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あの日見た個体とは、少し色味が違う。壁の距離を考えても、少し大きい。でも、まぎれもなく、『壁喰い』。別個体の、同じ種族だろう。
早く避難した方がいいのでは。壁が壊されたのなら、あの日のように、外にいる魔物が中に入ってきてしまうだろう。ここにいるわたしたちだって、普通に危ない。
それなのに、ベイカーさんたちは焦る様子もない。
まるで、こうなることを、知っていたかのように。
「――マレーゼ」
「イナ――ッ」
イナリの声が、背後から聞こえてくる。仕事は、と聞くより、安心感の方が強かった。
でも、振り返って、そこにイナリはいない。
いたのは、一匹のフェネックに近い生き物だった。
理解が追いつかない。でも、まぎれもなく、イナリの声は、その、フェネックもどきから出ていた。猫がニャアと鳴くように、犬がワンと吠えるように、そのフェネックもどきは、イナリの声でわたしの名前を呼んでいる。
「しゃべる、魔物……?」
そういう魔物がいると、イエリオから教えてもらったのは、いつだったか。
わたしは今日、イナリの姿を見ていない。ウィルフの忘れ物を届けてあげて、という声しか聴いていない。
一体、いつから――この魔物が、わたしの側にいたのだろうか。
「貴女の夫があの蛇種の患者だけじゃなくて助かったよ。彼、家に店を構えたんだろう? そんな相手の声を覚えさせたところで、すぐにおかしいと思われるだろうからね」
確かに、先ほど、ウィルフの忘れものを届けるように言った声がフィジャのものだったら、家を出るときに話が食い違って、違和感に気がつくことができただろう。
ベイカーさんの隣に立つ男が、「おいで」というと、フェネックもどきは、迷う素振りを見せないまま、彼の足元にすり寄っていく。
明らかに、飼いならされている。
「どうして、こんなこと……」
わたしがおびき出されたのは、もう、疑いようがない。
「お前を人質に、あの男にもう一度交渉するんだよ。あの男、お前を探すために、世界を滅ぼしたんだろう? なら、お前に危険が迫っているとなれば、俺たちの言うことも聞くだろう。……お前が、あの男が探していた女だと、もっと早く気が付けていれば……」
ベイカーさんの目に、迷いはない。彼は、彼らは一体、師匠に何を言われて、何を願って、協力をしていたのだろうか。
「――ッ、マレーゼ!」
ウィルフの焦ったような声。パッと手首にかかる圧が消えたかと思うと、一気に後ろへと引っ張られる。一瞬にして、視界が、ウィルフだけになった。
ウィルフの広い背中が、ベイカーさんから、わたしを守ってくれている。