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「な、なんですか、あれ――むぐ」
思わず声を上げると、イエリオさんに口を塞がれた。わたしの口をふさぐ手は、幽かに震えている。
ついで、さっと窓を閉める彼の横顔は、普段からは想像が付かないほど、真っ青になっていた。いつもは笑顔だったり、目を輝かせていたり、どんな表情でもどことなく余裕のようなものが感じられたのに、今ではそんなもの、微塵もないくらいに動揺していた。
「あれはファンリュルという魔物です。成体で、あれほどまでの大きさともなると、中級冒険者一人、特級冒険者一人では勝てるかどうか……無傷では済まないでしょう。あまり大きな声では話さないでください」
ぼそぼそと、耳の傍で、小さく説明してくれる。
勝てるかどうか、という言葉に、わたしの心臓が跳ねる。どうしてそんな魔物が。だって、この辺は強い魔物は出ないんじゃなかったか。中級冒険者一人いれば十分だったんじゃなかったのか。
「ファンリュルは南の方、それも国境近くにまれに出現する魔物っす。どうして、こんな場所に……」
まだ死にたくない、と、オカルさんが神に祈るように指を組み、ぶつぶつと、呟いた。
――あれに、魔法は効くだろうか?
死ぬかもしれない、という恐怖の中、わたしはどうしたらこの状況を抜けられるか考えていた。
人の生き死にがかかっているのなら、流石に魔法を使わず、ここで守られているだけにはいかない。ヴィルフさんとジグターさんがあの魔物を倒してくれるのが一番いいが、最悪の場合もありえるのだ。
「――! ――、――!」
外がにわかに騒がしくなる。ピンと張り詰めた空気の中、ヴィルフさんやジグターさんの怒号、あの魔物の物と思われる雄たけびが聞こえてくる。
魔法が使える以上、わたしはイエリオさんとオカルさんよりは戦力になるはず。
今飛び出て行って戦闘に加わるのは悪手でも、最終ラインとしてわたしはどう魔法を使うのか、考えないといけない。
今、わたしはシーバイズの文化を細々と受け継いだ他国の一族、という設定。なら、一つか二つは魔法が使えたって、誤魔化すことは出来るだろう。
しろまるの紙は持ってきているので、治癒魔法は使える。魔法を使うなら、これを隠すわけにはいかない。
だとしたら、攻撃として使う魔法は一つに絞らないといけない。
南の方の魔物だとしたら、熱に強いだろうか? いや、生物なのだから、最悪呼吸を止めてしまえばどうにでもなるはず。
……水属性の魔法は苦手なんだが、そんなことも言ってられないか?
水を生成する魔法なら、生活の術として身に着けている、という言い訳も出来る。魔物の頭を水球で覆えば倒せるだろうか。
なるべく派手じゃない、生活感のある魔法であの魔物を止める方法を、と考えていると――。
「ひ」
パッと少し重い音がしたかと思えば、屋根として荷車の上部から側面を包んでいる布に何かが付着した。いや、何かじゃない。色と匂いで、血だと分かる。
誰の血だ。
ジグターさんか、魔物のものか、それとも――ヴィルフさんのか。
血だまりの中に倒れ込む、フィジャの姿が、頭の中でフラッシュバックする。
ああなっていたら、どうしよう。
わたしの口をふさぎ、わたしを抱え込むようにしたまま固まっていたイエリオさんを振りほどき、わたしは再び窓をあけた。




