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走ってきたのか、珍しくウィルフの息が上がっている。ここまで呼吸が乱れているなんて、初めて見た。
それでも、わたしは、もう大丈夫なのだという安心感が強くて、ウィルフの背中の、服の裾を思わず握る。でも、手が震えて、上手くつかめない。
「――っ、先輩。うちのに、何か、用ですか」
息を整えながら、ウィルフがベイカーさんに問う。ウィルフが壁になってくれているから、ベイカーさんの表情は全く分からないけれど、ウィルフが警戒を解いていない様子からして、あまりいい表情はしていないんだろう。
「そこをどけ、ウィルフ」
「断る」
ドン、とウィルフに突き飛ばされる。数歩、たたらを踏んでウィルフの方を見ると、ベイカーさんがウィルフに殴りかかっていた。力づくでも、わたしを、師匠への脅迫材料として手に入れるつもりのようだ。
「っ、身体強化〈ストフォール〉……!」
わたしは慌てて、自分に魔法をかける。加勢するつもりはないし、二人の戦いにその隙はないが、わたしを欲しているのはベイカーさんだけではない。まともに避けたり逃げたりできないままでは駄目だ。
わたしが逃げられさえすれば、ウィルフはウィルフでなんとかしてくれるはず。
「ティカー!」
短く名前を呼ばれた、ベイカーさんの隣にいた男が、わたしを捕まえようとこちらに近づいてくる。
「させるか……っ」
「――ぐっ!」
ウィルフがベイカーさんを、男――ティカーさんの方へと、投げ飛ばす。ベイカーさんは投げられながらも体制を整えていたが、巻き込まれたティカーさんは、それほど戦闘力がないようで、地面にふせったままだ。ただ、気を失った、ということではないようで、ゆっくりながらも、起き上がろうとしている。
「にげ――」
「マレ、ゼ」
ウィルフの声にかぶさるようにして、イナリの声で、フェネックもどきがわたしを呼ぶ。でも――こんなに、大きな声、だっけ?
地面から上半身を起こした状態のティカーさんの影から、フェネックもどきが姿を現す。
しかし、その様子は、異常だった。
パキ、パキ、と音を立てながら、フェネックが大きく、歪に変形していく。フェネックのような可愛らしい見た目など、もはやどこにも原型はない。
まさに魔物と言うべき生き物。
「な――、何で、こんなところにバードンが……ッ!」
ウィルフの焦る声。ベイカーさんの方に気を取られていて、ティカーさんの足元に隠れるようにしていた、あのフェネックもどきには気が付かなかったのだろう。
彼の様子からして、ペロディアみたいな、弱い愛玩の魔物ではないのが分かる。
「もう一度、言う。その女を渡せ、ウィルフ。俺には、俺たちには、そいつが必要なんだ。――……願いを、叶えてもらうために」
そう言うベイカーさんの背丈を、大きく超えるほどまでに、フェネックもどき、もとい、バードンは、成長していた。