島が浮いた日
首を傾げた。
何年と飯炊きで船に乗っているが、海がおかしいと男は感じた。水を作るのに、海へ手を入れると、どこの海なのかわかるものだ。だが、この海はおかしい。遥か琉球の海でも、これほど熱いだろうか。まして今は、夏とはいえ、梅雨時である。それを抜きにしても異常な熱さだ。
熱湯のように、海が熱い。
おかしい。
確信に変わった。
波が慌て始める。風は止まっていた。海が震えた。天変地異の前触れかと、誰もの腰が浮く。だがそれでも、見ていた。何がおこるのかを、目を逸らさずに、見るために見ていた。
鮮やかな青が垂れた空が、太陽を透かしていた。
瀬戸の島々の一つが、天へと浮かぶ。
光るわけでも、神々の手が掬い上げたわけでもない。だというのに、島が根を切り離され、空へと浮かぶ。
瀑布と落ちる海が帰り、大波が白く迫る。折られた島の柱が腹を見せており、有史以来の大気の中へ露出した。
大離陸。
そう呼ばれる、陸地の浮かぶ現象は、理解不能という理解だけを残している。間違いだ。石高と表して国力の目安にされた稲作の表層が、流されていく。所領の大混乱は、開府直前の徳川幕府を呆気なく崩壊させた。
根ざしていた大地から、無理矢理に引き抜かれて変化させられた。方々に散った領土を取り戻さんと侍が東西を駆け回る。
戦国の世が戻ってくる。
誰もがそう勇み、天下を捨てた武士が立ち上がる。だが、時代は大きく動いた。
種子島の伝来が戦を変えたように、大離陸による表土の消失は、国力を失うこと以上の考えを作った。米による徴税から、商人の豊かさをより大きく組み込んだ。貨幣が価値を増した。そして国間の流通が優先された、統一貨幣は商人が取り決め、大名さえ呑まれた。
大小の浮いた岩や小石を土産に大枚を稼いだ者らが、それが浮かぶだけではないと気がつくのに時間はいらない。
馬が、矢が、船が、様々なものが空に浮かべられた。
地に縛られた大和の民の足から、鎖が解かれる。浮ついた足は、飛ぶ足へ。
多くの大地から切り離された大離陸の事件により、まさか全ての文明が滅びるなどありえず、新しい時代には、新しい適応した者らと世界が進退するだけなのである。
極端な振れ幅、しかし、全てを文化へ呑み込んだ。
世界は小さくなった。そして大きくも。
空は、虫と鳥の世界でしかなかった。だが今は、数多くの船が空へと昇る。巨大な夜を影とともに引き連れて、貧弱な海の子女は、空の女王へと羽化を果たす。
時にーー飛翔鉄船が空を支配する時代。
何故、飛ぶかも理解できず、だが空を従えた者らは、そこにいた。
海を渡るということは国を捨てること。そんな古い時代は過去である。飛翔鉄船が飛び交い、大陸へと渡ることは日常とかしている。
大離陸を間近で見た。
一藤左衛門は眼下に心を奪われた。今は、果てのない青臭さに満ちた大草原だ。地平というものが果てに見えた。成る程、遊牧民が莫大な馬を飼うというのは、このような土地が必要なのだ。眼下の緑に、日本では見られない広大さが胸へと染みる。
空飛ぶ関船、今風に言えばそれは飛翔鉄船の胸壁かくやの縁から見下ろす光景は気分が良くなる。一国一城というには細やかなものだが、飛び関船の一家を持つに至ったのは感無量であった。
一藤左衛門、生涯の夢と天に祈り、誓い、奔走した賜物の結実に落涙を偲ぶほどである。この男、国の重臣という地位を先祖代々の顔とともにつきながら、遂には愛想を尽かされたのか突いたのか、涙金とともに空へと逃げ参じた過去があって今に至る。かつては名だたる家臣の系譜、今は新時代気鋭に無謀の大馬鹿者、一藤左衛門。
男は、そういう日本人であった。
「……とはいえ、仕事、仕事」
愛船に格別な愛を持つのは苦労の汗と血結晶を考えれば当然のこと。されども過去ばかりを顧みようとも明日は見えない。一藤左衛門は、今日も積荷を運ぶ仕事を受けている。大陸親征軍への補給品である。載せるは慰問の甘味に食料、手紙に大は大砲、大鉄砲に火薬の樽がわんさかと!
と、言いたいところであり、丈を長く高く見せたいものであるが、いかんせん、一藤左衛門のお船は決して山のように巨大というわけでもなく。
遊覧歌謡と浮かぶ飛翔鉄船よりも、ささやかな積荷を蔵へ固く封しておいでだ。飛び関船とはそういうものだ。
「報告!浮き島ー!」
「嫌に多いじゃないか。航路の修正も大変だ」
「ちょい右寄せー、風を剥がさずな」
帆柱がギシッと軋み、風を孕んだ帆が向きを変える。
浮き島とは、大離陸で空へと上り、降りてこない土地である。飛翔鉄船の骨そのものであるが、中には屑、あるいは利用に適さないあれこれやなんやかんやで浮いたままだ。空中の障害物と、山や川と同じようなものだが、何せ、浮き島は風で流される厄介な代物。空を飛ぶ者は皆口を揃えて、厄介と言うことであろう。
「風を間違えるな。風下に入れば押し潰されるやも」
一藤左衛門は、浮き島から片時も目を逸らさずに言う。彼が仕事と、筆を滑らせる空図の端が握られている。くしゃり皺が寄り、まだ気がついてはいない。
固唾が飲まれ、浮き島に船の影が落ちる。何事も無し。浮き島は船の後方へと抜けて、去っていく。
「ふぅ」
誰かとも言わず吐かれた息。だが、影が割れた。はてな、と見る水夫は首をしげしげ傾げた。太陽を見上げたのはただ一人、一藤左衛門のみ。
「賊だ!」
叫ばれ戦国を生き抜いた者らの頭上からそれらは影を落とし現れる。
ある者が種子島、ある者が弓、ある者は盾の傘を広げ備えんと草履をバタバタ、乾いた船板の上で忙しく駆けた。
「野盗どもめ!」
浮き島の影より現れたおよそ十騎は、馬である。鐙と鞍を持ち、馬蹄を打たれた馬ではない。大離陸より後に生まれて飛翔天馬!空を駆けたる駿馬が逆さに懸かる姿を見る。積荷を狙う蛮族、屍を晒すべき悪党どもだ。
大鉄砲の火蓋にかけていた油紙を払う。既に火薬は押し固め、鉛玉も突いた状態だ。火縄に火種から火を移し、二、三、吹いてやればジジと硝煙を浸した麻縄が燻り燃える。火蓋を落とす。
士筒と比しても尚巨大な、ずらり並ぶ大鉄砲が一斉に火を吹いた。
轟く雷は風を震わせ、骨身を軋ませる衝撃と白煙をくゆらせる。一藤左衛門の肩がピリリと痛むが、骨はまだ付いている。
野盗は?
九騎は、大鉄砲の音に肝を潰し足を止め、そのまま逃げていく。だが一騎、足を止め、しかし、尚固執し蛮勇を見せんと再度駆けた者がいた。何という無策にして無謀、死にたがり!
「むっ」
決着がついたと油断した匹夫らは油断し、次いで混乱を見せた。弓も槍も種子島もありながらその先は点でバラバラ。蛮勇の野盗もこの醜態にはほくそ笑むことだろう。
「えぇい、頼りない!」
立てるのは、一藤左衛門のみ!
「太刀!」
刀持ちから太刀を抜き、背を肩へ乗せる。目は高く、顎を上げて見やる。巨影来たる、翼のない怪鳥、浮石を腹に抱いた馬が風を後ろに走り寄る。垂直と降る死兵、飛翔鉄船に当たれば血袋が弾けるは必至と言うのに、恐れずさらに一歩を加速に駆けて見せた。
「面白い!来いやー!」
意気は旺盛。無謀であろうとやれる男児は、そうはいまい。一藤左衛門も愚かと思う以上に、心底から賞賛している自分に気がつく。
発達した犬歯がギシギシと軋み、垂れた目が細まる。筋が弛緩し、張るその瞬間を今かとダラリ。逆光の影で見え難く、しかし見えていた。
来る。
来る。
来る。
騎馬の一当てなど喰らう馬鹿はいない。避けることが第一義である。だが、一藤左衛門の予想外がそこでは起きた。騎馬は空中でぐらり姿勢を崩し、馬は哀れ、慌てた急制動のままに叩きつけられてしまう。ごふしゃ、とでも言うべき人身が投げられたような血潮が一藤左衛門の衣服と肌を汚す。
か細い馬の息を見やれば、手綱を持つべき者が鞍にいた。いたが、気を失っている。指先から力を失っており、開かれた指から短い矢がカラリと落ちた。失神している。
「……ふん」
一藤左衛門は、「俺の目も腐ったか」と自問しながら戦利品を分捕った。船医に馬の治療をやらせる。死ななければそれが良いが、死んでも肉だ。
「俺がこれを貰うぞ。異論ないな」
一藤左衛門は元より、逃げた匹夫どもに渡す気もなく、それを馬鞍から剥がした。
仕事の合間の暇潰しができた。
一藤左衛門は時々考えが甘すぎる。水飴の思考を後悔するのは、この戦利品が目覚め、しおらしさを失う月日が経ってのことである。
異国の言葉、わけのわからない囀りを聞かせる、犬や猿よりも騒がしい動物の面倒だ。
「うっるさいぞ!」
何か抗議している、と言うことはわかる。お縄で縛って、逃げないように首に掛けている。どの道、飛翔鉄船から逃げるには身投げしかないが、一藤左衛門は身の程をわきまえさせる為に縄を掛けた。手足は自由だ。それを早くも後悔している男が、一藤左衛門である。
「ぐおぉ!腹、腹が割れる〜!」
一々手で持っていては邪魔だと、捕まえた奴隷とは縄で一つだ。奴隷の首と、一藤左衛門の腹である。一藤左衛門の腹に麻縄が食い込んだ。奴隷との綱引きだ。だが、誰も気にも掛けない。手前のものは手前が責任を持つべきものである。自分でどうにかしろ、と言うわけだ。
名前も言葉もわからない輩とともに、お互いの体力が尽きて、同じく、ぜーはーと息を荒げる。
キャンキャンと吠える様は犬のようであり、人目を盗んで寝首を掻くは猫のようである。鷲のように爪先鋭く、同じく瞳も鋭い。その力は鯨の尾の如きであり、一藤左衛門と同じく鋭い犬歯はやはり犬であった。
「こやつめッ!命があるだけありがたいと思え!ケツの穴を掘ってやろうかガキチクショウめ」
なお、一藤左衛門は衆道を嗜んではいない。
縄を手繰り、どさり、腰を据えた足の中で小僧の動きを封じる。走らせれば、腹を締め上げられるのは目に見えている。両の手と足を持って、この小僧を封してしまおうとの考えであった。だが、やはり黙ってはいない。ぎゃーぎゃーと暴れに暴れ、叫ぶに叫んだ。
だが、腹が減れば、喉が渇けば次第に威勢は弱まるもの。無駄に騒ぎ立てたこともあり、限界はあっさりと迎えていた。体力を食い潰した小僧は半日と保たず、ぐったりと魂が半分抜けている。
「まったく、軟弱極まれり」
ふん、と、一藤左衛門は鼻を鳴らす。飯炊きが寄越した握り飯を半分に割り、小僧の口へ捻じ込み、竹の水筒から湧く水で胃袋へと流し込んだ。ゲホゲホと小僧はむせるが、暴れるのならば仕方があるまい。
「食え、食え、これ、飲め、飲め」
一藤左衛門は身振りと、簡単な言葉で押した。小僧は、やっとのことで握り飯が自分に寄越されたものであると理解すると、モソモソと食べ始めた。
「猫よりはマシか」
猫どもは人間様の手に負えない、強かな鼠狩りの徒だ。気紛れであり、言うことなど一つとして聞かんというに、物の怪の魅力があるのだろう。それと比べれば、小僧の反抗など些かも取るに足らない程度のものであった。
膝の蔵の中で飯を食らう小僧を片目に、一藤左衛門も飯を食う。塩辛い飯には、干した肉が詰め込まれていた。
予想外に匹夫が増えた。それも、新しい一人は何の役にもたてない無駄飯くらいだ。立場としては積荷が近い。小僧は、小僧自身が価値だ。見てくれは良く、どこぞの奴隷としてはそれなりに売れるだろう。勿論、一藤左衛門が小僧を人買いに売ると考えていれば、だが。
「えぇい、暴れるな!どこの嘘吐きだ、平原の種族は、強い者に負ければ男も女も皆奴隷となる風習があるなどと」
小僧とは四六時中一緒だ。それは糞を垂れる時も、寝る時もである。
厠の為に舳先に連れて行けば、小僧は見られることを酷く嫌がる。そのあたり、一藤左衛門はそれなりに融通を利かせた。食わぬと飯を食べずに意固地な小僧へは、鼻を摘み、一藤左衛門の口移しで捩じ込んだ。食わねば死ぬ。水も同じだ。
死なせはせぬ。
すると不思議なもので、多少なりとも愛着が芽生えるものだ。もっともその反面では、油断することなく寝首の危険に気を張っている。
一藤左衛門は空の旅が、例え仕事とはいえ夢に噛んだ、不要な歯車とも言えるこの小僧によって不吉に軋む音を聞いている気がしてならない。仕事に手をつけられないもしばしばの暴れ馬を片手間に飼っている気分である。
世界は、岩が海流のように空を流れるような異界と変わろうとも、それを常識と変えるだけの弾力を秘めている。人はこれを利用するし、動植物も空を生活に組み入れている。
悩みも案外、世界が変わろうと変わりなくだ。
「あんぎゃっ!」
乳臭い小僧に手を噛まれた一藤左衛門の悲鳴が響いた。言葉も通じない小僧の犬歯が食い込んだ。分厚い皮ゆえ千切れはしないが、小僧はギリギリ鮫のごとく噛む。遂にキレた一藤左衛門。怒りの拳骨が頭に落ちた!
鐘を打つがごとき鈍い音だ。水夫らは、びくりと肩をすくめ、自らの仕事に益々の精を出す。戦場では侍をも殴り殺すことのあった一藤左衛門の拳骨だ。手加減はあった。だが、この小僧には余程効いたらしく、高々一撃で白く伸びた。
いかん、と一藤左衛門は手を小僧の口へ当てた。息はあった。緊張で張った肩が、ため息とほぐれた。
「……馬に座るわりに、やわい尻だな」
小僧の尻を撫でまわす一藤左衛門。普通、馬に乗っていれば尻の皮は厚くなる。だが、この小僧の尻は薄皮だ。女でも平原の種族は馬に乗ると聞く。一藤左衛門は首を傾げた。股の逸物も男児として哀れなまでに小さいのか、弄っても中々見つからない。こやつ、引ん剝いてやろうかと考えていたときである。
「……」
水夫が見ていた。




