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それは一瞬のことだった。何か音がする、とそっちを向いたときには、もう遅かったのだ。
わたしが振り向くよりも速く、『何か』が駆けていて、それはウィルフさんとシャシカさんの方へ――。
「っ、え……」
『何か』がわたしの横を過ぎ去っていった、と認識して、ウィルフさんたちのほうを見れば、すでにことが終わっていて、理解が追い付かない。
『何か』は、ウィルフさんに似た、銀の毛並みを持つ魔物だった。おそらく、ウィルフさんも、凄まじいスピードで駆けた魔物も、同じ狼から派生したのだろう。
しかし、その魔物の銀の毛並みは、今、血に濡れていた。ウィルフさんと、シャシカさんのものである。
非常に大きなその狼に似た魔物は、ガブリと、二人を巻き込むようにして噛みついていたのである。
――助けなきゃ。
わたしは半ばやけくそに、シャシカさんが落とした短剣を拾ってその魔物に突き立てた。二人に噛みついている以上、二人にまで電流が流れてしまう可能性がある送電〈サンナール〉は使えない。
しかし、魔物の皮膚は固くて、全然刃が通らない。身体強化〈ストフォール〉で腕力を上げてもう一度、と短剣を握り直したが、魔法を発動して刃を押し進めるより先に、魔物が前足を薙いで、わたしを吹き飛ばす。
「――っ!」
鋭い爪を持っていたものの、幸い、防具に守られて大怪我は免れた。むしろ、すべるようにして吹き飛ばされたことにより、背中の方が痛い。
「――ギャィン!」
高い悲鳴が上がる。起き上がって見れば、わたしを薙ぎ飛ばしたことによって隙ができたのか、ウィルフさんが反撃をしていた。魔物の片目に、彼の剣の先が刺さっている。
ひるんだ魔物が二人を離し、のたうち回る。その一瞬で、シャシカさんは噛みつかれた腕を押さえながら離脱し、そのまま逃げて行った。小柄でスレンダーな彼女は、機動力が高く、逃げ足が非常に速いらしい。
「身体強化〈ストフォール〉!」
わたしも今のうちに、とウィルフさんを抱きかかえ、逃げの態勢に入る。
しかし、どこに逃げよう。
いくら身体強化〈ストフォール〉の魔法を使ったって、力が増すだけで体格差に変化はない。わたしの倍はあるウィルフさんを抱きかかえたまま、そう遠くまでは逃げられない。怪我をしている以上、いつぞやみたいに、ふざけた抱き上げ方は出来ないのだ。
このまま森を走っても、拠点まで逃げられるかどうか。一応印を付けては来たが、逃げながらでは冷静に確認しながらたどれない。森の中なんて、どこも同じに見える。
一度逃げて、少し時間を稼げれば、しろまるで治すことが出来る。だから冷静になれ、落ち着け、と自分に言い聞かせても、じっとりと、ウィルフさんから移る濡れた感触が、わたしの思考を焦りでぐちゃぐちゃにしてしまう。
でも、とにかくあの魔物が態勢を立て直す前にここから去らないと、と駆けだしたとき、わたしと同様に薙ぎ飛ばされたのであろう、シャシカさんの短剣を、蹴飛ばしてしまった。
――そして、それは地面を滑っていき、東の森の遺跡と呼ばれる、あの家の玄関に、カツンと当たったのだった。




