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どんな魔物が、と身構えてはみたものの、わたしには豚にしか見えなかった。ミニブタ、というよりは、家畜として飼育されるサイズの豚。ファンリュルやスパネットのように元のサイズから大きくなっているわけじゃないので、余計に魔物感がない。
でも、イエリオから魔物の解説がないということは、それほど危険な魔物なのかもしれない。耳が良くて、この距離でも声が拾われてしまうほど。
イエリオの様子を伺えば、彼の手が小さく震えていた。本当にやばそうである。
わたしは、その震える彼の手をきゅっと握りしめた。手を繋げば少しは安心出来るだろうか、と少し思ったのも事実だが、重要なのはそこじゃなくて。
「隠伏〈ロネス〉――ッ、ひ!」
魔法を発動させた本人と、その人が手にする物を一時的に見えなくし、音も匂いも完全に消す魔法、隠伏〈ロネス〉。発動した場所から動かなければ継続して隠すことが出来るので、とりあえず状況を聞くために魔法を使ったのだが――あの豚が、一瞬にして距離を詰めて、わたしたちのすぐ目の前に来た。
多分、わたしの詠唱の声に反応したのだろう。そんなに大きな声を出したとは思わないんだけど……。
「イエリオ、動かないで。動かない内はわたしの魔法で向こうから見えないようになっているから。……アレ、何?」
「……グリエバル、という魔物です」
繋いだ手を、ぎゅっと強く握りしめるイエリオは、目の前の豚――グリエバルから目を離さなかった。グリエバルはわたしたちに気がついてはいないものの、わたしがさきほど発した声を聞き間違いだとは思っていないのか、スンスンと地面の匂いを嗅いでわたしたちを探している。
「肉食で、非常にしつこい性格の魔物です。一度目を付けられたら、絶対に逃げられない、と言われるんです。……噛みつかれて、生きたまま食われる話をよく聞きますね」
――怖い。つまり、見つかったら即終わり、というわけか。
「諦めが悪く、また、小柄でスピードも早いので……ファンリュルより上位の魔物とされています」
完全に、一瞬、思考が止まった。
ファンリュルって、あの、ディンベル邸へ向かう途中で遭遇してしまった、でかいゾウみたいな魔物……だよね? あれより強いの?
……ここからどう逃げようか。
わたしは今、隠伏〈ロネス〉を使っているので、なにか新たに魔法を使うのなら、一時的に解除しないとならない。
魔法にはざっくり二種類あって、魔法の発動をし終わっても結果が残るタイプと、魔法の効果を得続けるためには、魔法を使い続ける必要があるタイプに分かれる。隠伏〈ロネス〉は後者だ。
そして、わたしは魔法を発動し続けることで恩恵を受けるタイプの魔法は、重ねて発動することがほとんど出来ない。ある程度、条件を絞っていけば不可能ではないのだが、苦手な魔法だと、普段なら何でもない、魔法の発動を終了しても結果が残るタイプの魔法でさえ解けてしまう時がある。精霊語を覚えるとき、変態〈トラレンス〉が消えてしまったように。
残念ながら隠伏〈ロネス〉を使いながら他の魔法を使うことは出来ない。
なので、隠伏〈ロネス〉を消した一瞬で他の魔法を切り替えるように発動して、逃げ去るのがいいんだろうけど……。
――果たして、今、ここまで緊張している状況で出来るのだろうか?




