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無事に帰ってきてからは、毎日が平和だった。基本的にはフィジャのお店の手伝いをして、たまにイエリオの仕事に協力して。ハプニングと言えば、ウィルフが忘れ物をして彼の始業までに届けるために走ったり、リビングでスケッチブックに向かったまま寝落ちしたイナリを運ぶのに苦労したり、そのくらいのものである。
そんなある朝。
「――マレーゼ」
わたしが顔を洗っていると、背後から、イナリの声が聞こえてきた。わたしは水道を止め、手探りでタオルを探しながら、「どうしたの?」と返事をする。
「ウィルフが忘れ物したみたいだから、届けてくれる?」
ウィルフって、今日、というか昨日夜勤だったから、そろそろ帰ってくるんじゃなかったっけ? と思いながら、わたしは顔を拭く。まあ、でも、帰ってくる前に必要なものとかもあるか。その日に出さなきゃいけない書類とか。
ウィルフは冒険者生活が長かったからか、民間警護団に入ってから、提出書類をたびたび忘れている。冒険者時代は一切書類解かなくて、ギルドの受付で口頭の契約が多かったから、らしい。
勿論事前にちゃんと準備はしているんだけど、横に置いて身支度をしていると、十回に一回くらいは忘れてしまうようだった。意外と抜けているというか。封筒を持つ、という意識がないのかも。
だから、今回も多分、そんなところだろう。
「分かった、いいよ。フィジャに声かけて身支度したら、すぐに行く――、あれ?」
顔からタオルを離し、振り返ったが、そこには誰もいなかった。……あれ、確かにイナリの声だったよね?
リビングの方に行くと、テーブルに大きいサイズの封筒が一枚置かれている。多分、これを持っていけばいいのかな。
封筒を軽く透かして見ると、何やら書類が中に入っているのが分かった。うん、これで間違いないと思う。
それにしても、イナリ、いつの間に出て行ったんだろう。全然音がしなかった。
元冒険者なだけあって、気配を消すこともできるらしいけど、「今はもう必要ないでしょ」と言って、特段、身をひそめるようなことはしていない。
まあ、でも……仕事行くのに時間がなかったのかな? そういう時間帯だしね。出かける前に、一言声をかけていった、とか、そういうことかもしれない。
「いってらっしゃい、くらい言いたかったな……」
ぽつり、と思わずつぶやいた声が、思ったよりも拗ねたような声音になっていて、自分でも驚いてしまった。恥ずかしさに、誰もいないのに、ぱたぱたと手を振ってごまかしたのだった。