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「あ、あの、イエリオ……」
話すのにいいタイミングかもしれない、と声をかけたが、元々話すつもりじゃなかったから、何も考えていない。昨晩のフィジャ以上に、何も、だ。
失敗したな、と思ったときにはもう遅い。わたしの声はイエリオにしっかり届いていて、「どうかしましたか?」と首を傾げられた。
「え、えっと……この後、時間ある?」
とりあえず、話をするなら時間を取ってもらわないと、とわたしはイエリオに聞く。話す内容がまとまっていないので、半分以上、時間がないです、と断られるのを期待していたのだが、残念ながら暇らしい。
「ああ、掃除の手伝いですか? かまいませんよ」
そんなつもりはなかったのに、イエリオはひょいと雑巾も取って、完全に手伝う姿勢を見せてくる。
「どこを掃除するんですか?」
「え、えっと……窓、とか……? あとは棚の上、とか……」
なんとなく、暇つぶしに掃除しようかな、と思い立っただけなので、これといって、ここを掃除しよう、と強く決めたわけじゃない。
すぐに汚れそうな場所を適当に上げると、「では上の方は私が」とイエリオが言った。
確かに、身長が高いイエリオが手伝ってくれると高い位置は楽かもしれないけど……。でも、本当に手伝って貰うつもりはなかったのに、と思っても、既にイエリオは手伝うつもり満々なようなので、わたしはおとなしく手伝って貰うことにした。
あんまり突っぱねるようなことでもないし……。
リビングで窓拭きをしながら、わたしは頭の中で、イエリオに言う言葉を考えていた。掃除が終わって、一息つく流れで声をかけることが出来れば不自然じゃないな、と思うのだ。
昨日、フィジャに伝えたことをベースに、上手く話の道筋を作って、それで、ええと――。
「マレーゼさん」
「はいっ!?」
すっかり考え込んでしまったからか、急に名前を呼ばれて、大げさなくらい大きな声で返事をしてしまった。しかも不自然に裏返っている。
「……何かありました?」
イエリオはただ普通に話しかけたつもりだったんだろう。わたしが変な返事をしたからか、驚いたような顔をしている。
「な、なんでもない……」
わたしは笑って誤魔化した。全然なんでもなくない。話があるって言えばいいのに。でも、今の呼びかけで半分以上考えていたことがどこかへすっ飛んでいった。
「何かあったら遠慮なく言ってくださいよ? 力になりますから」
イエリオが軽くほほ笑みながら言ってくれる。その笑みに、ぐぅ、と変な声が出そうになるのを堪えて、わたしはイエリオに聞いた。
「う、うん。あ、で、えっと、何か用だった?」
呼んだからには何か用事があったんだろう。
「研究所の資料室からいくつか文献を探してきたので、解読できるものがあればしてほしいな、と思いまして」
「ああ、うん。いいよ」
いつものお願いだった。わたしは窓ふきに戻りながら、返事をする。
「昼ご飯食べたらやるよ。どんな奴?」
「――獣人と人の繁殖についての文献です」
いつも通りのお願いだったのに、予想もしない内容の文献に、びっくりして思い切り手に力が入る。
ぎゅきゅ、と、癖のある音が部屋に響いた。




