意ー。浮島」
鉄の眼鏡の中に、災害から浮いたまま、漂流する島になったものが写り込んだ。
「小僧も少しは反省しただろう」
そんな言い訳を繰り返しながら、外したばかりの螺子をもう付け直す。厠の釘を抜いてやらねば。釘抜きを片手に、小僧を舳先から解放した一藤左衛門が小僧に噛みつかれるまで、刹那であった。
縄に掛けられた小僧が、一藤左衛門と同じように不機嫌な顔と同じような仕草をしている。お互い不本意だとでも言わんばかりだ。似ている、と水夫は影に笑っていた。陽に笑えば一藤左衛門の怒りに触れるからだ。
小僧は帆柱に縛られ、一藤左衛門が刀を片手に監視した。手にはくっきり歯型。
「お前の尻穴を武将連中に売ってもいいんだぞ、小僧。さぞや日々可愛がってくれるだろうに」
一藤左衛門、渾身の脅し文句で今を感謝しろと言うも、そも小僧に日本語はわからない。小僧の言葉も、一藤左衛門にはわからないのではあるが。悲しい言葉の擦れ違いである。
小僧は明国の人間ではないだろう。その程度の雰囲気は、一藤左衛門にもわかるのだ。朝鮮の人間でもない。乳の匂いが沁みた毛皮に衣服は、北の遊牧民族なのだ。かつてはモンゴル・ウルスという大帝国を築き上げた末裔も、今では北に追いやられていると聞く。古くは鎌倉の古武士どもとやりあった、世界の多くを支配した影は見る姿を失いつつある。小僧とともに襲撃してきた賊は、その一族に連なる種族なのかもだ。一藤左衛門はそのように考えていた。
働く水夫の中に異人一点だ。
いずれは、日本の人間だけが水夫ということがなくなるだろう。大きな船を持てば、そういうことになる。一藤左衛門は、その日が来ることへの備えとしても、小僧を重宝した。その日に向けた鍛錬である。
「ん?」
一藤左衛門が目を細める。空の端で妙な動きの点が動いた。小型の浮島か?だが確認できない。走り、縁へと張り付く。
「遠眼鏡!」
倉庫から投げ渡された遠眼鏡を覗いた。見張りが慌ただしく、手をかざして目に影を作る。
浮島のほぼ無い空だ。雲が多かった。白く飛んだ薄い青の空だ。沈みつつある太陽を背中に飛んでいる。一藤左衛門が何かを見たと思うたのは、右後方だ。千切れた雲の塊になって、巨大な影をいくつも作っている。何かを見つけるのは至難だろう。
「いかがなさいました」
「飛び馬、らしきもの」
「斥候ですかな」
「明軍か朝鮮軍残党か、あるいは単なる賊か……多少の飛び騎兵程度なら敵ではない。だが軍船となれば別だ。警戒を厳にせよ。それと種子島を用意だ。いつでも射られるよう火を作れるようにしておけ」
「御意」
遠眼鏡には、雲の山々が広がるばかりであった。無駄だろう。目を外して帆を見た。よく風を掴んでいた。
赤い太陽が沈み、深い夜が訪れる。小僧に飯を食わせていると、時折、指を食い千切られそうになる一藤左衛門だが、すでに慣れたことだ。
ガキンッ。
と、小僧の鋭い歯が空を噛み砕いた。
「お見事」
と、冷笑し見下す一藤左衛門は大人気ない。
篝火は、頭と尾に一つ。小さな明かりは存在を示す安全策だ。夜陰の中で影が浮かべば、いらぬ争いを招くこともある。ケチって最小の火ではあるが、良し悪しである。浅ましい連中の夜襲もしばしばであるからだ。
一藤左衛門は眠らない。医者の話では、頭が半個ずつ眠っておるのではないかとのこと。ぐーすかと眠る小僧の番も兼ねて、胸騒ぎには好都合ではある。しかし、これは一藤左衛門も悩みであった。
眠れる夜は、いったいどれほどの昔であるか数えることもできない。休むことも知らない眠れぬ夜の繰り返しとは、孤独なのである。
「うぷぷ……」
小僧が唇を震わせて寝息を立てた。殴り起こしてやろうかこのガキ、と、一藤左衛門が思ったかはわからないが、刀は抜かずとも拳骨は作られていた。小僧は縛られていてもよく寝ている。恐らくは、悪さばかりして家の柱にしょっちゅう縛られていたのだろう。一藤左衛門は、自分の予想は絶対に当たりだと思った。だが……よく寝ることは良いことだ。
「あくっ」
小僧ではない。誰だ、一藤左衛門が振り返るとき、そこには船底から登ってきた影が見張りの首を裂いていた瞬間だった。口に手を当てられ物音を立てさせず、喉を一文字に、骨まで到達しているだろうかというまでに深く斬っている。ボタボタ流れた血が、水夫の服に染みて足へと伝い溜まる。
「襲撃だ!出遭えぇい!!」
座り込んでいた尻をあげると同時に刃を煌めかせる。半月の光が雲を透かす夜であった。飛び船の進みによる風がバタバタとはためき、風下へと落ちる血の匂い。
賊は奇襲の失敗を悟った。哀れな水夫を、一藤左衛門へと投げ飛ばす。ザザッと血で滑る水夫の影に隠れ、軽業で賊が来た。中段の構え、刃を鋭く地に水平と寝かして突いてくる。最大の間合いで最小を狙う。一藤左衛門の左乳、肋骨の隙間に踊り入ろうとした凶刃はしかし、これは下から掬い上げられる。頭を下げ足腰を落とした一藤左衛門の刀が、下段から上段へと一閃し、遥か頭上の軌跡へと跳ねさせた。
重い。
「気をつけよ、只者ではない」
刃から感じた重みに、一藤左衛門は戦慄する。一合のみ。だが、鎧を着ていてもそうは感じない重みの感触に、賊を雑魚と斬ることは不可能と確信を持った。
「何者だ……」
太刀の感触は、明国軍という雰囲気ではない。これは、一藤左衛門の直感である。朝鮮の役で散々交えたものとは違う。飛び船の強い風の中で、じりり、草履が擦る。腹の底から息を吸うが、肩を揺らせない。肩は腕であり、腕は刃だ。背骨も足も腰も同様である。全身を弛緩し、されど気を張る。半月の光が照らす影は、剣圧を両肩へかけるが一藤左衛門は涼やかだ。
「今日、死ぬか?」
笑えない冗談である。だが、ならば、ならばこそ恥にすることができるだろうか。否、と一藤左衛門の両の脚、草履は船より浮かんだ。指一本程の空、瞬きで潰れる低空を跳ぶ。一藤左衛門の体重と加速が刃に全てかかる。
「!」
一閃にかければ良い。剣技とは幾つも問答を繰り返すものではない。賊が受けた。早い。だが、受けた剣ごと一藤左衛門は押し込む。猿のごとき叫びの一閃は、受けられてもまだ終わってはいない。ガギリ、押し負けた賊の刃の背が、そのまま賊の手首を外す。激痛の筈である。だが、力の抜けた腕はそのまま、残った手で決して剣を離すことなく後ろへ下がった。踏み込み、肩で当たり押し倒せば首も切れよう。だが、一歩を一藤左衛門は踏まない。
「うっ!」
賊が胸に手を入れた。そして刹那で何かを飛ばす。一藤左衛門の腕に刺さった。武器だ。傷そのものは大したことはない。だが真っ先に毒を警戒した。腕を刺した飛び道具を抜き、荒い傷から血を流させ、脇を、裂いた生地で縛る。
「ーー」
賊は何かを叫んだ。知らない言葉は、獣の声となんら変わりないが、それは意味のある言葉であり、慌てて武装を始めていた水夫を次々と何者かが襲う。船底から這い上がってきた連中があちこちから乗り込んできた。乱闘に叫びに剣がぶつかる音、火薬の匂いが混じる。
「ーー」
賊はさらに叫び、それに、小僧が応えた。賊は背後から登ってきた賊の仲間と合流する。そして指差した。その指は、帆柱に縛られている小僧を示していた。
真っ先に乗り込んできた賊が、空へと飛び降りる。追うことはできない。死兵になった二人が、一藤左衛門の前に立ち塞がった。切り結ぶが、二人となると厄介を極める。だが頼りない篝火から、光も増えた。火薬の匂い、瞬間、立ち重なる銃声が賊の群れを薙ぎ倒した。硝煙と火花が籠める。種子島の火縄が、火を噴いたのだ。胸を骨肉諸共区別なく砕き、背や胸を弾けさせた。頭部は完全に砕け散り、脳漿と骨片を撒き散らす。重い匁の鉛は鎧を貫くももであり、四肢を断つ破壊力は暴れた。これには腰を抜かしたのか、賊は一斉に飛び船より飛び降りる。
縁から見下ろせば、真下に船がいた。軍船に見える。空を飛ぶ軍船だ。黒く巨大な影であり、刹那、そのあちこちから火が灯った。慌てて首を下げた一藤左衛門は、直後の銃声と飛び出した鉛玉に目玉を貫かれることを躱す。
次に、恐る恐る顔を出して一藤左衛門が見たものは、どこまでも広がる平原の夜、暗い海だけであった。




