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反射的に避けたつもりだったが、彼相手には無意味だったらしい。わたしは書類を持っている手の、手首をがっちりつかまれていた。
「あ、あの……」
封筒とはいえ、結構なサイズだし、手を握って支えないとしっかり受け取れないということはない。ましてや、わたしの腕を間違えてつかんだ、なんてこともないだろう。目が見えない人間じゃあるまいし。
怖くなって振りほどこうとしても、後ろに下がろうとしても、どちらも駄目。全然動かない。鍛えている体を持つ彼に敵うわけもない。多分、身体強化〈ストフォール 〉で不意をつくことはできても、その一瞬で逃げ切れるかは分からない。向こうは現役の民間警護団の団員で、副業で冒険者までやっているような人だ。彼がどのくらい強いかは知らないが、身体強化〈ストフォール〉は身体能力の底上げであり、最強になれるわけじゃない。
逃げるなら、絶対に一発で逃げ切らないといけない。
その、ほんの少しのタイミングをうかがっていると、「困るんだよ」とベイカーさんが言った。
「俺たちをたきつけておいて、『もういいよ』なんて勝手に下りやがって。俺たちはまだ、何も終わっちゃいないのに」
「な、何を……」
話が全く見えてこない。ただ分かるのは、ベイカーさんも、隣に立つ医者も、わたしに良くない感情を抱いていて、この場において、わたしを害そうとしているということだけだ。
「シャシカが辞めるのは好きにしたらいいさ。でも、首謀者であるあいつが逃げるのは違うだろ!」
「――ッ!」
手首を強く握られ、わたしは息を詰まらせる。このままだと、握りつぶされて、骨が折れるかもしれない。もしかしたら、このまま引っこ抜かれるか、ちぎり取られるかするんじゃないかと思うほど、強い力だった。
ただ――この言葉で、ベイカーさんが何に怒り、そしてそれをわたしにぶつけているのか分かった。
きっと、師匠が原因なのだ。
オカルさんやシャシカさんが師匠の協力者だったように、この二人も師匠と、何かしらの行動を共にしていたのだろう。
来る者拒まず、去る者追わず。
昔からそうで、本当は引き留めて欲しかった弟子や勘違いした女性とのいざこざなど、もめごとがたまにあったけれど、千年後のこんな未来でもやらかすとは思わなかった。
師匠を信じるなら、わたしだけは例外なのだろうが、あの人は本当に、他人に対して執着しない。だからこそ、他人から執着されるということを、理解できない。
手を切るならちゃんとしろ、と言いたいところだけれど、師匠にとっては、ちゃんとした結果がこれなのかもしれない。
「とにかく、一旦落ち着いてください……! 逃げないので、離して――ッ、折れる、折れ――」
――その瞬間。例えようのない轟音が、辺りに響いた。
どこから、なんて、探さなくとも分かる。
ベイカーさんの背後に見える、街を囲う壁の一部が崩壊していた。一部が下に落ちたのだろう、土煙が上がっているのが見える。
そして、その、崩壊した壁の一部から、『壁食い』の頭が、見えていた。